定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

千畳敷のカモメ

2008-02-28 23:49:43 | Weblog
津軽半島の付け根のところにある千畳敷の岩浜で見たカモメたちである。
日本海に突き出た平らな岩場が相当広い。
千畳敷と言われているのもうなずける。
西風の強い日は、日本海の荒波が押し寄せて、岩場に立つこともできないが、初夏になって海が穏やかなこの日、潮も引いて、姿を表した岩盤の上にカモメが休んでいる。
休んでいるのだろうと思うのだが、なぜかみんな同じ方向を向いている。
海にただよっているカモメも、そういえばたくさんの数が、同じ方向を向いている光景が多い。
風上に向いているのだろうか。
そういえば、集団でいる鳥たちは、実に統制がとれていて、数千羽もいると思われる大群でもよくぶつからないで飛べるものだという感じである。
菜園の上空を秋が深まると、雁が北に向かって飛んで行くが、先頭を飛ぶ1羽を頂点にしてきれいな三角形を描いて飛んで行く。
土岐川に居座っている川鵜も移動するときは、集団を組んで見事な隊形を作るが、川面に降りてしまえば、各自別々の行動をとっている。
カモメはその点、海面でも岩場でも、どこにいても同じような行動をするのだろうか。
ばらばらな行動が個性だというような感じの人間とは厳しい環境に生き抜く鳥たちは大分違うような気もしてくる。

蕪の葉を楽しむ

2008-02-28 00:54:16 | Weblog
畑には、今、取り残しのダイコンや蕪、ハクサイなどが結構残っている。
もう1、2ヶ月すると、こういう冬を越した根菜たちが、最後の力を振り絞って、花を咲かせる。
この緑を台所で楽しむのは実に簡単である。
葉の付いた頭の部分を切って、容器に入れて、水を差しておくだけでいい。
初春の象徴である菜の花は、菜の花という一種類の植物ではないということを知ったのは、野菜づくりを始めてからである。
花を咲かせるということは、種を残すための営みで、咲いた花をそのままにしておくと、やがて種が出来る。
野菜づくりをさぼっていて、収穫の残りの野菜を枯れるまでそのままにしておくと、種が出来るのである。
昔の農家は、野菜の種はこうして採種していた。
今は、野菜づくりも、春になってからホームセンターや種苗屋さんで買ってくるから、こういう自家採種の種ということはあまりしなくなったが、かっては自家採種が当たり前だった。
こういうやり方で、農家は自分の育てた野菜が、自家だけの特徴を持っていることに誇りを持っていたのである。
いまでも、近所で評判のおいしい野菜の種が、頼まれて知り合いの野菜農家に広がっているところも残っている。
私の野菜づくりの師匠のところのサトイモは、柔らかくておいしいという評判で、毎年種芋を近所の人が待っているのだという。
野菜づくりを始めた当初から、私も、そのサトイモの種芋を譲ってもらって、育て、友人や親戚に毎年送っているが、たしかに評判がいい。
かって、日本の田んぼでは、二毛作として、麦か菜種を植えていて、一年中田んぼは色彩に溢れていたが、今は、初夏から秋にかけて稲作の穂並みが風になびくだけで、あとの半年は、土の色しか広がっていない。
野菜が植わっていない田んぼには、水も流れておらず、従ってそこに棲むコブナや、ナマズの子や蛙やハヤやメダカやザリガニなども完全に姿を消してしまった。
野山や田んぼを駈ける子どもたちの歓声がないのも仕方がない環境である。

