定年後の暮らし春秋 ~ 菜園だより ~

現役時代の週末菜園から、定年後の野菜づくりへ。
自由な生活を謳歌する昭和15年生まれの日々。

洞窟に屋根をつくる

2008-01-31 23:55:02 | Weblog
菜園の水は亜炭坑の洞窟に溜まった地下水である。
ここを借りた当時は、笹薮の隠れていて分からなかったのだが、貸してくれた人が、確かこの辺に亜炭坑の入り口があったというので、笹薮の中を探っていたら、直径20センチぐらいの穴が見つかった。
光の具合で、どうやら中に水が溜まっているらしい。
そこで、付近の笹を草刈り機で刈り取ってみると、確かに中に水が溜まったような感じである。
知り合いの造園業をやっている人にこの水を畑に利用できないか尋ねると、じゃあやってみようと乗り気になり、造園用の機械などを持ち込む本格的な工事になってしまった。
穴の周りを切り開いてみると、深さ1メートルほどの水平の底が奥の方にメートルほど続いていて、その先は竪坑になっているようで、その壁に梯子が立てかけてある。
その梯子を引き上げてきると、高さが5メートルほどもある松材で作った梯子だった。
水中にあったので、全然腐っていない。
この洞窟は、戦争中、このあたりのあちこちで亜炭を掘っていたのだという。
ここは河岸段丘の端にあたるところで、当時掘っていた坑道は、このあたりの地下に四通八通しているという。
広げた洞窟の入り口に危険防止のために庭らしい竹製の覆いを作ってくれたが、それが16、7年も経って、腐ってきた。
応急的に直していたが、やはり子供たちが遊びにきて中に転落でもしたら大変だから、覆いを直す事にしたのである。


なかなか主役にはなれんなー

2008-01-30 22:46:30 | Weblog
東濃地方の陶器祭りで、机の下に並べられているカッパたちである。
陶器製のカッパは、いまではあちこちで作られ、そのとぼけた顔つきで、一部のマニアには親しまれているのだが、なかなか爆発的な評判にはならず、陶器の本場の陶器祭りでさえ、こういう不当な扱いを受けているのである。
それにしても、展示机の下の陰に、展示というよりも、ただ置かれているだけという感じに見られてしまう扱いは、カッパでなくとも嘆かわしい。
存在するのかどうか不明のものでも、UF0などは、国会でも話題になるほど知名度が高いが、同じように存在が不明確なカッパはこういう扱いを受けている。
わずかに、多治見市の唯一の繁華街であるながせ通りの中間地点に小さな広場があり、この広場だけはカッパ天国である。
噴水付きの池の端に、巨大なカッパが鎮座しているだけでなく、入り口にも、結構大きなかっぱが二匹(匹というのがいいのかどうか不明だが)置かれて、大分前だが、当地の小学生や中学生が制作したいろんな姿のカッパが一軒のシャッター商店の全面を使って展示されていたくらいである。
そういえば、昨年、多治見駅の前に、「うながっぱ」というカッパなのか、パンなのか判然としないキャラクター人形がいた。
なんでも、アンパンマンの作者がデザインしたものだそうである。
陶器のカッパがぱっとしないので、こんどは漫画家に助けを求めたようである。
まあ、それでも、河童を捨てきれていないことだけでも満足しようか。

卵から生まれる蛙?

2008-01-28 23:32:42 | Weblog
卵から生まれる蛙メキシコと題されて展示されているのだが、思わずメキシコでは、蛙は、こんな大きな卵からこうして飛び出してくるのかと思ってしまうほど堂々と飾ってあった。
陶器製なのか紙製なのかよくわからなかったが、もっともらしく他にもいろんな世界中の蛙がガラスケースのなかに展示されていて、なんでも簡単に信用してしまうことの多い年寄りは感心してしばらく離れられなかった。
まず色彩が華やかである。
南米ギアナで、猛毒を持つ真っ赤な蛙が発見されたというニュースを以前見たような気がしたが、これは毒は持っていないのだろうかなどとつい考えてしまうリアルさである。
菜園にも排水路にときどきゼリー状の幕に覆われた蛙の卵が産みつけられていることがあり、春になって、何百匹というオタマジャクシが蠢いているのを見かける。
残念ながらこの排水路、水がなくなって枯れてしまうので、かわいそうにオタマジャクシも一緒に乾涸びてしまう。
そういうことを3回も繰り返していたが、さすがにその後は、そこに卵を産み付けなくなった。
うじゃうじゃとうごめくオタマジャクシを見ていると、遠い昔、田舎の田んぼの中を流れている水量の豊富な川から堤防の下をくぐって直径1メートルほどの大きさの土管の中で、うじゃうじゃと動き回っているオタマジャクシのかたまりを見つけたが、よく見るとそれはナマヅの子の大群だったことを思い出した。

