おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

その美しい本の名は

2008-12-25 | Weblog
図書館の新刊本コーナーはガチガチの硬派あり、ソフトとろとろの軟派ありと、公平公正を旨とする選定者の生真面目さが際立って面白い。装丁も色とりどりの凝った金満組から超低予算を思わせる雑で手抜きな貧鈍組まで出版社の羽ぶりがよく分かる。

何十冊も展示された新刊の中でひと際目立つ本がある。なんと美しい色合いなんだ。若草色というか、葉先を出したばかりの新芽の色というか。視線は外れることなく、足は吸い寄せられて、腕は伸びて、その本は二つの手の中に納まった。

羽ばたく鳥が銀色で小さく描かれている。白鳥か。装丁は売れっ子の根本有華だ。書名と著者がフランス語と日本語で書かれてある。「アデン、アラビア ニザン」と「名誉の戦場 ルオー」。ルオーは知らなかったが、ニザンなら知っている。あのポール・ニザンだ。1940年、35歳であっけなく戦死してしまった作家。

僕は二十歳(はたち)だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

最も印象に残る書き出しの文学作品のひとつだ。その余韻は何年たっても褪せることはない。むしろ自らが馬齢を重ねたことをひしひしと実感させられる。映画エデンの東の中のジェームズ・ディーンが永遠に若いように、ポール・ニザンも作品の中で文学的若々しさは不変のままだ。

「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全24巻」の1冊だ。刊行予定の他の作品もなかなか面白そうだ。「存在の耐えられない軽さ」(クンデラ)、「アフリカの日々」(ディネセン)、「疾走者」(カフカ)、「クーデタ」(アップダイク)、「賜物」(ナボコフ)、「黄金探索者」(ル・クレジオ)……。個人編集だから好きな作家たちを集めた贅沢な全集でもある。

「アデン、アラビア」という作品、最後まで読みおおせた人は意外と少ないとか。ドストエフスキーの「罪と罰」あるいはトルストイの「戦争と平和」に挑んで途中で討ち死にして読了するように、書き出しから5ページほど読んで、ブレイクタイムを取ったが最後、そのまま本棚に収まるか図書館へ返却となるかいずれかの確率が極めて高い作品でもあるという噂もある。

確かに書き出しはじっくりと何度も読んだ。なかなかいい。その後は確かに噂の存在を確認することになる。ニザンが呼んでいる。おーい、どこにいったんだよ。アデンはこっちだぞ! 途中で読みたくなくなったなんて誰にも言わせないぞ。戻って来いよ。もう1度言うぞ。戻ってこい!
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キアヌが静止する日

2008-12-25 | Weblog
もっと地球人をこてんぱんにやっつけてほしかったわ!

キアヌ・リーブス主演の映画「地球が静止する日」を観た後、連れの女性が言った。温厚な人柄だけに落差のある発言に驚いた。

えっー。ニューヨークの街をあれほど破壊しまっくているだけでも十分じゃないの。

かっこいいキアヌがもっと暴れる場面を見たかったのに。あれじゃ地球が静止じゃなくて、キアヌが静止する日じゃないの。

ネタばれになるので映画の詳細は割愛するが、要は地球を救うためには人類を滅ぼすしかない。エコの観点から見ても人類は環境破壊の根源という指摘でもある。「地球人? 死んでもらいます。人が作った都市? 破壊し粉砕します」。この最終宣告をするために宇宙から地球にやってきたのがキアヌだ。

ここで人類の弁護人たる役割を果たすのが、科学者のジェニファー・コネリーだ。がんばれ、ボンドガール! 黒髪に黒い瞳のジェニファーがキアヌに切に訴える。

「わたしたちはCHANGEできる。CHANCEをちょうだい!」。このセリフ、どこかで聞いた。そう、バラク・オバマの「CHANGE!」であり、「YES,WE CAN!」じゃないか。この映画、オバマ応援映画になっている。ジェニファーの訴えでどうなったのか。それはスクリーンで確かめてくださいませ。

