定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

オタマジャクシもこれだけいると

2008-04-30 01:00:06 | Weblog
一瞬なんだろうと思って良く見ると、この黒い塊は、全部オタマジャクシなのである。
浮き草の間には、10センチほどのフナもいる。
ここは、花フェスタ公園の中の温室の脇にある庭園で、屋外の池である。
谷間のような場所に、もともと谷水がたまってできた浅い池だった。
湧き出した谷水が温室の中を抜けて下のほうの大きな池に流れていくという設計になっている。
整備される前にも、この水たまりには、最近では珍しくなったメダカが群れていたが、この写真を撮ったときのようなオタマジャクシの群れは初めてみた。
これみんなカエルになるのだろうか。
カエルと言えば、畑を耕していると、土の中にもぐっていたカエルが耕運機にかき回されて、びっくりして出て来る。
可哀想なのだが、最近は、私が耕運機を持ち出すと、何処から見ているのか、カラスが舞い降りて来て、耕している後を付いて廻り、耕運機でかき回されて驚いて出て来るカエルが、太いくちばしで突つかれて、やがて食べられてしまう。
このカラス、初めは警戒して、距離を数メートルはとっていたが、最近はもう30センチも離れていない。
耕運機の回転のすぐ近くで、カエルが飛び出すのを待っているのである。
この間などは、足を曲げた格好でも直径20センチぐらいあるウシガエルがカラスに背中を突つかれて傷ついていたが、結局食われてしまった。
足を伸ばせば25センチにはなろうかという巨大なカエルである。
カエルが出始めると、このカエルを食う蛇が畑の中を動き始める。
土手を歩いていると、にゅるにゅると蛇が動いて行く。
土手の草を常に刈り取っておかないと危険である。
おとなしい蛇もいるが、マムシのような攻撃的なやつもいる。
ときどき、イスに座って昼寝などしていると、大きなスズメバチが飛んで来るから、これも注意しないと。
最近は見かけないが、夏になると芝生の中を黒い塊が動いて行くのが見えることがある。
アリの大群がかたまって移動しているのである。
これからの季節、いろんな命が観察出来るから楽しい。

タンポポの綿毛

2008-04-28 23:47:33 | Weblog
野原にいっせいに咲いていたタンポポもいつの間にか、綿毛を付けた。
先のほうに種を付けた綿毛が、これから、5月の西風に乗って遠くへ散らばっていく。
5月は、畑の道具小屋の前に座っていると、そよ風に乗っていろんな綿毛が飛んで行くのが見える。
じっと見ていると、実に多くのものが空中を風に乗って飛んで行くのが見える。
虫やミツバチも飛んでいるし、長い糸を付けたクモも飛んで行く。
蝶は、花から花へと飛んでいるだけではなく、かなり上空を驚くようなスピードで飛んで行く。
タンポポの綿毛は、軽い種をかなり遠方まで運ぶことができる。
草花の多くは、こうして初夏の西風を利用して繁殖しているのだろう。
セイタカアワダチソウも粉をまき散らして風に乗って遥か彼方まで飛んで行く。
その伝搬力は相当なものである。
タンポポに綿毛は、まん丸で、意外に直径が大きい。
タンポポはきれいな花だと思って、そのままにしておくと、根を地中深く伸ばして、翌年は、その根から芽を出して、花を咲かせる。
綿毛で種が運ばれて、土に落ちて発芽するだけではないのである。