浅間山から見下ろす

2008-02-26 23:46:55 | Weblog
私の住んでいる住宅団地から道一つ挟んで別の住宅団地の中を抜け、林の中を歩いていくと、そんなに急坂でもなく、雑木林の林道を歩いて、標高300メートルほどの山の頂きに行ける。
その頂上から後ろを振り向くと、眼下に団地が広がっている。
1万人ほどの人口を持つこの団地、団地だらけの可児市の中でも、飛び抜けて大きな団地である。
地理的に言うと、可児市域というよりも多治見市街に近い。
写真の手前に密集している住宅も、写真では見えないが、左手に続く住宅も多治見市内の団地である。
上から見ると、ひとつの団地だが、道路1本隔てて可児市になっているのである。
30年ほど前に開発されて、しばらくはあまりの交通の不便さにそれほど建物が増えなかったが、バブルを経て、徐々に増えて行き、今では名古屋の栄や名駅に高速道路を利用した直通バスが走るほどになっている。
浅間山は、登りやすさもあって、格好のウーキングコースなのだが、団地が広大なので、団地の周りを1周するだけで1時間は掛かり、ちょうど手頃な距離なので、ウオーキングの人たちは、平地である団地の道路を歩いている。
周りをゴルフ場に囲まれているこの団地、自然環境を守るという開発業者の考えもあって、なかなか規制が厳しく、高層の建物もなく、各戸の敷地の境界は石積で、最近まで、車1台分しか石積を壊せなかった。
おかげで、人口の多い割には、静かな環境と、ふんだんに植えられた街路樹、それに厳しく限られた少数の商店しかない。
ほとんどの家には、車があり、近頃では一軒でも3台も持っているところもあって日々の買い物にも困る事はない。
しかし、どこの団地でも同じだが、住民の高齢化が進んでいる。
団地の中央に大きなスーパーがあり、買い物をする高齢者が増えてきた。



そんなに古いことではない

2008-02-25 23:33:59 | Weblog
小さな身体で、葦だろうか、稲わらだろうかほとんど身体全体が隠れてしまうほど背負っている。
古い写真集を見ながら鉛筆で描いてみた。
一年のうちでも最も寒さが厳しいこの時期、北風が冷たいので、畑にも行けず、長い一日を過ごすのに近頃やっているのは、水彩画と鉛筆画とステンドグラス作りである。
この鉛筆画の光景は、子供頃の風景のようでもあり、どこにでもあった光景である。
今から思えば、なんか遥か昔の山村のようでもあるが、昭和15年生まれが脳裏に刻み付けている風景である。
昔の母親は小さかった。
小さな身体でいつも働いていた。
食事も貧しく、便利な生活道具もなかった。
ほとんどの母親は、働き手の夫を兵隊に取られて、子供たちを必死で育てていた。
子供たちは、かろうじて戦後の物質的な豊かさを経験して、少しは豊かさの一端をかいま見たが、子供たちの母親は、そんな経験もなく世を去って行った。
父親は戦争で殺され、母親は極貧の中で一生を終える、そんな両親を持ったのが、昭和20年代までに生まれた世代である。
しかし、この母親の笑顔はどうだろう。
たくましさが伝わってくる。
たくましい母親に育てられた子供たち、疾風怒濤ともいえる時代に生きた昭和20年代までの世代は、この光景を忘れてはいない。

春まじかな犬山城

2008-02-25 00:53:38 | Weblog
国宝犬山城は、最も古い城だそうである。
近くにある岐阜城や小牧城、名古屋城などと違って、コンクリート造りの博物館ではなく、何度か改修はされたようだが、木造のいかにも古い天守を持つ日本の城である。
中国や朝鮮の城と似てはいるが、日本独特の建築様式である。
日本には実に多くの城があり、それぞれの城にはそれぞれの歴史がある。
戦争のためだけの城、砦だったころから、城下町を有し、安定した領地経営のための本社社屋という感じになって行った城が多く、領主たちの武力争いで焼け落ちた城というのは意外に少ない。
天守閣は生活空間ではなく、どう見ても戦の際の物見台か、負け戦のろう城の最後の砦といった感じの空間である。
普段は、城郭内の屋敷で生活していたのだろう。
犬山城の天守から見た木曽川は、ここが広大なの濃尾平野が山地に入って行く入り口であるということが分かる。
人類が発生する前の古い時代には、このあたりは、海だったようである。
すぐ近くには、小牧城が平野の真ん中にぽつんとある小高い丘の上に建っている。
犬山城と小牧城を挟んで、信長の後継争いで秀吉と家康が対峙した小牧長久手の戦いが有名だが、この戦いは結局うやむやのうちに双方が撤兵した戦だったという。
犬山城の下に、鵜飼舟の港がある。
港と言っても、舟溜まりのようなものだが、岐阜城の下の長良川の鵜飼ほど有名ではないが、犬山でも鵜飼が行われている。


