釈摩訶衍論の不二摩訶衍は、まあ、中観思想における自立論証派と帰謬論証派の議論と似ているところがある。
依言真如、絶言真如、それらを超える不二摩訶衍。
要は、離戯論の議論なのであるが、チベット後期中観思想、ツォンカパ大師の説かれてある離戯論にはやはり遠く及ばない。
なぜか?
大乗起信論、釈摩訶衍論、起信論周辺における議論においては、空と縁起の理論がかなり疎かになってしまっているのと、ベースにはやはり本覚思想が控えてあるからである。
その本覚思想も内実はかなり強烈なもの。この本覚思想に、特に鎌倉仏教は少なからず影響を受けてしまっているのである。
依言真如、絶言真如、それらを超える不二摩訶衍。
要は、離戯論の議論なのであるが、チベット後期中観思想、ツォンカパ大師の説かれてある離戯論にはやはり遠く及ばない。
なぜか?
大乗起信論、釈摩訶衍論、起信論周辺における議論においては、空と縁起の理論がかなり疎かになってしまっているのと、ベースにはやはり本覚思想が控えてあるからである。
その本覚思想も内実はかなり強烈なもの。この本覚思想に、特に鎌倉仏教は少なからず影響を受けてしまっているのである。