昭和7年生まれの死

2008-04-27 23:31:26 | Weblog
昭和7年生まれの長兄が急死したという連絡で、でかけていて、昨日はこの日記が書けなかった。
この年代の人たちの生涯は、波瀾万丈というより,明かに戦争犠牲者である。
まだ敗戦の年は、中学生だったから、身体を作り一番重要な時期に、栄養が採れなかっただけでなく、そんな年齢で、学校ではなく、工場できびしく働かされた。
兵隊に取られるにはまだ若すぎたから、徴兵にはならなかったが、学業の代わりに工場での勤労奉仕が待っていた。
蒸かし芋を食べて、厳しい労働に堪えたのである。
同じ年齢の別の友人は、名古屋に住んでいたが、小学校高学年のときに学童疎開で西尾のお寺に疎開させられた。
寺の本堂で寝起きし、農作業の手伝いが主な仕事で、学業はほとんど行われなかったという。
その友人は数年前に死亡したが、疎開の最中、時には親が疎開先に子供たちに会いにくるのに合わせて、乏しい食事の中の蒸かし芋を隠しておいて、会いきた親にそっと渡していたという。
当時はこどもを地方に疎開させた親たちも食うや食わずの生活をしていて、そのことを知っている疎開児童が親にそうやってわずかな食料を渡していたのである。
敗戦で学校制度が激変した。
新しく6、3、3、4制が始まり、小学校6年、中学校3年、が義務教育で、その後高校3年、大学4年という現在の制度である。
しかし、慌てて作った教育制度の混乱期では、まともな授業はほとんなく、毎日自習だったという。
つまり昭和7年生まれは、新制高校の第1回目の卒業生であるのだが、高校での授業はまともに受けていないんである。
それでもなんとか大学を終えたところで、学園紛争の時代である。
大学の自治と警察権力の衝突で、この地方では愛大事件が起きた。
その結果、当時の愛大卒業生は、就職の機会を奪われた。
大学を出ても、就職できなかったのである。
当時の愛知大学は、革新的な教授陣が活躍していて、したがって大学の自治を守る気概が横溢していたから、学生民主主義的意識は高く、権力と対峙する学生自治会の活動も活発だった。
その自治会活動を常に監視していた警察官が学内に侵入したのを発見した自治会の委員がその侵入警察官を捉え、警察手帳を取り上げうえ、身柄をしばらく学内に留め置いたことが警察権力と大学の自治の対立となったのである。
残念ながら当時の国民の意識は、まだ国家総動員態勢の呪術から逃れるまでに至っていなかったから、愛大生というのはとんでもない跳ね上がり学生という感覚だったから、そのような学校の卒業生は受け入れられないという企業のレベルでもあったのである。
歴史に翻弄されるとはいえ、歴史を作るのは、それぞれの時代に生きた人々なのである。
歴史は人々によってどういうふうにも作ることができる。
どういう歴史を作ろうと思い、実際にそのような歴史をつくる努力をしたのかが最も大切なのだが、歴史の片隅で不当な扱いを受けたまま、消えて行く大勢の昭和7年前後生まれの人々がいま、他の年代に比べてもっとも死亡率が多いのでは、という実感がする。

 


壺石?

2008-04-26 00:07:05 | Weblog
先日、多治見の陶器まつりにでかけたときに、土岐川の河原に降りて、河原の石をなんとなく見て歩いていたら、写真のような石が見つかった。
よく見ると、鉄分を含んだ砂が固まって、その砂の間に丸い石を挟み込んでいる。
これって、東濃地方で産出する壺石ではないかと直感した。
何でも多治見市と土岐市の境にある神明峠付近で山の土の中から採れる壺石は、天然記念物に指定されているそうである。
一見よくわからないが、鉄分を含んだ粘土が周りの丸い石を巻き込んで固まってしまったのが、今から500万年から150万年ほど前といわれている。そういう地殻変動が起きた東濃地方のごく狭い地域に今でも壺石が発見される。
石と一緒に固まっているから、見たところわからないが、石を一つ取り外して、中の砂の固まりを取り出してしまうと、中が空洞になる。
うまく砂を取り出すと、その空洞に水を入れれば花瓶代わりになる。
ある説によると、そうやって古代人が壷石を容器にしていたのではという人もいるらしい。
その壺石の一部分ではないかと思われる写真の石である。
 