アウトレットモールの夕日

2008-02-23 23:50:51 | Weblog
東海環状線の土岐・多治見インター付近に近づくと、山の上になにやら教会のような建物を中心に建物群が見えてくるが、3年ほほど前にできたアウトレットモールである。
国道19号線の神明峠からもすぐ近くなので、畑から早めに帰るときに、ときどき寄ることがある。
アウトレットモールというのは、どういう意味なのか分からなかったが、有名ブランドの在庫処理店という意味らしい。
いくら交通の便がいいと言っても、どうしてこんな山の中に大勢の買い物客が訪れるのか不思議なのだが、駐車場はいつも満車状態である。
それでも夕方になると車も少なくなってきて、夕日が山並みに落ちて行く光景がきれいである。
多治見と土岐を隔てている峠の土岐市側にあって、土岐市街が遠くに見え、さらに遠方には、恵那山や中央アルプスも望める景色のいい場所である。
今の時期は、夕日が落ちるのは、6時少し前で、空気が澄んでいるせいか夕焼けが一段ときれいである。
畑から19号線を土岐市方面から多治見方面に走っていると、道路は東から西に走るので、落ちて行く巨大な太陽がちょうど車の前方から射してきて、車の日よけよりも下から射し込んでくるので、信号も見えなくなる。
前を走る車の走り方を頼りに走るということになってしまう。

ジャガイモの種芋を購入

2008-02-22 23:48:06 | Weblog
今日は風もなく、気温が16度もあって外にいてもぽかぽかと暖かい一日だった。
こういう日は、畑で、剪定した枝を燃やすには最適な日なので、午前中にでかけた。
車で20分ほどのところにある菜園には、大きくなりすぎた生け垣や庭木の枝を大胆に剪定した枝があちこちに山積みになっている。
畑の真ん中で大きく枝を張って日陰を作ってくれていた桑の木も、この冬、思い切って伐採したのも積まれている。
葉の付いた枝は油分があるのかぱちぱちとよく燃える。
5カ所に積まれているのを三日かかって1カ所分燃やした。
早く燃やしてしまわないとこの暖かさだとすぐに草が生えてくる。
草が生え始めるころになると、結構南風が強い日が多くて、たき火は危険でなかなかできなくなる。
冬は空気が乾燥していて、剪定した枝の乾きが早い。
それに落ち葉もかき集めると以外に多い。
たき火で燃やすものが多いのである。
畑に行く途中のホームセンターで、ジャガイモの種芋を購入した。
最近は、もっぱらジャガイモの種芋はホームセンターで買うことにしている。
農協の店舗だと男爵とメークインしか売っていないが、ホームセンターは10種類ほどの種芋を売っているから、めずらしい品種を少量ずつ植えてみるのも面白いからである。
昔からこんなにいろんな種類があったのか知らない、ジャガイモは男爵とメークインしか日本にはないと思っていたのだが、5、6年ほど前から種類が増えてきて、今年は10種類ぐらいの種芋を売っていた。
3月に入ると、最初にやるのがジャガイモの植え付けで、その前に、石灰を撒いて一週間ほど置いた後、一冬休ませた畑を管理機と言われている小型の耕耘機で耕す。
それが終わると、冬を越したエンドウが急にのびてくるから、支柱を立てる。
春野菜づくりが始まるのである。


なんでこういうことを!