オバマと言えば、米誌タイムの「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」に選ばれた。選考されることに異論はまずないだろう。タイムの選考理由がいい。もっと言うと、表現がなかなかいい文章だ。

「暗い時代に野心的な未来を描く自信に満ち、その実現に向けて米国民に期待感を与える力を見せた」。この一文に米国ジャーナリズムの知的な表現力の粋を見る。「野心的な未来を描く」に「期待感を与える力」だ。しびれるようなうまい表現じゃないか。

記事はだれでも書けるが、だれもがジャーナリストにはなれない。エッセーもだれでも書けるが、だれもがエッセイストにはなれない。小説もだれでも書けるが、だれもが小説家にはなれない。切磋琢磨しか未来への登攀ルートは拓けない。

映画の話に立ち戻る。ジェニファーの子供を演じるのが黒人俳優ウイル・スミスの息子だということも、この映画がつくづくオバマに一脈あることを思わせる。本筋の話よりは、時節柄、裏読みの別筋の話にどうしても引かれてしまう。


 
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海老蔵&獅童

2008-12-23 | Weblog
新橋演舞場の上空には雨雲が垂れ込めていた。日差しのない冬場に雨降り前の陰気さが加わり、鬱とした雰囲気を演舞場前に漂わせていた。幕間の昼食用にこぶりのちらし寿司セットを手に入場する。ロビーは観劇の客でざわつき、にぎわっている。ほとんどが女性客だ。小雨が降り出し、本格的な雨模様になるころに開演となった。

松緑、菊之助、海老蔵、愛之助、獅童らが出演する花形歌舞伎。演目は「伊勢音頭恋寝刃(いせおんど・こいのねたば)」と「義経千本桜 吉野山」。舞台から2列目、花道から数えて4番目の席に座る。海老さま、獅童ちゃんファンの女性たちに包囲される。花道から出てきた役者たちが大見得を切るために立ち止まる場所のそばだけに、海老さま、獅童ちゃんと目線が合った女性たちはうっとりとした表情で役者を見つめている。

見られることで二枚目はますます男ぶりを上げていく。その声、あの流し目、この太刀さばき。一挙手一投足に演舞場のすべての観客が注目し色恋や惨劇の世界に浸りきる。ここ一番の大見得の場面では拍手が起きるが、歌舞伎ファンの女性に言わせれば「きょうの客はなってない」とだめを押されるほどに拍手が少なかったらしい。

テレビドラマや映画作品が空しくなってくるほどに、生身の役者が目の前に出てくる演劇の魅力は圧倒的なものがある。演者が観客を物語の世界に引きずり込み併呑する。のめり込み、吞み込まれる感興が快感となる魔力を演劇や舞踏は持っている。インド舞踊のシャクティ然り、百物語の白石加代子然り。

演じるという虚構と、目前で観るという現実を同時に味わう。虚実ないまぜの中に身を置くことで悦楽のひと時が生まれてくる。脳内にドーパミンが広がり、精神は物語と興奮、いわば劇的なものを求めていく。野田秀樹、蜷川幸雄、山海塾……。舞台が呼んでいる。わたしの清水の舞台あるいはグローブ座はどこにある?

追記。舞台演劇の本質は、主役であれ、脇役であれ、その他大勢であれ、演(や)ってる者が最も楽しんでいる。原作者よりも観客よりも。
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茅ヶ崎館本館中二階二番

2008-12-21 | Weblog
泊まってみたい旅館の一つに神奈川にある茅ヶ崎館がある。宿の主人が綴った文章をちょいと引用してみる。

「我が家の裏木戸から石段を下りると、道は真っ直ぐ相模湾に向かっています。浜辺からは、東に江の島と、その彼方には房総半島が霞んでいます。西には箱根と伊豆連山を従えた富士山が、四季折々に色を変えながら、美しいシルエットを見せています」

