おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

山城を探して 中

2014-05-31 | Weblog
 ♪通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 山道じゃ
 山城行きの 山道じゃ

わらべ歌でも口ずさんで歩く。
舗装は途絶え、落葉が積もる山道となる。
細道ではなく、薄暗くもないが、なんとなく薄気味悪い感じが漂う。



こんな時には気分転換となるようなことを想ってみよう。
例えば、おいしそうな食べものなんかどうかな。

あつあつの出来たての饅頭だ。
山中の薄気味悪さをすっかり忘れてしまうね。

これに味をしめて、もっとおいしそうな和菓子を連想してみよう。

霊験あらたかな京の和菓子だぞ!
山の悪霊どもよ、退散せよ。

気分が高揚してきた。
もっと連想してみよう。
京の和菓子が勢ぞろいだ。


ふっと現実の風景に戻る。
石ころが交るでこぼこ道となる。
山道に落とし込まれた樹影が邪悪な何者かのようである。


  ♪行きはよいよい 帰りはこわい
  こわいながらも
  通りゃんせ 通りゃんせ

和菓子の連想の効き目が薄れてきたようだ。
陰気なわらべ歌を吹き飛ばすようなものを想ってみよう。
ブブブ、ブーン、ブンブン。
かっこいいオートバイの登場だ!


山の魔物たちも引いてしまいそうな魔物っぽい正面の姿。
山城探訪のことをすっかり忘れてしまうほど連想ゲームに浸っている。
怖いものを忘れるために想いにふけるのはいいが、これで山城は見つかるのか?




コメント

山城を探して  上

2014-05-30 | Weblog
九州北部のとある地方にある山城を訪ねる。御存知のように山城は自然の山を城に見立てて武士らが防御のために籠った陣地である。熊本城や姫路城、大阪城みたいな城が山の中にあるわけではない。探索した山城は天智天皇の時代の遺跡ではないかとされるものである。いつ頃なのかと思いきや、西暦663年ごろである。「本丸、石垣、土塁、空堀などの遺構が、はっきり残った立派な山城である」。山城がある地域の郷土誌にこんなことが書いてあるから、その気になったのだ。663年の遺構がはっきりと確認できる! 本当? 郷土誌の奥付を見る。昭和62年3月1日発行とある。663年と比べると、現代にずい分と直近してはいるが、はたして記載通りの山城が見られるのか。

現場を踏むべし。探索開始である。山城があると思われる地域に出向くが、周囲にたくさんの山が連なっている。山城がある山は一体どれなのか。人を探す。だれも見当たらない。山麓を巡る。庭先で剪定をしている農家の男性を見つけて声を掛ける。「山城? ああ、あれは貴重な遺跡だが、行政は案内板も作っていない。もったいないことだ。ほれ、この道をずーっと上って行けば分かる。途中、イノシシが里に下りてこられないように電気柵が巡らしてあるが、その1部のチェーンを外して上っていくといい」



言われた通りの山道を歩む。
木漏れ陽を浴びて上っていく。
木立の中を進む。
ここまでの山道は舗装されている。


歩みながら、いろんな思いが浮かんでくる。
例えば、自らが蒸気機関車になった気分。
なんだ坂、こんな山道、シュッシュッ、ポッポポッポ。



どうせなら正面からの力強い面構えも拝見しよう。


機関車気分でどんどん山道を進んでいく。
山城を教えてくれた人はすぐにでも到着しそうな話ぶりだったが、山道はまだまだ続く。


機関車の勢いが薄れてくると、快速列車の運転席にいる場面に早変わりする。
どこまでも続く線路のように、山道の先に行きつかない。
山城行き快速列車の発車のベルが鳴った。
ロードムービーの始まりだ。



