おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

本の壺 序章

2016-11-07 | Weblog
故人となった経営者の書斎の片付けに関わることになった。どうして?といった経過は割愛するが、8畳ほどの書斎は本だらけ、しかも雑然の極みで足の踏み場がないほどだ。東向きの壁一面に作り付けの書棚をはじめ、スチール製と木製の本棚がそれぞれ1つ、スライド式で表とその奥にも本が入る本棚が1つある。これに抽斗が両側に付いた大き目の机が2つ。天井以外は床も壁も机の上も本がてんこ盛りとなっている。故人は読書好きであると同時に蔵書好きでもあったみたいだ。認知症とも無縁で元気だったから生前整理など念頭になかったようだし、ものを捨てるのが嫌いな高齢者の1人だった。乱雑ながら本に囲まれた洞窟みたいな書斎に愛着を持っていたことが分かる。

書斎の扉を開き、室内を見回して故人が本とともに過ごした時間を回想したまではよかったが、次なる想いは「さて、どうやって片付けようか」だった。作業のための時間はわたしの都合で休日のうちの数時間しかない。そもそも片付けは春先から始める予定だったが、私用や気分が乗らない、部屋が寒い、或いは暑いといったことで先延ばしが続いて秋の陣と相成った次第である。3日間ぶっ通しでやるなんて時間はつくれないので、できる時に毎回3、4時間ほど少しずつやることにした。

主がいなくなった本たちをどう扱うか。蔵書家だった父親が亡くなり遺品となった本の片付けをした知人の話を思い出した。公立図書館も父親の知り合いも誰も譲り受けを望まず、古すぎたり書き込みやサイドラインが引いてあったりしてブックオフで売れるものも少なく、結局、大量の本を小分けしながら燃えるごみとしてゴミステーションに何度も運んだという。本をごみとして出す。残飯や口をぬぐったティッシュ、タバコの吸い殻などの中に徒然草やシェークスピア、老子を投げ捨てたくない。読書も蔵書も好きなわたしとしては出来ない選択だ。なんらかの形で「活かす」こと。これを片付けする本たちの運命とすることにした。

本に関心がない人が見たらゴミ書斎となる小部屋を前にして、わたしの信念は少しばかりたじろぐ。本の数があまりにも多すぎる。書棚に入れた本の前にさらに本が1列に並べて重ね置きされている。見た目以上に本が詰まった書斎となっている。8畳間にざっと1万冊ぐらいはあるだろうか。よくよく書棚を眺めてみると、本以外の物もけっこうあるみたいだ。スチール製の大型書類入れが4個、新聞や雑誌からの切り抜きなどが入っている封筒類、写真類、ファイルノート、手帳類、メモ用紙類、原稿用紙、人形、記念品などもいっぱいだ。

つくづく思う。整理整頓は元気なうちにすべし。お気に入りだけを身の回りに置く。持ちすぎることから解放されて心を軽くして日々を過ごす。遺品整理を残った人たちの負担にしないこと。がらくたは買ってはいけない。さまざまな教訓が浮かんでくるが、片付けの緒に就く気にならない。故人が手にした本たちが他人に片付けされることを拒否しているみたいだ。先は長くなりそうだ。この日は現状把握の時間として引き上げることにした。わたしは書斎の扉を閉じた。本たちを活かすための戦略と戦術を練ることにした。片付けは戦であり、格闘でもある。もちろん武器ではなく、頭と両手を使うのだ。
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