2008-02-22 00:12:26 | Weblog
堤防から3メートルほども離れた川の中に捨てられた古い型のテレビである。
中州で囲まれたところで、流れが淀んでいるうえに、このところ雨が降らず、流れが弱いので、川底はただでさえ泥が溜まっていて、本流と比べて、なんか汚れた川に見えるが、水位が上がればきれいな流れである。
10年ほど前は、堤防から電気製品がところかまわず放り込まれていたが、車が1台通るのがやっとの堤防道路なので、散歩コースとしては絶好のところだから、散歩している人からすぐに市役所に連絡が行く。
放置しておくと、見る間に廃棄物が溜まってしまうから、市役所の仕事としてはめずらしく1、2週間のうちに片付けられていた。
そこにまた堂々とテレビが捨てられている。
なんでこういうことが平気でできるのだろう。
もう1週間もそのままになっている。
東濃地方は、低い丘陵地帯で、市街地以外の山中には狭い山道みたいな舗装道路が四通八通している。
そういう道路は、車の通行もほとんどないから、これ幸いとばかりに車に積んできた家電製品を捨てて行く。
このところは、厳しい管理で、少なくなったが、まだまだこういうことをする人間がいるのである。

恵那市武並の山中に

2008-02-21 00:17:02 | Weblog
知り合いの洋画家が、山の中のレストラン兼ギャラリーで二人展を開いているというのでどういうところだろうと野次馬根性丸出しで出かけた。
まったくしらない初めての場所に行くときに、ナビが唯一の頼りだということがよくわかった。
地図にも乗っていない家をナビは的確に探し当てる。
電話番号さえ分かれば、すぐ近くまで誘導してくれる。
高いだけの余計な計器のひとつだろうと思い込んでいたのは、高齢者の悪い癖である。
経験だけでは、このスピードと変化に満ちた世の中、付いて行けないと常づね思ってはいたが、やはり便利なものは高齢者も利用しないと。
そういう意味では、インターネットの利用も同じで、退職者会などの話を聞いていると、ネットの世界では老人パワーがその世界に進出目覚ましい様子がいっぱいあるのだが、まだまだ新しいものを取り入れようとしない人たちも大勢いる。
なかには、パソコンなんかやるもんかという確信に満ちた意見を述べる人もいて、それはそれで個人の自由だが、ちょっと時代の経過を変えてみれば、車なんか乗るもんか、自転車なんか乗るもんか、陸蒸気なんかとんでもないから町の外れに駅を作れとなどと本気で言っていた時代があって、今からみると信じられないだろう。
最近の顕著な例は、携帯である。
つい最近まで、40歳代以上の大人は、そんなもん使えるかとうそぶいていたが、数年のうちにほとんどの人々が携帯で、メールなどを送っているが、よく観察すると、現役で働いているサラリーマン以外の70歳を超えていると思われる人たちの間では携帯はほとんど使われていない。
最近はやりのアイポットはまだまだ若者が多いが、それでもときどきイヤホーンを耳に突っ込んでいる高齢者を見かけるようになったが、ほとんどの高齢者の音楽は、まだラジオの昼の憩いか、NHKの歌謡曲テレビ番組か、カラオケである。
時間のある年金生活者も、今の世の中、つぎつぎと思いがけない物が作られるし、あっと驚く事件も世界中で起きるから、ぼんやりしているのがもったいないのでである。


大浜湊

2008-02-20 00:10:30 | Weblog
現在の大浜湊の写真だが、今は昔の大浜港の位置はどこなのかはっきりしない。
すっかり変わってしまった。
かってこのあたりの海岸は、白砂青松の海岸で、近くには玉津浦という海水浴場があった。
大浜港からは、対岸の半田港まで渡船が出ていた。
今は、隣の高浜市に衣浦大橋ができていて、対岸に渡るのは簡単だが、当時は、三河地方から知多半島の半田に行くには、この渡船を利用するほかなかった。
三河湾は内湾で、鏡のような海であるという印象が強いが、実はそんなに穏やかな海ではない。
大浜港を出た渡船が半田港とのちょうど中間あたりにくると、特に冬になると、小さな船は大揺れである。
波が頭上にくるほど、波の底に船が沈む。
半田港に近づくと波も小さくなるが、真ん中では伊勢湾やその外の太平洋と変わらないときもあるのである。
当時、この船に乗るために、港で時間待ちをしていて、突堤の岩積みの間の海中を見ると、実にいろんな種類の魚が捨て石の上や石と石のあいだを泳いでいた。
海水もきれいで、光が当たれば海底の様子がくっきりと見えた。
玉津浦海水浴場には、当時としてはめずらしく、海岸堤防の陸側に海水を引き込んだプールがあった。
海面よりも低いところにプールをつくり、潮の干満を利用して満潮のときに海水をプール内に引き入れていた。
三河湾の海水がきれいだったからできたことだろう。
海に続く広い砂浜には、松の古木が多く、その松の木陰にムシロを敷いて海水浴の休憩場所にしていた。
今は埋め立てられて海岸線はすべて岸壁になってしまった三河湾沿岸だが、少し前にまでは美しい自然の風景が広がっていたのである。