コメント

カフカの長篇3部作を読む 不条理の中のリアリズム

2014-05-22 | Weblog
1924年、チェコ・プラハ生まれのユダヤ人作家フランツ・カフカが40歳で病没した。生涯の友人マックス・ブロートは残されたノートや草稿からタイトルのない未完の長篇小説3作を見い出した。未発表の遺稿を他者に公開することなく保管、章立てを整理してタイトルを付け順次刊行していった。1925年・審判、1926年・城、1927年・アメリカ。1968年、ブロートの死によってカフカの手稿が改めて陽の目を見ることとなり、ブロートの思惑を排除した上で章立ての一部変更など新たに校訂した手稿版の全集がその後刊行された。生前脚光を浴びることのなかったカフカだが、今日では20世紀を代表する作家の1人となった。

今回手にしたのはドイツ文学者池内紀訳による手稿版の長篇である。審判、城のタイトルはブロート版と同じだが、アメリカは失踪者に改題されている。カフカと言えば、「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気づいた」の書き出しで始まる短篇・変身があまりにも有名であり、全作品の中で傑作であることは間違いない。

カフカの小説のテーマは不条理であり、そこが作品の面白さと魅力でもある。悪夢のようなとしか言いようのない酷い現実がある日突然、主人公を襲う。なぜ、こんなことが身に降りかかるのかが当人にはまったく理解できない。読者も主人公と同じ心理状態に落ち込み、頁を繰るごとに不快感がまとわりつき、落ち着きのない、いらいらしたような読書時間となる。不条理世界の描写もシュールリアリズムまでに達すると突き抜けた痛快さや爽快さがあったりするが、カフカの場合は救いようのない不条理リアリズムと呼ぶべき世界に読者を誘い、主人公の世界に同居させられ閉じ込められる羽目になる。

変身の不条理度の強さを5段階評価で最高の5とするならば、審判は4、城は3、失踪者は2ぐらいだろうか。長篇3作に通奏低音みたいに共通しているのは、主人公の未来の先細りである。それは不条理の袋小路へと続く。主人公は思案しているはずである。どんな因果によってこんな受難の人生を歩むことになってしまうのか。審判のヨーゼフ・Kはある日、逮捕され、法廷で裁かれ、むごい人生の末期を迎える。失踪者のカール・ロスマンはヨーロッパから新天地アメリカへ渡り人生を踏み出すが、流浪の堂々巡りに落ち込んでいく。城のKは測量士として城がある地方を訪ねるが、城の権威に支配された住民たちに翻弄されていく。

長篇を読み終えた達成感や爽快感は3作ともにない。その理由は明快である。小説としての仕上げがいずれも放棄された作品だからだ。まさに未完なのである。カフカの長篇3部作を通読したという記憶は確かに刻み込まれた。逆説的な意味ではたして読了すべき本だったのかという思いもわいてくる。カフカは変身だけを読むにとどめて、長篇は書架の飾りとして背表紙を眺めおくだけでよかったのかもしれない。不条理の世界を知って暗澹となることはあっても、溌剌として健康になって良かった! なんて話は聞いたことがない。

これまで読んだ小説の中で最高峰の部類に入る紫式部の源氏物語は美しい顔立ちできらびやかな姿の毒花みたいな作品だが、カフカの長篇は見るも聞くも語るも奇怪にして受難に彩られたあだ花である。この毒花とあだ花こそ文学の底知れぬ力を読者に見せつけ、小説の奇々怪々の魅力を語っている。われわれは不条理を愛さないが、不条理はわれわれを愛する。カフカの作品はそう諭している。カフカの長篇がつまらないって? 書架の飾りにして眺めているだって? 誰がそんなことを言っているのか。ふつふつと憤慨していくわたし。この状況、カフカ的不条理というものだ。
コメント

コンフィデンシャル・ラズベリー・ロード

2014-05-19 | Weblog
朝のウオーキングコースは里山が広がる一帯を通っていく。新芽、新緑、紅葉、落葉と春夏秋冬の景色を季節に応じて見せてくれる。スズメやヒヨドリをはじめ、ヒバリ、ホトトギス、ツバメ、シロサギ、アオサギなどの鳥類も豊富だ。イモリ、ヤモリ、カエル、カブトムシも春夏の定期公演の常連としてお目見えする。宝塚歌劇団じゃないが、今期の果実組の1番人気はラズベリーこと木苺である。春先にウオーキングコースのいたる所に白い花を咲かせているのに気づいた。以前からコース途中の2か所ほどで木苺が実るのを知っていて、結実の季節になると摘まんで食べていた。それが、今春はこれまで以上の場所で白い花が咲いているのを発見した。