郡上八幡城

2008-01-28 00:02:14 | Weblog
郡上一揆で名高い郡上八幡城は、清流長良川が眼下に流れる小高い山の上にある。
江戸時代に、3000件近くの農民一揆が起きたが、4年間にもわたって農民が結束し、幕府の増税政策に対して異議を唱え、当時の領主の更迭と幕府の高級官僚の処分をも勝ち取った珍しい農民一揆が郡上一揆である。
ほとんどの農民一揆が幕府よる農民の処罰で終わり、かえって更なる増税で終わったのに対して、郡上一揆は領主をやめさせ、当時の幕府の担当者をもやめさせたのは、この地方の農民の気概と一致団結の強さを示すものとして、語り継がれている。
郡上八幡は郡上おどりでも有名である。
いつのころか、各地の盆おどりが集まり、郡上の城下町で踊られるようになった。
一説では、郡上一揆後のある領主が、各地の盆踊りを集めて、奨励したというが、一種のガス抜きだったかもしれない。
一揆の発端となった増税というのは、幕府が年貢の取り立てを増加するために、それまで年間一定の年貢を納めさせていたのを、その年の収量に応じて年貢を取り立てる制度の改めようとしたために、常に収穫のぎりぎりまで年貢を納めさせられるという明らかな増税になることから、ただでさえ厳しい年貢がさらに厳しい取り立てなることに農民たちが反対運動に立ち上がったのである。
ぎりぎりの年貢を取り立てられるために、山間地を利用して、隠田で収穫した米で命をつないでいた農民にとって、新しい取り立て制度で前提となる検見という現地調査で隠田が見つけられてしまえば、もう生きていけなくなることが目に見えていたからである。


ステンドグラスのお雛様

2008-01-27 00:14:48 | Weblog
2月になると、女の子のいる家庭では、お雛様を飾って、女の子の幸せを祈ることが古くからの日本の風習になっている。
おひな祭りは3月3日だが、男の子については、端午の節句で5月の武者人形やコイのぼりを揚げる。
この風習がどのようにして始まったのか判然としないが、とにかく当然の風習として残っていて、お雛様は大抵は、5段ぐらいの飾り棚にこの時期各家庭で飾られる。
最近は、一部屋を占拠してしまうひな壇のお雛様は、だんだんと少なくなってきて、男雛と女雛の一対の人形を飾るようになった。
同時に、ひな人形の材質も、陶器製や紙製、木製などいろんな材質が用いられるようになってきた。
可児市のわくわく体験館という施設で、雛祭りの時期を前にして、ステンドグラスのお雛様を作る講座が開かれたので、参加して作ったのが写真のお雛様である。
2時間半で完成するように、カットされたガラスにテープを巻いて、ハンダ付けするだけで、出来上がるという講座だったが、出来上がった作品は、それぞれ参加者の家庭できらきら輝いてるだろう。
小さい頃、明るい昼間や電気の点いた部屋にあるひな壇はいいのだが、真っ暗な部屋に飾られているお雛様は、なんだか不気味だった。
その点、電灯で輝いているこのお雛様なら、子供たちも安心だろう。

レンタルトラックを借りる

2008-01-25 23:42:03 | Weblog
菜園には、かって亜炭を掘っていた廃坑があって、その坑道が長い間に水でいっぱいになっていたのを利用して、水道を作ったのだが、その坑道の入り口に危険防止のために蓋を作ってもらった。
それからもう17年も経って、5年前にはすっかり腐ってしまった。
周囲を囲う柵は木製だったのだが、上を覆う屋根は竹製なので、ちゃんと油を抜いた工作用の竹材で作ったが、雨風に遭ってぼろぼろに腐敗してしまった。
応急的に、竹林から伐採して乾かしておいた竹を使ってビニール製の波板トタンで屋根を作ったが、その竹の支えも腐って折れてしまった。
近所を散歩する人からもあまり評判がよくない。
そこで直してくれるという人がいて、直してもらうことにしたのだが、垂木やトタンを運ぶにはトラックが要る。
確か、車で5分ほどのところにカーマという名前のホームセンターがあって、そこでレンタルトラックをやっていることを新聞のチラシで見たことがあったので、聞いてみると無料で貸してくれるという。
トラックを運転したことはなかったので少々不安だったが、なんとか運ぶことができた。
9尺の垂木と9尺のトタンなので、結構長さがあり、トラックの荷台から30センチほどはみ出したが、これくらいならまあいいだろうと運び終わった。
90分までは無料で貸してくれるようになっているから、畑の現場に運ぶには大変便利である。

