定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

フキノトウとノビル

2006-01-31 10:08:41 | Weblog
春の使者、フキノトウが菜園の竹林前の日だまりに芽を出して来るには、もうすぐである。
写真は、去年のものだが、ここの蕗は、そのままにしておくと50センチぐらいの高さになる。
竹林の入り口の陽のあたる場所にしか出て来ない。
タラの芽とフキノトウが、春のシンボルのような言われていて、山菜として評判が高いが、両方とも天ぷらにして食べてもあんまりおいしいものではない。
また古い話になって恐縮だが、タラの芽やフキノトウよりも、畑のあぜ道などに早春から生えてくる「ノビル」というネギの細いものといった感じの植物は、食糧難時代には、ネギの代わりに大いに利用された。
球根から根こそぎ抜かないで、地表に出ている葉を切って取ればどんどん増えて行き、一面みどりのグランドカバーの代わりになるほどであるが、食べると球根がおいしいので、球根も抜いてしまうが、それでもいっこうになくならない。
畑といってももともとは野原であり、それを人間が根気よく耕作して雑草を排除して人間好みの野菜畑に変えてきたものだから、野菜畑として使わないあぜ道や傾斜などは実は植物の宝庫である。
野菜を作っていると、野菜畑に雑草が生えてくるとまるで仇にあったように刈り取ったり、抜いたりするが、堤防や土手、あぜ道などに生える雑草には比較的寛容でいられる。
高さが50センチから1メートル以上にもなって周辺住民から迷惑顔をされるようになると、なんとなく気になって草刈り機を持ち出して刈り取るのだが、本当は無理に刈り取らなくても、雑草もそのままどんどん背丈をのばしていくというわけではなく、一年という短い期間に必至に子孫を残そうと戦っているいのちなのである。
人間のように必要以上に生き延びて余計なことを繰り返す命ではないのであると思うと申し訳ない気がしてくる。

河童と無言で話す

2006-01-31 00:43:59 | Weblog
陶器で作った、哲学的な感じのする河童の置物が私は好きである。
日本全国で秋や春、陽気が良くなると陶器まつりというイベントがそれぞれの産地で行われる。
廉売市である。
市価の3割ほどは安いので、どこの陶器まつりも大賑わいである。
普段は、一般人が気安く入れない陶器会社が、この日は社屋を開放して、廉売のテントを張り、あるいは社屋内の展示場を見せてくれる。
日曜歩道を兼ねたような陶器市を見て歩くのは、なかなか楽しいものである。
歩いていると、ときどき、陶器製の河童が置かれている。
あんまり多くはないから、よほど意識して探さないと見つからない。
河童についてのうんちくや、芥川竜之介の「河童」、「日本むかし話」などに出てくる河童の話など、河童にまつわることは昔から日本では多い。
ところで、なぜか河童は陶器製がほとんどである。
陶器市だから当たり前かもしれないが、木彫りだとか?製だとかガラス製だとかいう河童は探してもいない。
それに、あんまりリアルな河童もいない。
しかし、一定の河童像というものがあるとみえて、頭の上の皿と背中の甲羅がかならず付いている。
顔は様々な表情を持っているが、大抵はなんとなく人をくった表情というか、達観した表情というか、何か哲学者のような感じがするところがオモシロいのである。
私は、暖かい小春日和を選んで、集めた河童たちと無言で対話するのが好きである。

旅行先の下呂温泉旅館「みやこ」から

2006-01-29 23:27:30 | Weblog
寒いのに、家族旅行で下呂温泉に来ているのだが、今日と明日はブログが書けないかなあ
と思っていたところ、旅館の読書室にマックが置いてあるのを見つけて、今、書いている。
美濃太田から鈍行電車に乗って、一時間ちょっとかかって下呂駅に着いた。
去年も来たのだが、そのときは寒かったので、覚悟していたが、なんと凄く暖かいのである。
合掌村の案内人の人も、昨日は北風が強くて寒かったが、今日は暖かい、と驚いていた。
下呂温泉は古い温泉で、名古屋から近いせいか、名古屋人から見ると、それほど高級感がなくて、名古屋に近いのにそれほど人気がなかった。
しかし、最近は宣伝もあるし、大きな旅館が各地からの直行バスを走らせているためか、ずいぶんと名古屋からの観光客も増えて来た。
この旅館のように、最近はインターネットをいつでも使えるようにしているところが増えて来ていて、普段ブログやインターネットを毎日使っている者には実に便利である。
こういうスタイルは今後もっともっと増えていき、そのうちに必需品になるだろう。
私のかっての現役時代の知人も、黒姫高原でペンションをやっているが、インターネットで頑張っているから、思わぬところから客が訪れると言う。
インターネットで、宿を探し、カーナビで高速道路を走って、山の中の一軒家をみつけて来てくれるという。