だれも知らないか、だれも関心がないのか、木苺が鈴なりになっていてもそのままの状態である。中学生の通学路沿いにたくさんの赤い実が緑の葉の中に絵の具を散らしたようになっていても、いつもそのままとなっている。こんな新鮮な木苺を朝1番に摘んで、その場で頬張る幸せを味わわないなんて。小さな醍醐味。かれんな口福。秘密の食いしんぼウオーク。1日を朝採りの木苺を食すことで始める。こんな慎ましい時間が本当に好きになった。

木苺が実をつける場所を巡るうちに、場所によって生育の仕方が異なるのを知る。同じ日陰の場所であっても生長の良し悪しがある。生長してもせいぜい小指の頭ほどの実しかならない場所もあれば、1日毎に成長し小指の頭から中指の頭、そして親指の頭となる場所もある。だから生長が見られる場所では乱獲をしない。親指の頭大になるまで数日待って成果を頂くようにしている。

色合いは同じように赤色だが、味わいは微妙に異なる。糖度十分の絶品もあれば、おいしさも中ぐらいのものもある。日照時間や土壌、湿気などいろんな要素が絡んで味わいの優劣ができているようだ。知人に採りたての木苺を食べていることを話すと「洗わないでそのまま食べているの?」と驚かれたが、元祖野生児の胃袋は頑健だし、これぐらいのことができなければ里山暮らしはできないのである。

里山に住む人たちが木苺に見向きもしないのは、売り物にしようとか、ジャムづくりをしようという発想がないためだろうか。スーパーに行けばハウス栽培の大粒の苺をはじめ、もっとおいしい果物を味わえるからだろうか。人以外では、あの大食漢のヒヨドリなんかが木苺がなっているのを目ざとく見つけて食べ尽くしてしまいそうだが、それもない。ナメクジや蟻なども寄りついてきそうだが、その痕跡もない。犬や猫、狸、アライグマ、猪たちも木苺の旨さに気付いていない。だからこそ、わたしだけが毎朝、ウオーキングがてら木苺を独占的に頬張ることができている。

きょうもまた朝採りの木苺を食しながら考えた。だれもが通るこの道路沿いにこんなに木苺がなっている。みんなが日ごろ見なれた場所の中にこそ、発見されるのを待っている秘密が潜んでいる。車の流れが絶えない交差点の真ん中に、おいしい秘密の空間をただ1人見つけたようなもんだ。木苺のおいしさの裏側には、わたしだけの秘密というスパイスが隠し味となっている。



コメント

オーナーシェフの妻はなぜ不機嫌そうな顔をしているのか

2014-05-11 | Weblog
思いすごしかもしれない。何度もそう言い聞かせてきた。歳月を重ね、頻度が増すに連れて、どうも思いすごしではないかもしれないと思うようになってきた。オーナーシェフの店として夫婦2人で経営しているフレンチやイタリアンのレストランで非常にしばしば見受けられる現象だと理解するようになった。昨日の昼の会食でそれは確信に近いものになった。オーナーシェフの妻が店内でにこにこしているのを見かけたことがない。よくよく見れば、ほとんどの場合、不機嫌そうな顔をしている。

なぜ、こんなことに気付いたのか。ホテルのレストランなどの店では感じないことが、夫婦2人で取り仕切る店ではおうおうにして感じるためだ。出迎え、注文取り、調理、配膳、食器の後片付け、会計、見送りを複数の人間が役割分担している店では、対応に余裕みたいなものがある。ホテルのレストランスタッフたちは必ずしもにこにこ顔ではないが、不機嫌そうな表情を顔面から醸し出すことはなく、普通の顔つきとも言うべき真顔できびきびとした応対をしてくれている。だから、彼らの顔つきを気にすることなくコース料理の1品1品を味わい、客同士の会話に没頭できる。