中山道の初夏

2008-04-25 00:48:33 | Weblog
去年の同じ日に歩いた中山道の山の中の小さな集落である。
峠を下ったきたら、突然それほど広くない盆地に数軒の民家が寄り添うように建っているが現れた。
旧中山道の道路沿いに華やかな色彩の花が咲き誇っている。
ここまで来る途中には、あちこちの狭い谷間に田んぼが作られ、まだ4月だというのに田植えの準備が終わって、谷水が溜められていた。
新緑の山並みと満水の田んぼ、静かな山の中の。
野鳥のさえずりが聞こえ、薫風が木の葉や竹の葉を揺らしているだけで、静寂が支配していた。
歩いている人たちの話し声も、景色の中にとけ込んでしまい、すぐに小鳥のさえずりだけの世界になってしまう。
こういう景色が、桃源郷というのだろうか。
中山道は、幸いなことに軽トラックが通れるほどの道幅が延々と続いていて、こういう集落には軽トラックで住民が入れるようになっている。
その細い中山道沿いにある集落には、近くの国道19号線から片側1車線の舗装道路が連絡してるから、ここは現実には桃源郷などではなく、街に働きに出ている人たちの住宅なのだろう。
でも、うらやましくなるほど美しい住処である。

カラスのエンドウ

2008-04-23 23:17:21 | Weblog
いよいよ畑も雑草との長い闘いの季節に入ってきた。
もうすっかり緑色の絨毯の覆われていて、この時期に頻繁に草刈り機を働かせないと、草たちの勢いに人間は完全に負けてしまうことになる。
本当は草刈り機では精々1週間持てばいいほうで、それ以降は元に戻ってしまい、もうお手上げである。
初夏の雑草の中でももっとも勢いがいいのが、カラスのエンドウと呼ばれている草で、紫に近いピンク色の花を咲かせるが、これが猛烈な勢いでテリトリーを広げて行く。
地面から30センチほどの高さまで覆ってしまう。
この草は、3センチから5センチぐらいの鞘を付ける。
鞘の中には小さな豆が入っているが、鞘を上手に片方だけ裂いて、中の豆を取り去り、ふっくらと膨らんで鞘の一方を切り取って草笛を作って遊んだ昔を思い出す。
やわらかなうちではなくて黒く変色する少し前、鞘がこわばってくる頃が一番いい。
最初は、息で吹いても、ふーという音が出る程度だが、何度も繰り返しているうちの、ピーという鋭い音が出るようになり、間もなく、曲を吹けるようになる。
カラスのエンドウだけしか知らなかったが、同じような葉が繁るが少し小さな花が咲くものがあるが、これはスズメのエンドウだという。
なんでカラスでなくスズメなのかという理由はよくわからないが、調べると、カラスよりも小さな花が咲くからだという。
花の大きさがカラスとスズメの中間ぐらいのものもあるが、それはカラスとスズメの間という言う意味で、カスマ草というそうだが本当だろうか。

エンドウの白い花

2008-04-23 00:45:26 | Weblog
長い冬の季節を乗り切って、エンドウ豆の葉が大分広がってきて、もう花を咲かせ始めている。
白い花である。
竹林から持ってきて、支柱を立てて、2週間ほどしか経っていないが、このところの暖かさで、ぐんと伸びてきた。
最初の花が咲いて、4、5日すると花びらが萎れて、その後から小さな鞘ができてくる。
もっと暖かくなると2、3日で、鞘が5センチほどになる。
鞘の中の豆がまだ全然膨らんでいないうちに、この鞘を切り取って食卓に載せる。
別においしいというものではないが、わずかに甘みがある。
初夏の食卓に彩りを添える野菜である。
エンドウは、前の年の晩秋に種を蒔く。
その年のうちに芽を出し、そのままほとんど成長せずに冬を越す。
厳しい冬は、霜柱をつくり、やわらかなエンドウの小さな芽は、霜柱とともに土から離されて細かい毛細血管のような根が土から切り離されてしまうと、刈れてしまうから、生き残ったエンドウの強い生命力に感心してしまう。
タマネギも冬を越すが、タマネギの葉は、エンドウのように薄くて柔らかくない。
籾殻や籾殻を焼いた灰を根元にかけてやり少しでも寒風をやわらげてやろうとするが、そんなことでは、寒さは防げないだろうから、農家では、今は真冬でも暖かいハウスで野菜が作られるのが普通になってしまった。
しかし、農家でもなく、趣味的に野菜作りをしている週末菜園では、ハウスは邪道である。
それどころか農薬もほとんど使わないから、あまり出来はよくないが、それでも、スーパーに並べられている野菜とそんなに見劣りがするわけでもない。
肥料もときどき振る程度で、ちゃんとできる。
肥料をまったくやらない土手にも雑草は猛烈な勢いで繁るから、土に栄養がないわけではなさそうである。