親亀の上に子亀が・・・

2006-01-28 20:19:41 | Weblog
去年の秋に、東京目黒の自然教育園の園内を散策したときに、最近、テレビコマーシャルで、一番下のお兄ちゃんの上に、兄貴や両親、祖父夫婦などが乗っかっている秀逸なシーンがあったが、そのシーンを思わず思いだしてしまうような光景を見た。
鬱蒼とした園内に古池があって、木漏れ日が池の中ほどに差し込んでいて、そこに倒木が浮かんでいた。
倒木の上に最初は一列にならんで甲羅干しをしていたのだが、もう一度見たときには、親亀の背中に子亀が乗って、その上に孫亀が乗っているのがみえた。
亀はなんでも体内温度が20度を下回ると動作が鈍くなるので、太陽に当たって熱を吸収する習性があるのだというのだが、なるほど亀はよく日だまりで甲羅干しをしているのを見かけることがある。
しかし、熱を吸収しようとしているのなら、親亀の背中に子亀が乗っていると効率が悪いのではないかと余計なことを考えてしまった。
甲羅干しをする理由は理解できたが、「親亀の上に子亀が、子亀の上に孫亀が・・・」の理由はわからない。
亀は結構変わった動物で、菜園のキュウリのウネの近くで、頭の先から尾っぽの先まで30センチほどもある亀を見つけたことがある。
近くには亀の棲むような池もないので、わざわざ遠くからキュウリを食べに来たのか?などと思ってしまった。
ずっと前には、名古屋城から100メートルも離れた幹線道路の歩道でのそのそと歩いている亀を見つけて、しばらくガラスの水槽で飼っていたこともある。
じっと見ていると、亀は実に不思議な動物に思えてくる。

陶芸教室に通う2

2006-01-27 12:14:12 | Weblog
定年後に通い出した陶芸教室で、初めは茶碗や花器、コップ、湯のみ(この辺りでは、センチャと言う)などをつくっていたが、そのうちに欲が出て来て、人形や風鈴、河童や地蔵などを作ってみたりした。
よく陶芸教室の映像をみると、電動のろくろで粘土を成形するところが写っていて、コツを掴まないとなかなか難しいというシーンがある。
確かにろくろはなかなか難しい。
ろくろの上に載せた粘土かたまりを回転するろくろで成形していくのだが、積んだ粘土の中心点をきっちりと定め、その中心点をずらさないように両手で粘土を押さえていかないとすぐに崩れてしまう。
まあ経験を積めばできるようになるのだろうが、私は何度やってみてもできなかった。
物事の核心を掴むことが出来ない自分を発見して落ち込んでしまった。
ろくろという道具は、木製品をつくるときも使われているし、同じように回転させながら形をつくるものにガラス製品もある。
人間が作り出す物には、丸と四角の2種類の基本だあって、それぞれ丸の変形や四角の変形があるなあなどと考えているうちに
丸は、ろくろという回転を利用した便利な器具があるのに、四角は回転を利用できないということに気づいた。
陶芸でも四角い形の作品はあるが、どうやら四角い箱型のものを作るときは、ろくろは使っていないらしい。
長い間そう思っていたが、先日、陶芸作家で人間国宝になった加藤卓男の解説テレビを見ていたら、加藤卓男は真四角の花器を成形するときにも、ろくろで作っていたという、丸い形をつくり、それをあとから叩いて四角にしていたのだという。
そうしてつくると、内側から外へ向かう力が微妙なふくらみとなって作品がしぼんだように見えないからだという。
なるほど人間国宝ともなるとやはり違うと感心したが、趣味の手なぐさみの陶芸としては、難しい電動ろくろは早々と諦めて、直径30センチほどの手回しの卓上ろくろで作ってみると、これならなんとか時間をかければ成形ができる。
しかもろくろでは出来ない小物、人形や自由闊達な形の花器などが作れるので、これはオモシロいとだんだんはまって行った。
写真は、自分が辰年なのでと思って、龍を作ってみたのだが、なんか品格と威厳の感じられない龍になってしまった。