夫婦2人の店となると、ホテルのレストランみたいな役割分担ができない。夫は厨房で料理づくりに懸命だ。となると、妻が料理以外のすべてを対応することになる。その店が1日限定1組4人までということなら、妻1人で笑顔を交えて客に接し、料理の前に「どちらから来られましたか」「アレルギーとなる食材がありますか」から始まって、食間の話題の1つか、2つぐらい提供してくれるかもしれない。しかしながら現実はこんな感じだ。昼時になるとお客が次々にやって来る。注文する料理もランチコースあり、単品ありとばらばらだったりする。冷たい水が欲しい。まずはグラスビールを。おしぼりを頂戴。客によってはメニューを見ながら1品1品どんな料理か尋ねて決めかねている者もいる。その間、厨房には配膳すべき料理が出来上がって運ばれるのを待っている。妻1人で10人分の対応をする日々。開店当初は張り切って頑張っただろう。月日が経つにつれて、それはストレスに変わっていく。

夫婦で長年お互いに見合ってきた顔だから、夫は妻の顔つきの変化に気づかない。余裕のないくたびれた顔が、いつもの顔つきとなる。客と接することに歓びが感じられない。店に立ち、客を迎えることに無感動となっていく。夫がつくる料理を自慢もしくは誇りとする気持ちがあふれ出ない。おいしい料理を出して客に歓んでもらう。それを夫婦のなりわいとする。そんな食べもの屋の原点がいつしか、店外のどこかへ行ってしまっている。

前夜に夫婦喧嘩でもしたのだろうか。子どもの将来で悩みがあるのだろうか。親の介護で頭がいっぱいなのだろうか。飼っていた犬か猫が死んでペットロスが続いているのだろうか。経営が大変で借入金の返済や納税などの資金繰りで頭が痛いのだろうか。体調が不良なのだろうか。不機嫌そうな顔からは、ありとあらゆる妄想が浮かび上がってくる。当然のことながら、運んできた料理の説明や、皿を置く仕草にもきびきびしたものはなく、なんとなく心がこもっていないと感じることになる。ランチはコース料理1種類だけという店になると、店内のあちこちで身の入らない同じ説明を繰り返すことになる。朗らかさがない接遇が料理の味わいに影を落とす。不味くもないが、旨くもない。下手をすると、淡泊過ぎたり、逆に塩味が強かったり、こってりとした味わいだけが印象に残ったりする。

夫婦2人でやるオーナーシェフの店のかじ取りはなかなか簡単ではないようだ。雇われシェフであれば資金繰りなど経営的な課題に頭を悩ますことはない。1人以上のスタッフがいれば対応は少しは楽になるが、人件費の発生や雇用の維持、継続に気を使うことになる。スタッフが自分の息子や娘であれば、家族経営ということで活路が広がりそうに思えもする。不機嫌そうな表情を直すには、自分で鏡を見て気づくか、夫や友人、親切心のある誰かが指摘してあげるしかない。申し訳ないが、わたしの場合、こういうお店とは一期一会の関係で終わってしまっている。

シェフの妻の不機嫌そうな話を書きながら、ある事を思いだした。こんな内容だ。夫婦2人でやっている洋食屋にかつて入り浸りの時期があった。シェフは在外日本大使館で料理を担当していた。マスコミ報道に出ない現地の面白い話をよく聞いた。シェフの妻は10歳以上年下の若々しい女性で、愛くるしい笑顔とてきぱきとした動作で接客していた。料理が旨くて、シェフの話が面白く、妻の接客がすこぶる評判とくれば、店は常連客が増えて大いに繁盛した。店はその後どうなったか。繁盛したのは良かったが、料理をつくるのに精を出し尽くしたシェフは利き腕が腱鞘炎となってしまった。フライパンを握れなくなり営業ができなくなった。治療は長引き、閉店が続いて客は離れていった。店は再び開店することはなかった。風の便りで聞いたのは、シェフは自裁し、残された妻は食べもの屋ではない男性と再婚し行方知れずとなったということだった。

哀しい話を思いだしてしまった。オーナーシェフの妻たちよ、あなたの笑顔を鏡に映し出してみて。そして、やって来る客たちに会食の愉しさを味わわせてほしい。あなたの素敵な笑顔を添えて。