世間の常識と判決

2008-04-22 01:12:13 | Weblog
誰もが常識と思っていることが、永い歴史もある日本の戦後司法ではなかなか判決文となって残らなかった。
まもなく裁判員制度という画期的な裁判が始まるが、これは刑事裁判だけのことである。
殺人だとか強盗だとかいう刑事事件は、キャリア裁判官による裁判だろうと、裁判員裁判だろうと、刑法に違反する事実を明るみに出して刑法に基づいて処罰する結論にはあまり大きな違いはない。
もちろんえん罪は存在したが、それは法律家たちの怠慢の結果である。
日本の精緻な刑事法体系を時間をかけて十分検証して,事実に当てはめ、科学的な証拠に基づいて常識的な判断を模索すればえん罪はほとんどなくなる。
日本の裁判に民意の反映が必要なのは、刑事事件よりも民事事件である。
民事的な紛争が刑事事件を引き起こすことは、だれが見ても明らかだし、政治的な紛争が常に刑事的取り締まりを誘発するのも明らかである。
国民の幸福に直結する一番大きな問題は経済問題や政治問題であるのに、ようやくできた裁判員制度が一部の刑事事件の裁判だけにとどまってしまったのは残念である。
少し前まで、専守防衛をスローガンにしてようやく存在を維持していた自衛隊が,いつのまにか国際貢献の名の下に世界に展開している既成事実が、いまやイラクという戦闘地域にまで展開し一方当事国の戦争行為に直接共同作戦行動をおこなっていたのに、政権党は、これを憲法で認められた行動だと言い続け、マスコミを初めとする日本国民も実は変だと思いながら流れに棹をさすことをしなかった。
司法もまた、現実追従の流れに流され、国民の常識を判決文に書くことをためらってきた。
国民の常識が裁判の場に反映するシステムを作っていくには、すべての裁判を裁判員制度で行うことが必要である。
菜園だよりにはそぐわないが、たまには固いことも書いてみた。

水温む初夏

2008-04-21 00:45:50 | Weblog
2、3日前から急に若葉が萌えだしている。
雨が新芽を誘い出したのか、もやっとした新緑が山々を覆いだしているのである。
やはり4月も末になると、新緑の季節に入ってくる。
畑の端を流れている小さな流れも明るい太陽の光にきらきらと輝いて、いままでは冷たくと手を入れてたまった砂をかき出すことがつらかったが、短い時間なら水の中に手を入れられるようになった。
この小さな流れは、崖の途中からしみ出しているのか、きれいな水である。
沢ガニがいることからもきれいな流れだとわかる。
数年前に崖の上を整地されてしまって、埋め立てられ、崖の奥の方まで続いていた渓流がなくなってしまった。
それまでは、このきれいな流れを利用して、60坪ほどのミニ水田を作り、稲を育てていた。
山間の小さな田んぼといった風情のミニ水田で、自然の谷川から水を引き、田植えも手で植え、稲刈りも鎌で刈り取り、はざ掛けも作って乾燥させ、脱穀だけは小型の脱穀機を動かしてくれる人の協力で脱穀した。
田植えや稲刈りには、仲間や近所の人たちが集まって一日お祭り騒ぎだった。
そんな小さな田んぼでの米作りも、無粋な崖の造成で下から見上げていた竹林が取り払われ、ブルが動き回って宅地化されて、そこにパチンコ店が作られた。
崖の下でささやかな米作りがされていることなどまったく無視されて。
埋め立てられた渓流には、直径30センチくらいの管が埋められそこから谷水が流されるようになったが、出てきた水は真っ赤な水である。
3年ほど赤い水が流れていたが、最近ようやく赤い水や赤い泥がなくなり、ようやく元のきれいな水に戻ったようである。
姿を消していた沢ガニも少しずつ戻ってきた。
その流れが写真である。