日本人の命を救ったサツマイモ

2006-01-26 16:41:33 | Weblog
敗戦直後の食糧難のときに絶大な効果を発揮したのが、サツマイモで、小学校の校庭や空き地で栽培されて、栄養失調の日本人の多くの命が救われた。
このときの強烈な印象が頭の中に刻み込まれてしまっているためか、菜園を始めたときの必ず毎年つくろうと思ったのが、このサツマイモである。
当時、サツマイモは蒸かしてそのまま食べたり、1センチ四方に切って、自家製のパン焼き器で大きなドーナツのようなパンのようなものをつくったり、蒸かしたイモを縦に1センチくらいの幅に切って干し芋にしたり、焚き火で焼く焼き芋にしたりして主食として食べられた。
サツマイモの焼き芋の屋台を今でも時々見かけるが、当時は屋台で買うということはなく、大抵は配給のサツマイモや自分たちで育てたものを煮たり、焼いたり、蒸したりして食べていた。
配給のサツマイモは今のサツマイモのような甘味はなくて、腹が膨れればいいという感じのものだったが、それでも中には、焼いてみるとじゅくじゅくの柔らかくて甘いイモがあった。
サツマイモづくりをはじめるときに、そういう種類の種芋がないかと大分探したがどこにもなかった。
これは好きずきで、当時でも焼き芋は、ぱさぱさのほうがいいという人が大半だったので、ないのも仕方ないかと諦めてつくっている。
今の品種は改良が進んでいるのか、味は甘く、大きさもそんなにでかいことはなく、ちょうど一個ぐらいは食べられる大きさであるが、当時のサツマイモはやたらにでかかった。
サツマイモが土の中で大きくなるまでに、繁った葉っぱのでている茎を食べさせれたことがあるが、これは苦かった。
飼っていたウサギの餌になった。
当時の子供たちは、自宅にウサギやニワトリや小鳥などを飼っていて、その餌を取りによく田んぼのあぜ道に行ったものである。
ウサギにハコベや雑草を与えるときに、濡れたものを与えるとうさぎが死んでしまうぞ言われて気をつけて乾かしてから与えていたが、その理由はいまだにわからない。
ともかく、サツマイモを見るとどうしても子供のころのことが思い出されてくる。

清流のような人々

2006-01-25 23:04:30 | Weblog
産廃がらみで町長が自宅マンションの玄関前で、暴漢に襲撃され、いまだに犯人がわからないというこれが法治国家の現実かと思われる事件で有名になった御嵩町は、自然に恵まれた丘陵に囲まれたかっての宿場町である。
その街並みから外れた丘の上に、自然公園「みたけの森」がある。
この自然公園の園内を歩くと、この地方独特の湿地帯があちこちに点在している。
丘の窪地が湿地帯になっていて、湿って日陰になる時間が多いような場所に、シデコブシが自生している。
自然歩道を歩くと、澄んだ水が流れる小さな沢にイモリが動いていたり、蛍が棲んでいたりする。
ここも私の雑木林散歩のエリアである。
産廃がらみというのは、元NHK職員で、産廃問題を批判して町長に当選し、大河木曽川に有毒物を垂れ流しにしている産廃業者と対決していた町長が自宅マンションの玄関で何者かに襲撃されて重傷を負った事件のことである。
大都市近郊の山間地は、まるでゴミ捨て場のようになっているのが現実である。
車1台が通るのが精一杯の狭い尾根道の林道を歩くと、両側の崖下には、電気洗濯機、レンジなどの電化製品があちこちに捨てられているが、御嵩町で問題なったのは、広大な谷間が産業廃棄物で埋まってしまっていて、その谷間を流れる水が木曽川に流れ込んでおり、下流では名古屋市民の飲料水の取水口が数カ所もあったことである。
政治と言えば、住民のエゴが優先される今の日本で、珍しいことに、小さな町の住民は自分たちのことではなく、下流域に住む人々の危険を回避することができるかもしれないとこの落下傘のような候補者を町長に選んだ。
一期目が終わったが襲撃されて重傷を負った町長を住民は再び当選させた。
この地のあちこちに流れる清流のような清らかな人々である。