コメント

もう1度考える人

2014-05-09 | Weblog
18歳だった。九州の西の果てから上京し上野にある国立西洋美術館の前庭にいた。目の前にロダンの地獄の門がそびえ立っていた。考える人はわたしを見降ろし、わたしは考える人を見上げた。地獄の門は鈍い黒色の門だった。ダンテの神曲地獄篇に想を得た作品だが、今日に至るまで書架にあるものの読んでいない。前庭の別の場所で、考える人は地表に降りて深刻な顔をして腰かけていた。作品そのものよりは、作品を見ている自分自身に感動していた。彫刻を味わいきれる年齢ではなかった。ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館は颯爽としていた。考える人とは違って思い悩んだ風がまったくない、すっきりとした建物だった。高名な神社仏閣に見られるような大仰と装飾過剰なものはなかった。モダニズム建築と呼ばれる建物に初めて触れることで大都会東京にいることをつくづく実感した。

16歳だった。日本人の血が4分の1混じるフランス人マリクロードと、マリクロードの従妹で生粋のフランス人イヴォンヌ、従弟ジョージの4人で長崎港外にある無人島に船で出かけた。日本人の漁師が船外機付の船で島まで運んでくれた。島の岩場に上陸し、持参してきた食糧を運び上げた後、漁師は夕方に迎えに来ると言って港へ戻った。はるか年下のジョージを除いて、マリクロードもイヴォンヌもわたしも同じような年代だった。4人は船に乗り込むときから水着姿だったから、岩場から思い思いに青い海に飛び込んでは浮き上がり、再び岩場に上がっては飛び込むことを繰り返した。疲労困憊したわたしは岩場に置かれたバスケットのいくつかの中を覗いた。マリクロードの母親がつくった食べ物が詰まっていた。海苔で巻かれたおにぎりを手に取って頬張った。海水に浸かり泳ぎ疲れた後のおにぎりの塩けの旨さは格別だった。マリクロードとイヴォンヌは歓声を上げながら飛び込みを繰り返していた。フランスの女ってのは本当に体力があるんだな。16歳の思いは何年経っても鮮明だ。

ちょっとひと休みという風情でわたしの横に浅黒い肌のマリクロードと真っ白な肌のイヴォンヌが腰かけた。2人はおにぎりを手づかみして頬張る。時おり鼻に抜ける発音を交えてフランス語でやりとりをしている。小鳥のさえずりみたいだった。マリクロードは右手首に金属の輪っかをしていた。 16歳の少女の装身具をまじまじと眺めた。ケスクセ? バングルというものだった。マリクロードは何が珍しいのという顔をしておにぎりをたいらげた。フランス娘はおしゃれを身に付けて愉しんでいた。どうして金属の輪っかを腕に通すとおしゃれになるのだろうと自問する。大和をのこはおしゃれには疎かった。わたしを置いてマリクロードとイヴォンヌは再び飛び込みに興じていた。ワンピース型の水着から伸びきった2人の四肢が宙を舞う。マリクロードの黒く長い髪は夏の陽にビロードの輝きを見せ、イヴォンヌのブルネットの巻き毛の断髪から滴が落ちていた。この日からわたしはフランスにかぶれることにした。20歳を待たずにジタンを吸い、紫煙をくゆらし粋がった。

27歳だった。仏領ニューカレドニアを旅行していた。森村桂の小説で天国に一番近い島として日本人には知られていた。最大都市ヌメアにある海岸沿いのホテルに滞在した。フランス人の経営だった。客は日本人もいたが、オーストラリアからの新婚夫婦や息抜きでやってきたという若者たちがたくさんいた。彼らは観光地巡りなんかせず、海岸で寝そべったり、ボール遊びをしたり、ウインドサーフィンや小型ヨットで愉しんでいた。食べて、呑んで、遊ぶ。それに戯れと愛し合うが加わる。それらを2週間ほど満喫して職場に戻って行った。広い浜辺の一角で数人の男女がビーチバレーをやっていた。女はトップレスだった。大ぶりではなく、中ぶりと小ぶりの合い中の乳房をしていた。ボールを追って乳房は上下に揺れていた。素顔や素手や素足があるように、覆いのない乳房は在るべきところに在るべきものが在るだけのことだ。想像が入り込む余地はまったくなく、あっけらかんとしていた。揺れる乳房は太陽の下で果実のように晒されているだけだった。