反射板

2008-02-18 23:48:30 | Weblog
盆地になっている多治見市のどこからでも、西側にそびえる高社山の頂上に、かなり大きな反射板が取り付けてあるのが見える。
以前から、これはなんだろうと思っているのだが、どうやら航空測量用のものらしい。
国土地理院が作ったものや、電力会社が作ったがあるらしい。
近づくと巨大な建造物である。
これほど大きな反射板が航空測量に必要なのかよくわからないが、とにかくよく目立つ。
多治見市の上空は、航空自衛隊小牧基地に駐屯する大型輸送機の編隊が、飛んできてはここの上空を旋回して、帰っていく道筋になっているから、これを目印に旋回していくのかと思っていた。
低空を、2機ないし3機の編隊が、轟音をたてて飛んできて、上空で大きく旋回するから、初めは少々驚いた。
航空自衛隊が海外に派遣されるようになってから、頻繁にやってくるようになったから、訓練をしているのだろうが、どうしてあんな低空を飛んでいるのだろう。
輸送機の大きな爆音がすると、まだ頭の中にわずかに記憶されている戦争中の空襲の際の爆音を思い出してしまう。
まったく同じ音なのである。
ブーンという鈍いが地面をも揺さぶるような爆音である。
幸い、爆音の後にやってくる爆弾の嵐は経験したことはないが、敗戦直前、名古屋や岡崎に向かうB29の大編隊が高空を通過していくときの爆音とそっくりなのである。


枯れ葉の道

2008-02-18 00:32:35 | Weblog
名古屋の東山植物園の周りを回る1万歩コースと言われる散策路は、冬に歩くには絶好のコースである。
地下鉄で東山公園まで行き、動物園には入らずに、動物園内を横切っている道路を歩いて行くと、植物園の入り口に出るが、ここも入らずにすぐ道路から山道に入って行くのが1万歩コースである。
灌木地帯なので、枯れ葉が山道にしっかりと積み重なっていて、気持ちがいい。
土が見えないくらい積み重なっている。
広大な植物園の周りを一周してふたたび植物園の入り口あたりに戻ってくるのだが、もう40年以上も前から、この散策コースは存在する。
まだ名古屋の街が、この東山動物園より東は、住宅のない灌木地帯で、名古屋駅の横の笹島からまっすぐ東山公園まで来ると、ここが終点だった。
このころは随分賑わっていて、子供たちというよりも大人たちの行楽地という感じだった。
動物園は結構充実していたが、植物園は狭く、動物園の添え物といった感じだった。
そのころからすでにモノレールが走っていた。
今もあるが、動物園の東の池の横に、いつごろのものかわからない古い車両が残されている。
現在使われている車両とは、少し離れて、古い駅と一緒に保存されているらしい。
今では、動物園と植物園のあるところから東は東名名古屋インターまで町並みが続いてしまい、万博以後は万博公園の近くまで住宅地が迫ってる。
東山公園から瀬戸市にいたる地域は、低い丘陵地帯で、あちこちに谷や小高い山が連続するところで、信長が桶狭間で急襲するには絶好の地形だったと思われるようなところだったが、この一帯は、戦後間もなくから始まった耕地整理で、無数にあった2、30メートルの丘はきれいに平地になってしまった。
いわゆる里山が一気に整然とした住宅団地に変わってしまった。