菜園日誌4(1991.2.24・3.30・ 4.6)

2006-01-24 14:06:36 | Weblog
菜園日誌4は、休憩小屋の工事に取りかかって3ヶ月ほどして、骨格がほぼ出来上がってきたころの日誌である。

菜園日誌(1991年2月24日)
 昨日草刈りに行ったところ、小屋ほぼ出来上がっていた。檜づくりの木の小屋である。
 まだ屋根葺きといか床の板張りなど細かいところはできていなかったが、小屋の枠組みだけは完成していた。
 いわゆるログハウスではないが、檜を組み立て、釘が使われていないので、ログハウスとほとんど変わらない。
 8畳の広さの真ん中に囲炉裏を切ってもらうつもりである。
 囲炉裏に使う自在鍵という鍋を吊るす道具が見つかるかどうか分からないが、大工の石橋氏によると骨董品の自在鍵は高いという。なんとかするということなので任せることにした。
 ベランダの上に日よけ用の覆いをつくらないと夏は暑くてしょうがないので、どうしようかと迷ったが、手回しのものがあるということなのでカタログを見せてもらうことにした。
 屋根はカラーベストである。
 室内の天井は、板を張らず屋根の板が見えるようにしてもらった。

菜園日誌(1991年3月30日)

 畑はその後、草刈りも終わり、S氏の知り合いが大型の耕運機で、300坪ぐらいのかなり広い面積を耕してくれた。
 ところが、葦の根が土中に大量に埋まっていて、この根を掘り出して焼いてしまわないとまたすぐ芽を出してくるというのでこのところ3回ほど鎌や鍬を使って葦の根を掘り出す作業を続けている。
 やっと4分の1程度掘り出したので、そこにジャガイモの種芋を植え付けた。
 また、畑の周りに将来果樹が取り巻くようにしようと、ホームセンターと高蔵寺の農協で、柿、リンゴ、ナシ、桃、カリン、グミ、ザクロ、梅など12本を植え付けた。ほかにイチゴとハーブの苗も少しばかり植えた
 小屋の進行はかなり進み、だんだんとイメージどおりの建物ができあがりつつある。

菜園日誌(1991年4月6日)

 ここ3週間ばかり、土曜日になると雨が降り、畑の準備が進まない。今日は昼頃から雨が降るという予報だったので、その前にと思って9時頃一人ででかけた。
 2週間ばかり前から畑の真ん中にシートを被せて耕耘機が置いてあるのだが、これが土曜日ごとの雨で使えない。
 パラパラと降り出したなかで、耕耘機を動かしてみたが一度はエンジンがかかったのだが途中で止まってしまってその後は、どうしても掛からない。
 あきらめて葦の根を掘り出したり、畑の隅にある古い作業小屋の辺りを整理して焚き火をしたりした。
 葦の根は、土から出して空気に当たっているものは、かなり腐食していて、そのままにしておいても土に帰るようだったが、少しでも土に埋もれていると、しっかりと生きていて、もう3、4センチほどの芽を出していたり、中には葉が伸び始めているものもある。
 小屋は、電気も取り付けられていたし、囲炉裏も完成していた。あとは換気扇を付けるだけのようだった。

 