100年前の学校の廊下

2008-01-25 01:13:26 | Weblog
今では考えられない構造の学校の教室だが、廊下はコンクリートで、下駄箱が置いてある。
コンクリートの上に高さ5センチほどの板の台が、わずかに教室の前だけ置かれているが、この板が学校よってはずっと向こうまで置かれていた。
通常渡り廊下と言われていた、校舎の棟と棟をつなぐ廊下は、屋根はあっても、少し強い雨が降ると、びしょぬれになる。
雪が降れば、吹き込んだ雪が積もっているという光景を覚えている人も多いと思われるほど、この光景は戦前だけでなく、戦後の新しい学校制度ができてもしばらくは続いていた。
この光景は、まだわずか60年ほど前の日本の学校の姿である。
現在では、古い姿のまま廃校になった山村の校舎を除いて、こういう光景は姿を消した。
トイレットペーパーもなく、男女別もないポットン式のトイレなど今の子供たちには考えられないだろう。
寒さでかじかんだ手を尻の下に敷いて暖めながら、隙間だらけの窓から寒風が吹き込んでくるのである。
1960年ごろまでの暖の取り方は、炬燵や火鉢などで手や足を部分的に暖めていた。
今は部屋全体を暖めるのが普通だが、当時は、どんなに寒くても手足を暖める暖房が当然だった。
写真の下駄箱に入っている履物は、下駄である。
よく見ると高下駄と言われていた、高さが5センチから10センチほどもある下駄である。
六貫(ろっかん)と呼んでいた。
下駄という履物もめずらしくなったが、下駄は、親指の間にひもを挟んで歩かないと脱げてしまうので、足には足袋を履いた。
我が家の前は、下駄屋だったが、下駄屋では、ひもが切れるとひもを取り替えたり、六貫下駄の櫛の部分を器用に取り替えてくれる親父さんがいつものんびりと火鉢に当たっていた。
写真の下駄箱には、傘が横に置いてあるが、昭和30年代ごろまでは、番傘と呼んでいた竹や木や紙で作った傘なので、小さい子供には結構重かった。
番傘は今ではおしゃれ感覚の道具になった。


「トトロの木」

2008-01-23 23:28:22 | Weblog
写真は、山形県鮭川村というところにある木だが、「トトロの木」として評判になっているらしい。
アニメのなかで、蒔いた種が、夜中にぐんぐん成長して、森にに変わっていく場面があって、その大木の頂上にトトロが現われるのだが、その森の形に似ているということで、評判になり、今では遠方から見に来る人たちが多いのだという。
愛知万博では、トトロに出てくる引っ越先のボロ家が人気で、見るだけの予約も取れないほどだった。
その家は、今でも残されていて、いまだに大勢の見物客でにぎわっている。
近くの池の前には、稲荷前バス停もある。
稲荷前バス停というと、全国的には、結構たくさんあるのだが、ある稲荷前バス停では、誰かがバス停の板壁にネコバスの絵を描いた。
あまりうまく描けていたので、バス会社では、そのままにしておいたら、つぎには、トトロやサツキやメイの看板までいつの間にか置かれるようになって、ここも今では名所になっているという。
大分前だが、愛知県西尾市では、実際に改造したネコバスが街の中を走って子供たちだけでなく大人たちにも評判がよかったという。


たき火

2008-01-22 22:17:51 | Weblog
剪定してもらって、畑のあちこちに積んである枝を少しでも減らそうと、畑に出かけ、たき火をした。
まだ刈ったばかりで生木なので燃えが悪いのかと思っていたが、生のままでもよく燃えることがわかった。
そういえば、もう40年近く前に、登山に夢中になっていたころ、木曽駒に上っている途中、冷たい雨が振り出し、ずぶぬれになってようやく無人小屋たどり着き、暖を取ろうと、雨に濡れた木の葉を燃やしたところ、勢いよく燃えだして救われた思いをしたことがあるのを思い出した。
このときに、木の葉には、油分が含まれているということがわかったから、よく森林火災で、緑の山が燃えている光景をテレビなどで見ても不思議には思わなかった。
野菜のナスやトマトやトウモロコシなどは、収穫が終わってから、茎を引き抜いても、乾燥させようと相当長い期間畑に放置しておいても燃えない。
水分は多く含んでいるが、油分は含んでいないのだろう。
このあたりが樹木とは違うらしい。
小屋の周りからだんだんと竹が包囲網を狭めてきているが、その竹の葉は実によく燃える。
火にあてると瞬間的にボッと燃えてしまい、まだ白い灰にならずに黒い灰のまま燃え上がって上空にあがって行くので、慌てることになる。
今年は、これから何度もたき火をしなければならない。