牧場

2008-04-20 00:54:39 | Weblog
数年前の5月、さわやかな薫風に吹かれながら数時間を過ごした牧場である。
気候にめぐまれた日本では、よく手入れすれば見事な牧場は容易にできるが、山岳地帯の多い日本では、牧畜は発展しなかった。
食生活が肉食でなかったことも幸いしたのだろうか。
気候の悪さもあるが、欧米の国土は平坦地が多いために広大な草原で牧畜が発展した。
イギリスの典型的な風景は、広い高原に放牧された羊の群れであり、アメリカの光景も草原を駈ける牛馬の群れである。
日本でも規模は小さいが、農家の屋敷内ではニワトリやウサギが飼われ、同じ屋敷内に馬小屋や牛小屋があった。
もっと前には、同じ屋敷内どころか、同じ母屋の中に牛や馬が同居していた。
大きな母屋に入ると、そこは土を固めた土間になっていて、コンクリートのように固くて冷たい感じではなく、やわらくて、ふんわりとした感触だった。
夏、裸足で歩くとひんやりとして気持ちがよかった。
たたきと呼ばれていた土間から高い縁側を2段上がると、畳の部屋が幾つも続いていた。
各部屋は、重い板戸や障子で区切られているが、その区切りを全部外すと40畳ほどにもなる大きな空間が広がった。
大勢の人が集まる機会の多い田舎での機能的な建物だった。
入り口の部屋の隣は、大きな囲炉裏のある板の間で、ここで作業や食事が行われた。
板の間の向かいには、洗い場と井戸、くどと言われた釜があって、ここで煮炊きが行われ、その裏側には風呂があった。
風呂の焚き口は、外にあり、煙が家の中にこもることがないような設計になっていた。
便所も外に別棟になっていたが、これは匂いを家の中に入れないようにすることと、糞尿を回収して畑の肥料にするために汲取口は完全に屋敷の外側に向いていた。
こんなことが次々と思い出される牧場の風景である。

噴煙?

2008-04-19 01:31:32 | Weblog
春雨の降る日、高台の丘にある陶磁器資料館に車を止めて、ふと見ると、遠くの山並みに灰色の煙がまっすぐに立ち上っている。
一瞬異様な煙である。
雲がたれ込めているので、立ち上っている煙が上空の雲の中にとけ込んで、竜巻のようである。
確かあのあたりには火葬場があったと思えたが、それにしては、煙が高く上がりすぎている。
空気がよどんでいると、火葬の煙はこんなに立ち上るのだろうか。
土岐市の山の中には核廃棄物の処理場が作られるという実験が行われている。
地下数千メートルの穴の中に、残留放射線の核廃棄物を埋める計画である。
ここが選ばれたのは、万一大規模な地震が起き、地下の地盤が大きく変動して、核廃棄物の貯蔵庫が破壊されて、放射線が地上に漏れだすことがないような地盤の固い場所だという理由である。
なんとなく異様な煙なので、不気味な光景である。


一本桜

2008-04-18 01:14:08 | Weblog
去年だったか、NHKで毎朝やっていたテレビドラマの背景に岩手山を背景にした草原の一本のサクラが満開になっている風景があった。
それが全国的に有名になったが、モデルは小岩井農園のサクラで、それからは、観光バスが押し掛ける名所になった。
このサクラ、毎年満開になるのあ、大体4月の20日ごろだというから、もうまもなく満開である。
一本桜というのは、全国各地にあり、桜の古木は,大抵一本桜である。
桜並木の桜もきれいだが、一本の古木に咲く満開の桜も美しい。
桜もがんばっているが、その桜を懸命に支えている人間たちがいるのも好ましい。
子供の頃、町外れの田園地帯を流れる川の土手に松の木が一本生えていた。
周りは広々とした田園で、遠くからでもその松が見えた。
一本松と言われていた。
古木で、夏、子供たちがすぐ傍の堰で川の水を止めて、田んぼの水を引いている深みで水遊びをしたり釣りをしたりして、暑さを避けて一休みする木陰として最適な場所だった。
ところで、以前会津地方を旅行したときに、二本松というところがあった。
二本松城という立派な城趾のあるところで、菊人形で知られているところらしいのだが、二本松というのは、どういう由来なのだろう。


混血桜?