雑木林を歩く

2006-01-23 10:28:18 | Weblog
冬は雑木林を歩くのに最適な時期である。
歩いていると寒さもどこかに飛んで行ってしまうし、一番いいのは、夏には見られない景色がよく見えるからである。
雑木林はほとんど落葉樹で、繁った葉で見えなかったあたりの風景がぱっと開ける。
私の住んでいる丘陵地を開発した住宅団地の周辺は、ゴルフ場や雑木林に取り囲まれていて、雑木林の中には早春になると東濃丘陵地独特の「シデコブシ」というコブシ科の花が咲いたり、一面セピア色の冬の雑木林のなかのあちこちには、ピンク色の花を咲かせる山ツツジが鮮やかな華やぎを醸し出す。
昔は、この地方では、花見というのはこの山ツツジを見に行くことだったという。
雑木林の中に入り込み、山ツツジの花が密集して咲いている傾斜地で、持って来て弁当を広げると、あちこちから野鳥のさえずりが聞こえてくる。
小学校の先生に引率されて、暖かい春の日差しの中で遠くまで続く丘陵地帯の風景を見た、そんな思い出は頭の中に刻み込まれているという。
団地のすぐ傍に、浅間山と呼ばれている小高い山がある。
山頂には浅間神社があって、神社の横を抜けると山の中を延々、林道が遥か土岐市の丘陵まで続いている。
神社の下を回ると、舗装された林道があって、この道も山の中を細々と続いて、荒川豊蔵資料館のある久々利地区に降りて行く。
早春の風のない暖かい日に、だれもいないこの道を散歩するとそろそろ渡りのためにこの灌木地帯の木々の間を縫って行く小さな野鳥が騒がしいほどである。
赤石山脈が海の近くに下ってくる渥美半島や知多半島に続く丘陵は、南のほうから北へ向かう小鳥たちの交通の要路になっているらしい。
ガンや白鳥や鷲科の大型の渡り鳥と違って、小さな野鳥たちは、日本列島に辿り着くと、灌木の生えている雑木林の中の枝から枝に渡っていくらしいのである。
雑木林を楽しむのは冬が一番である。

失われて行く雑木林

2006-01-22 11:31:06 | Weblog
東濃地方は、低い丘陵が続いていて、雑木林地帯である。
太古には、河川が流れ込む海岸だったこともあるといい、山の中でジネンジョを掘っていると、小さな貝の化石が続々と出てくる。
山の中なのに、土の中に含まれる石は丸く削られている。
岩石が丸くなっているということは、河川の下流域や海岸などの石が丸くなっていることから、長い間水の流れにさらされていたと考えるのが順当だろう。
濃尾平野が徐々に山の中に入っていく入り口あたりにあるこの地方は、西のほうに中山道、北のほうに姫街道が内津峠から春日井をとおり名古屋に入ってくる。
姫街道というのは、中山道が名古屋を通らずに岐阜、大垣を通過して関ヶ原、京都へと行ってしまうため、恵那の地から脇道にそれて多治見、春日井から名古屋に入り、熱田から海路、三重県の桑名へ抜けて行く道が造られたらしい。
尾張平野は木曽三川のデルタ地帯で、かっては湿地帯だったらしく、現在では広大な平地になっている尾張西部はほとんどが海だったという。
低い灌木しか育たない東濃地方の丘陵は、太平洋戦争末期には、燃料として立ち木が伐採されて、丸坊主になっていた。
中央線の定光寺駅が渓谷の中腹に張り付くようにつくられているが、このあたりの渓谷の両側にある国有林は、丸坊主になった
丘に整然とした杉や檜が植林され、今では森林浴の森として人々に利用されているようだ。
多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川へと少しずつ高度を上げて行くとやがて木曽路に入って行き、ここからが日本の森林地帯になる。
東濃と西濃と言われている灌木地帯は森の國岐阜県で、岐阜県は美濃の國と飛騨の国が一つにされてつくられた行政区域だが、
飛騨と美濃とはまったく異なる文化圏である。
東濃は愛知県の三河地方と山続きで、むしろこちらの文化圏との結びつきが強い。
雑木林の丘陵のあちこちに山城跡が無数に存在していて、今では埋もれているか、鎮守の森として地元の集落の神社になっているところがおおい。
低山なので、整備すれば絶好のウオーキングや低山歩きのエリアになるのだが、今は間伐されなくて年々雑木林が荒廃して行くし、バブル期には大都市名古屋の近郊の住宅団地やゴルフ場として乱開発されて、「トトロの森」を思わせる里山はその姿を変えられている。

時には、考えないと!