暇つぶし

2008-01-22 00:07:32 | Weblog
寒い冬は家の中にいるときが多い。
若さをだんだんと失ってくると、余計に寒い戸外に出るのがおっくうになってくる。
寒い冬は、畑の仕事もなくて、ちょうどいいと言い訳しつつ、暖かい家の中でぐだぐだと過ごす。
最近は、テレビだけでなく、高齢者が暇な時間を過ごすには格好のパソコンというおもちゃができた。
インターネットを見ていると飽きることがない。
つい深夜にまで見続けることになってしまう。
それでも四六時中パソコンをやっていると、やはり飽きてくる。
そこで一番いいのが、絵を描く事である。
それも素人だから、大作というわけにはいかない。
小さな画帳を買ってきて、最初は、さーと描いて、上から水彩を塗ると、なんとなくこれを自分で描いたのかとおもうほどの絵だと自分で悦に入ることができる。
近頃は、自分で下書きをしなくても下書きを描いた線画の本が本屋にいっぱい並んでいて、子供のころ、塗り絵を楽しんだときのことを思い出しながら、「大人の塗り絵」ができる。
塗り絵か、などと家人に馬鹿にされながら結構何枚も描いているが、この絵のように、自分で勝手にスケッチして、簡単に色を塗るというのもいい。
最近は、水をチュウブの中に入れた筆があって、12色ぐらいの小さなケースに入った絵の具も売っているので、水筆一本と鉛筆と小さな絵の具の箱さえ持っていれば、どこででも簡単に水彩画が描けるのだが、寒さに負けて家の中で描いている。



美濃市のアート

2008-01-21 01:05:14 | Weblog
毎年、美濃市の古い町並みで、美濃和紙を使った灯りアートが開かれている。
うだつで有名な町並みは、地元の人々の努力でしっかりと保存されていて、軒先に並べられた灯りは幻想的である。
この街は、この辺りの和紙だけでなくいろんな産物を集積する河川や道路による商業地として賑わった歴史があり、商家が密集する町並みの家々には、うだつという屋根付きの壁が、隣家との間に作られている。
もともとは土蔵と同じように火災になったときに隣家への延焼を防ぐという目的で作られたらしいが、次第に競い合うように豪華なうだつを作るようになったという。
美濃和紙の里が、うだつと灯りアートで売り出そうという試みは成功したようである。
町外れの清流のほとりには、美濃和紙の里会館があって、和紙づくりを体験できる。
会館の前の清流では、アユ釣りをしている釣り人もいて、のんびりとした山間の落ち着いた街である。
岐阜県は、美濃と飛騨に分かれているが、かってはこの地域にはあまり密接な交流はなく、それぞれが独立した生活圏だった。
美濃は西濃,中濃、東濃と続いていて、関ヶ原あたりから馬籠まで続く広大な範囲で、天気予報なども行政区ごとだとあまり信用できない。

堤防のニセアカシアもばっさりと

2008-01-20 00:15:58 | Weblog
畑の中の木陰用の桑の木を伐採したのに続いて、昨日とおとといの二日間で、堤防に自然に生えてきたニセアカシアの木と、休憩小屋の周りの生け垣、枯れてきたハナミズキ、井戸の上に覆いかぶさるようにやたらに大きくなってしまった名前の分からない樹、小屋の前のカエデ、モクレンなどをばっさりと切ってくれた。
それでできた伐採後の枝が、大変な量になって、あちこちに積まれた。
この冬にこれだけの量をたき火で燃やせるのか心配になってきた。
モクレンなどは、もう去年の11月ごろから花芽ができ始め、今ではkなり膨らんできていたのにばっさりと切られて、相当恨んでいるだろう。
写真のニセアカシアは、堤防の斜面に自然に生えてきて、大きくなったものだが、これが夏になると繁った葉が畑の野菜の上に覆いかぶさってきていたから、野菜づくりには少々邪魔な存在だったのだが、5月ごろ、白い花をいっぱい付けて、少し丸みを帯びた葉がきれいに並んで両側に付いた枝が繁ると、この近くで養蜂をやっているミツバチがやってきて蜜を採集していくという価値のある樹木なのである。
この木は、成長が早いので、かって燃料が石油燃料になる前には、いい薪として利用されていたらしい。
放置しておくと、根元の部分さえも枝がつぎつぎと生えてきて、密集するので、枝を払っていたのだが、どういうわけかこの枝には棘がいっぱい付いていて、切った枝を扱うのに注意しないと軍手をはめていても刺されてしまう。
でも今年の冬は、たき火の薪がふんだんにできて、2、3月の畑に行くのが楽しみである。