2008-04-17 00:26:47 | Weblog
この桜、どういう種類なのだろうか。
一本の木に赤と薄いピンクと白が混在しているのである。
普通、桜の花は、木全体に同じ色の花を咲かせる。
この木は、一本の木に、三色の色の花を咲かせているのである。
毎年この桜の咲く時期に、多治見の陶彩の道を歩くが、土岐川の鉄橋があった辺りの線路下の民家の庭にこの桜が咲いている。
今年は、別のところでも見つけた。
その桜は、白と赤の二色だったが、明確に半分に分かれていた。片側半分が白色、片側半分が赤色だった。
どうやらわざと作ったものらしいが、どうやってつくったのだろうか。

菜の花畑

2008-04-15 23:13:17 | Weblog
最近では、こういう見事な菜の花畑は珍しくなった。
ここは、美濃加茂市にある日本昭和村である。
東海環状線の道の駅にもなっていて、環状線から直接駐車場へ入ることができる。
東海地方には、江戸村、明治村、大正村、昭和村とそれぞれの時代の村がある。
さすがにまだ平成村はないが、これらの中では、明治時代の建造物を集めた野外博物館である明治村が一番充実している。
明治村の近くの山の中には、リトルワールドという主としてアジアの家屋を集めた野外博物館もある。
これらの施設を見て歩くには絶好の季節になった。
日本昭和村は、昭和時代の前半がコンセプトになっているらしい。
昭和生まれの世代は、1925年生まれから始まるから現在では83歳になる。
彼らが15歳になったころ、太平洋戦争が始まり、戦争という世界に巻き込まれて行き、多くの若者の命は国のためという名目で犠牲にされて行く。
20歳になったとき廃墟となった街に親や兄弟を失って浮浪児としてさまよった。
25歳になったころには、集団就職で農村からかき集められた中学を卒業したばかりの少年少女たちとともに、夜昼なく働かせられ、働くだけの生活が続いた。
このころの日本人の平均寿命は人生50年の時代だった。
政治の時代もあったし、社会の混乱もあった。
時代の狂乱に翻弄された世代である。
今から考えると疾風怒濤の時代を生き抜いた世代と言ってよい。
この世代のジュニアたちが今、つぎつぎと定年を迎えている。
ジュニアたちもまた安定した時代に育ったわけではない。
膨大な数となったジュニアたちは、弱肉強食の世界に放り込まれ、競争と効率優先の社会で揉まれる人生を送った。
この世代は定年後も息抜きのないさまざまな社会制度が予定されている。
福祉や医療や年金や介護などの社会的サポートが年々後退して行く。
これらのサポートの充実を求めて働き続けてきた挙げ句の結果がそうなのである。



崖の上の喫茶店

2008-04-15 00:02:52 | Weblog
合掌造りのような形の家が、下からみると崖の上に聳えているように見える。
写真の家の向こうは、広く開けた高台で、眼下には、アウトレットモールが見える。
遠くには、恵那山や御岳山が見えるという贅沢な景色であるが、この建物、喫茶レストランなのである。
国道19号線が神明峠という峠から分かれて、東海環状線に入る取り付け道路脇の高台にある。
ギャラリーとレストランがあり、レストランの戸を開けて入ると、大きな囲炉裏が置かれてあった。
カウンター席の横を通って奥に行くと、ログハウス風の別室があり、窓の外は、むき出しの山肌である。
このあたりは、太古の時代、海岸だったので、山肌の土に混じっている石は、すべて丸い石である。
すぐ近くには、天然記念物に指定されている壺石が算出されるところである。
壷石のほかに、土岐川水系の支流からは、鮮やかな緑色をした石がまれに発見されることがある。
この土岐石は、勾玉に加工されて発掘されることもある。
この土岐石というのは、地元でもあまり知られていない。