2006-01-21 19:08:18 | Weblog
2、3ヶ月に一度、現役時代に一緒に活動した仲間たちと会食したり、一泊旅行をしている。
現役時代から続いているグループなのだが、時間の経過は容赦はなく、どんどん齢を重ねて行き、今では働かずにいる者のほうが多くなってしまった。
現役で一番若いのが、57才だから彼らも間もなく定年を迎える。
定年後のひとたちだけでグループをつくると、話題が狭くなってしまうし、それぞれが40年近くも過ごした元の職場の話題は懐古趣味になってしまう。
定年生活者が過ごして来た歴史は、元には戻らず、ただ昔を懐かしがっているだけではなんとなく寂しい。
世の中が変わってきたということは、元の職場も変わってしまったということだから、現役から聞く職場の現状の話題は結構オモシロい。
現役といっても間もなく定年を迎える齢だから、その話題も、職場やその職場を構成する人間たちのあまりの変貌に日々ストレスが貯まってしまうという話題が多い。
事務の現場の変わりようは、実際驚かされる変わりようである。
コンピュータがオフィイスに導入されてから早いところで30年遅いところでも20年経ったが、それ以前の事務のやり方とは
まったく異質になってしまった。
職場の管理体制も、かってののんびりした牧歌的なありようを想像しているととんでもない誤解を生む。
話を聞いているだけで、とても今の自分には勤まらないと思われる。
よく団塊の世代の大量退職によって、日本の技術や事務のノウハウの伝承ができなくなって、どうなってしまうのだろうなどという議論を聞くが、そんなことは、ずっと前に、日本農業や漁業、林業などの第一次産業で味わったことである。
それにしても、今の職場では、30才とか40才で亡くなっていく人が多いという。
心の病を抱えて精神を病む人もおおく、とんでもないことがよく起きるという。
働かされすぎて、労働者が体の内部から崩壊させられているようだという。
こんなことを言うと、おこられるかもしれないが、今の高齢者はいろんな意味で恵まれていた。
もともとぎりぎりの生活を身につけている高齢者は、内部から崩れつつある労働の現場の実態を知れば、自分たちのことよりも
彼ら若者のことが心配になって来るはずである。

竹林の整理とたき火

2006-01-20 14:00:05 | Weblog
冬の畑の楽しみは、たき火である。
昔はどこでもたき火ができたのだが、今は街路樹の落ち葉を集めてたき火することもできない。
我が家のような山の中の住宅団地でも、もう20年近く前に、引っ越したころ、自宅の芝生の庭に煉瓦でたき火場所を作って紙くずを燃やしたら、風でたき火の灰が隣の家に飛んで行き、隣家の洗濯物にかかりそうになって、大騒ぎになった。
それ以来、折角の芝生の庭もたき火はできなくなってしまい、なんとか炭火のバーベキューということになってしまった。
バーベキューは炭火でもいいのだが、たき火ができないということにはなんとなく憮然としたものである。
「たき火」という童謡があり、「垣根の曲がり角」の「たき火」というのは、実際にどこでもやっていて、たき火の中にサツマイモを入れておいて、ふかふか、あつあつの焼き芋を食べた記憶は誰もが持っている。
山の中や鎮守の森、それにキャンプ場でも指定場所以外ではたき火ができなくなってしまったのはいつごろからだろうか。
今では、農家が畑で雑草などを焼くのでも遠慮しながら焼いている時代になってしまった。
農家の畑でのたき火は法律で禁止されているわけではないが、近頃の都市近郊の農地には、虫食いのように住宅が建っていて、
その住民から文句がくるのである。
なんとなく、高速道路の真下の農地をつぶして宅地化し、騒音を承知で家を建ててから文句を言う風潮と似ているが、いずれにしてもダイオキシンを発生させるわけでもなく、生ゴミを自ら処理して、行政が莫大な税金を使ってゴミ収集するのを少しでも減らしているというのに、そんなことするなと言われているようなものである。
私の菜園は、周囲を一級河川のながれと丘に囲まれていて、時々犬の散歩をしたり、堤防をウオーキングをする人しか通らない場所だから、安心してたき火ができる。
たき火は、雑草の種を退治するためにも必要で、その灰は有効な肥料になる。
冬の間に小屋のある隣地の竹林を整理して、枯れて倒れた竹を燃やしてしまわないと、竹林はすぐに荒廃してしまい、放置しておくと火事になりかねない。
一度、県が河川管理のために堤防の草刈りをした後、委託業者がガソリンをかけて刈り取った葛やイタドリ、セイタカオワダチソウなどを燃やしたときに、堤防沿いに生えていた荒廃した竹林に燃え広がり、一時は消防車も出動してなんとか丘の上の人家に燃え移るのを防いだことがある。
冬に間の竹林整理と、たき火はどうしてもやらないといけないというわけである。