休養中の鵜飼舟

2008-01-18 23:20:56 | Weblog
岐阜金華山下を流れる長良川で夏の風物詩になっている鵜飼だが、その鵜飼に使われる鵜飼舟は、今、堤防脇に作られた湊につながれている。
川砂を浚渫して作ったと思われる舟だまりに数十艘の鵜飼舟がびっしりと並べられている。
橋を渡っていくとよく見えるが、金華山の頂上から眼下に見てもきれいにならんでいるのが見える。
今は、静かに休養している感じである。
金華山は、山並みが途切れる一番端の山に建っていて、市街地から見ると、ビルの間から突然山がそびえていて、見上げるような感じになる。
その岐阜の市街地は、長良川の伏流水が豊富に地下を流れていて、昔は各家庭には井戸があって、きれいな水がふんだんに使えたそうである。
地下水だけでなく、清流の流れる小川もあちこちにあったが、ほとんどはコンクリートで覆われてしまった。
上流にダムがない長良川は、水量が多いだけでなく水質のいい現在ではめずらしいきれいな大河である。
残念ながら、下流に河口堰ができて、付近の河床でふんだんに採れたシジミなどの貝類はほとんど採れなくなってしまった。

「もう戦争はしない」

2008-01-17 23:46:06 | Weblog
「私たち日本国民はもう二度と再び戦争をしないと誓つた。(第九条)
これは新憲法の最も大きな特色であつて、これほどはつきり平和主義を明かにした憲法は世界にもその例がない。
「私たちは戦争のない、ほんとうに平和な世界をつくりたい。このために私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となつて平和を守ることを世界に向つて約束したのである。わが国の歴史をふりかえつてみると、いままでの日本は武力によつて国家の運命をのばそうという誤つた道にふみ迷つてゐた。殊に近年は政治の実権を握つていた者たちが、この目的を達するために国民生活を犠牲にして軍備を大きくし、ついに太平洋戦争のような無謀な戦いをいどんだ。その結果は世界の平和と文化を破壊するのみであつた。しかし太平洋戦争の敗戦は私たちを正しい道へ案内してくれる機会となつたのである。
新憲法ですべての軍備を自らふりすてた日本は今後「もう戦争をしない」と誓うばかりではたりない。進んで芸術や科学や平和産業などによつて、文化国家として世界の一等国になるように努めなければならない。それが私たち国民の持つ大きな義務であり、心からの希望である。
世界のすべての国民は平和を愛し、二度と戦争の起らぬことを望んでいる。私たちは世界にさきがけて「戦争をしない」という大きな理想をかかげ、これを忠実に実行するとともに「戦争のない世界」をつくり上げるために、あらゆる努力を捧げよう。これこそ新日本の理想であり、私たちの誓いでなければならない。」

 これは敗戦直後、憲法普及会が作った小冊子で、当時の人々の心にしみ込んだ文章である。
 それから60年以上経ったが、日本は基本的にはこの誓いを破っていない。
 いつまで守れるか、昭和世代は見守っている。

こんにちは

2008-01-17 01:21:47 | Weblog
柳川水郷である。
柳川城趾のお堀だというのだが、なんでこんな四通八通の運河が造られたのか、水郷めぐりの船頭さんが解説してくれたと思うが覚えていない。
普通、城のお堀は、城のまわりに巡らされて、敵がせめて来たときの防御をしやすくするということだろうと思われるのだが、ここではそうではないらしい。
柳川の町中、なんでも総延長50キロにもわたって、掘られているのだという。
当時としては、機械があるわけでもないから、すべて手掘りだったにちがいない。
佐賀県のクリークは有名だが、この柳川でも、街中だけでなく、近郊の農業地帯でもいたるところにあまり大きくはない運河が掘られている。
おじいさんの自転車に乗せられた幼児が、水郷巡りの観光客に手を振ってあいさつしてくれた。
ところで、いたるところにある運河では、フナやコイ、ウナギやナマズ、ハヤなどがいれぐいだという、うらやましい話がある。
地元の人々は、あまり釣らないらしく、海が近いので海つりが多いそうだが、最近では近所の小川でさっぱりフナやコイやハヤが釣れなくなっている者にとっては、実にうらやましい話である。