滞在中にペタンクを教えてもらった。野球ボール大の金属球を地面に転がして得点を競う球技である。勝つための知力が少しばかりいるが、あとは体力も含めて何もいらない。Tシャツに短パン、裸足でも愉しめる。ルールは簡単で、1戦当たりの時間はそんなにかからないから何度でもやれる。のんびりとした気分が流れる中で、投球をする時だけ少しばかり真剣になればいい。この繰り返しだけど、結構夢中になる。勝って良し、負けて良し。勝者を褒め、敗者をねぎらう。これほどまったりとした球技を他に知らない。フランスかぶれで、LE MEILLEUR DE LA VIE!
コメント

グリーンジョーク

2014-05-04 | Weblog
休日は朝からワインが呑めるので好きだ。車を運転することもなく、業務で誰かに電話することもないし、試算表の数字に目を通すこともない。ほろ酔いぐらいに杯が進むと、脳内のいろんな引き出しから手品みたいに何かが飛び出してくる。今日のお題はジョーク。ブラックジョークを笑いの基準とすると、いわゆるジョークはホワイトの位置づけになるのだろうか。ブラックとホワイトの間にそよぐ、たわいないジョークを何と命名しよう。新緑が3Dアートとなってくっきりと浮かび上がる季節にちなんでグリーンジョークと仮り命名して愉しもう。


上から読んでも下から読んでもトマト。何千個も食べてやっと気づいた。


きゅうり―りゅうき―りきゅう。お点前にきゅうり、ヌーボー茶の湯。


豚小間切、若鶏モモ肉、牛豚合挽ミンチ、いずれも百グラム当たり88円。

なにをしたらここまで刻まれる?

飼い主が商売人だったから。


活〆真鯛1尾800グラム780円、真あじ1パック198円、さざえ百グラム当たり78円。

 
生前の姿のまま鯛とあじは開眼し、さざえは沈黙。

買い物客の言葉。生き生きしているね。


人生を満喫している。

必要なものは全てある。

でも1つだけ抜けている、ご臨終。


本屋のジレンマ

その1:速読術の本を15分で読み終える

その2:立ち読み禁止の張り紙のそばで立ち読みの裏技の本を読む

その3:本屋で下読みして、図書館で借りる


哲学書をたくさん読んだが、日常生活にいかされることはなかった。

富豪になった哲学者をだれか知りません?


片付けの本を読んだり、講話を聞いたが、なんの変化もなかった。


ノンアルコールという偽ビール

旨いと言うのは嘘つきか騙されたふりをしている人

不味いと言うのはわざわざお金を払って真実を述べる人


限界利益、売上総利益、粗利。分かりやすい粗利で統一しようよ。


利益―会計用語、所得―税務用語

収益―会計用語、益金―税務用語

費用―会計用語、損金―税務用語

歩み寄って1つの用語にしてくれない?


ユダヤ人の賢さについてシンクタンクの人と意見を交わす。

ああ、それはねえ、小さいときからタルムードを読んで論理的な考えを養ってるんですよ。

別れた後に再考する。シンクタンクの人はタルムードを読んだことがないんだったな。


日本人がお辞儀をしなくなったら、頸椎症の発症率が少しは減るかもしれない。


定年延長

功……ばりばり働くことができる

罪……いつまでも働かなくてはならない


経営者と会社員の相違は何か。責任、役割、視野の範囲を円グラフの度数で表示する。

オーナー経営者  360度

雇われ経営者   300度

専務取締役    240度

執行役員     180度

部長       120度

課長        60度


勤続10年未満社員  10度~59度



そのうちと言い続けて5年、10年、15年、20年……。

そのうちは止まらない。永遠に。



 





























コメント