印象派の画家を見直す

2006-01-19 16:48:37 | Weblog
冬は野菜づくりも休眠に入るから、リタイア生活としては、何かやることを探さないと時間がなかなか通り過ぎてくれない。
先日、「塗り絵」を推奨したので、自分もやらないと無責任である。
それで炬燵にあたりながらやれる塗り絵をあれ以来、やっていて、今は4枚目を塗っている。
そのうちの2枚目が写真である。(写真は次ページに掲載)
シスレーという印象派の画家が描いた「セーヌ河畔の村」という絵が原画である。
シスレーはパリ生まれのイギリス人だという。
印象派の画家たちのちょっとあまり知られていないエピソードがある。
2年前に印象派の画家たちが集まり住んだというバルビゾン村などを見るという観光ツアーに参加したことがある。
パリ郊外のフォンテンブローの森近くのボルビゾン村に行く途中、道路沿いの森の縁の丘に松林が続いているのが見えた。
松林の風景は、日本的な風景なので、なんとなく違和感があった。
道路沿いに松が並んでいるのに、森の奥のほうは紅葉樹の森なのである。
フランス貴族たちが狩猟をしたという広大な森なので、松林というのは意外だったわけである。
昨日、「バルビゾン村」でインターネットを検索していたら、こんな趣旨の記述を見つけた。
19世紀末、印象派の画家たちが、明るい光を求めて自然の景観豊かなバルビゾン村に集い、この地の美しい風景を描き続けていたころ、フランスでは紅葉樹の森の樹木を伐採して、針葉樹である松林化を進めていたという。
ちょうど日本で太平洋戦争後広葉樹を伐採し、成長の早い松をどんどん植えたのと同じ理由である。
このフランス政府の松林化に対して、バルビゾン派の画家たちは美しい自然が台無しになると危機感を強め、松林化に反対する運動を始めたという。
その結果、松林化は道路沿いだけになって広葉樹の深い森が荒廃するのが防止されたため、当時の森林組合がバルビゾン派の画家のために顕彰碑を建てたという。
型にはまった19世紀の絵画に対する前衛的な運動を進めた印象派の画家たちは、森の荒廃を防ぐためではなくて、自分たちの描く風景が壊されるのを防ぐことによって結果的に森の荒廃を防いだのである。

ウコッケイの訪問!!

2006-01-18 11:43:21 | Weblog
不思議なことがあるものだ。
我が家の道路に面した車庫は、朝、車を使った後は、車を入れたままシャッターを空けている。
空けたシャッターの傍に、段ボールの箱が空けたまま置いてある。
畑から収穫した野菜を入れてきた箱である。
昨日の夕方、車を出そうとしたら、その段ボール箱の中に、ぐったりとした真っ白の鳥が横たわっていたのである。
死んでいるのかと思ったが、時々だらりとした足が動く。
どうやら生きているようだ。
まだ子供のようだが、大きさは30センチ近くもある。
白バトかと思ったがちょっと大きすぎる、トサカのようなものがくちばしのあたりにあるので、ニワトリの若いのかもしれないと思い、早速インターネットで調べてみた。
ニワトリの種類に、烏骨鶏という種類があり、その写真をみるとそっくりである。
やはり烏骨鶏に間違いない。
しかし、なんで烏骨鶏がそんなところにいるのだろう!
最初ぐったりしていたから、猫にでも捕まってけがをし、猫にそこに投げ込まれたのだろうかとも思ったが、猫がそんな器用なことをするだろうか。
かりに猫ならなんで戻ってきて食わないのだろう。
ではなんだろう。
誰かがひん死状態の烏骨鶏を見つけ、始末に困ってちょうど通りかかった車庫に段ボール箱があったので、投げ入れたのだろうか。
しかし、サラリーマンの多く住む住宅団地のメイン道路である。近所で飼っているとは思えない。
それとも飼われていたとして、家出でもしてきて、飛びすぎて疲れ果てたのだろうか。
それにしては、ニワトリがちょうどうまい具合に段ボール箱を見つけてその中に隠れるだろうか。
翌朝の今朝、シャッターを開けると、元気になって立ち上がっている。
これどうしたらいいのだろう。