フキノトウ

2008-02-17 01:54:32 | Weblog
菜園の隣にある竹林を伐採して、広場にしてあるところに、もう10日もすれば、フキノトウが顔を出す。
写真は、去年のものだが、これは育っても30センチぐらいだが、なんでも北海道には、ラワンフキという名前の高さが4メートルにもなるフキがあるそうである。
足寄町の螺湾川沿いにだけ生えるフキらしい。
それにしても4メートルにもなるフキというのを実際に見てみたいものである。
写真でみると、たしかに人の背の倍近くの高さである。
このラワンフキの林の下には、コロボックリが棲んでいるというアイヌの伝説があるという。
コロボックリと言えば、アイヌ以前にいた日本の先住民だという説もあるそうだ。
日本人の起源はいまだに判然としないが、血のつながった民族が起源ということではなくて、まったく異なる先住民が後から来た民族に追い払われたというのが、大体の説らしい。
コロボックリも、アイヌよりも先にいた先住民で、アイヌに追い出されて、どこかに消えたという。
追い出したアイヌは、やがて大陸から来た弥生人に追い出されたというが、今の教科書ではどうなっているのか知らないが、昭和20年代の教科書では、縄文人が弥生人に駆逐されたと書いてあった。
この縄文人とアイヌとは必ずしも骨格的に一致しないらしいので、諸説があるという。
縄文遺跡や遺物が、アイヌのものと一致しないらしいのである。
それにしてもフキという植物が、こういう形で日本の古代史にかかわっているとは思わなかった。

これ円空仏?

2008-02-15 23:50:45 | Weblog
下呂温泉の温泉街から少し外れたところに合掌村という屋外博物館がある。
冬の時期、あまり訪れる湯治客はいないが、それでも、寒い中、入り口を入ったところの広場でたき火をして迎えてくれる。
雪があちこち残っていて、底冷えのする園内には、合掌造りの家屋と飛騨地方の民具が飾ってある。
ところが、どういうコンセプトなのかよくわからないが、急斜面のところどころにこじんまりとした建物があって、いろんな仕掛けがしてある。
メインの展示場には、どういうわけか円空の木像が飾ってあってどうやら円空の木像がこの地方にはいっぱいあるらしいのである。
展示されている木像は確かに円空が刻んだもの似ているのだが、円空作の木像は、なんでも全国には数万点も散在しているのだという。
先日もつるべいのぶっつけ本番を売り物にいたNHKの旅番組で、岐阜県の関市を訪れて、ある家で、数点の円空作と伝えられる木像を見つけたと騒いでいた。
たしかにこれも円空らしい感じの木像だった。
それにしても一刀彫で大胆な刻み方は、なかなか味わいのある木像だが、下呂温泉の博物館に飾ってあった円空仏のなかには、写真のような狛犬と表示された木彫りがあって、本物なら申し訳ないが、思わずほんとかなあと思ってしまうものがあった。
というのも、同じ展示場の中に、北欧の伝説の妖獣という表示で、明らかにウサギの標本に角を付け、鳥の翼をくっつけて、右前足には、義足を付けたものが展示されていたから、狛犬も冗談かなとつい思ってしまうのである。


観光ホテル?

2008-02-14 23:49:01 | Weblog
首都機能移転の候補地とされている土岐市の道の駅から見下ろすと、一見すると観光ホテルかと思われる瀟酒な建物が広がっている。
前に広がる池には噴水まであり、ときどき高く水を吹き上げている。
遠くには、白雪の中央アルプスや御岳山も見える環境抜群の場所である。
聞いてみると老人ホームなのだという。
すばらしい環境である。
写した場所は、どんぶり会館と名付けられた道の駅で、陶磁器の町らしく、陶磁器が並べて売られている。
陶芸教室もあり、広い食堂やギャラリーもあるうえに、道路を挟んで陶磁器の博物館のようなりっぱな建物が建てられている。
この二つの建物のまわりには、雑木林を散策できる散策路もあって、一日中でも楽しめる場所になっている。
土岐市は、土岐川の両岸にある町並みの他には、周りは山に囲まれているが、その低い丘陵地帯は灌木の生える雑木林で、その雑木林の中を縦横に舗装道路が走っている。
隣の多治見市も同じような感じなのだが、対照的なのは、土岐市の山中の道路は、道路脇に建てられた建物がほとんどないことである。
なんでも、公有地が多く、規制が掛かっているらしい。