これだけで客人を宿に誘うには物足りない。途中を割愛して引用を続ける。

「体格のがっちりした眼の優しい方でした。当時はお客さんと同じ風呂を使っていたので、先生と一緒になることがありました。木の湯舟からざーっと湯が溢れる大きな背中でした。外地に出征される時、『カッちゃん、土産は何がいいかね』と聞かれ、私はとっさに『切手がいいです』と答えた記憶があります。終戦の翌年に先生は茅ヶ崎に帰って来られました。戦後第一作、“長屋紳士録”の封切りで、ファンは小津調復活を知りました」

邦画ファンならばお分かりだろう。先生の名は小津安二郎。茅ヶ崎館は小津の仕事場、脚本を書くための常宿だった。本館中二階二番の部屋で小津は相方の野田高梧らと想を練った。この部屋から晩春、麦秋、東京物語など名作が誕生した。当時の雰囲気そのままに小津部屋は今に残り、紫煙や得意のカレーすき焼きの香りを天井や柱に染み込ませ往時をしのばせる。

酒宴や飲食、昼寝、風呂上がりの寛ぎ、出演女優たちとの歓談があり、そして何よりも創作の意思と想念、苦吟が駆け巡った空間だ。「小津監督が使っていた部屋は空いてますか」「本館中二階二番ですね。土日はふさがってますが、金曜は空いてますよ」。女将との話はまとまった。金曜の夕方をとっくに過ぎた頃、茅ヶ崎駅から徒歩で宿に着いた。翌朝になって、宿が時代の流れから取り残された島のように住宅街の中にあるのを知った。

これも翌日分かったのだが、その夜の宿泊は深夜に着いて早朝に早々と出て行った隣部屋の客とわたしだけだった。事実上、貸切だった。わたしは檜の湯舟のお湯を溢れさせ、洗い場で柔軟体操をし、鷹揚な気分で髪を整えた。夕食の予約をしていなかったので、若主人に小料理屋まで案内してもらった。長居してまで食べ続ける味でもなかったし、小津部屋にいる時間を少しでも長くしたいとの思いから、酒は梅酒のロック2杯でとどめ早々に引き上げた。

宿から借りた「小津安二郎と茅ヶ崎館」(石坂昌三)を寝床で読む。この部屋で小津が写った写真とそのままに障子があり、柱がある。小津は海側(相模湾)を背にして座っていたとある。さてと、海側はどっちだ。こんな連想をしながら、この部屋での小津たちの生活と創作の日々がよみがえってくる。うまい文章の酔いごごちを味わい、安堵したような気分で眠りに就く。

遅めの朝食を頼んだ後、朝風呂につかり、髭を剃り、浴衣の肩に手ぬぐいを引っ掛け、みしみしとなる廊下を歩く。客人はわたしだけで、仲居すら姿が見えない。隠れんぼの鬼となり、全員がふざけて自宅に帰ってしまっているのも知らずに探し回っているみたいだ。そもそも帳場らしきものが見当たらない。宿帳に名前を書いた部屋に行っても誰もいない。「すみませ~ん」と声を出しても返答もない。不安というほどでもないが、安心とは言えない気分でうろうろしていると、中年の白髪の仲居と出くわした。

松やサツキなどの植え込みがある中庭に面した部屋に案内された。畳の上に食卓と椅子が置かれ、和食が運ばれてきた。高くなった朝陽に照らされた庭も室内もしんとしている。1人黙々と箸を動かす。夜更かしして朝からぺちゃくちゃしゃべりながらの食事も嫌だが、静かな和室でだまって孤食にひたるのも好みではない。

食後、小津と同じように散歩に出ることにした。宿の主人の文章に従って庭の裏木戸(実際は金属製)から石段を下り、道を真っ直ぐに進む。茅ヶ崎海岸に突き当たり相模湾が広がる。えぼし岩も見える。海岸に出たのには理由があった。富士山を見ようと思ったのだ。

茅ヶ崎は左富士で有名な地だ。東海道では右側に見える富士山が茅ヶ崎では左側となり安藤広重が浮世絵に描いている。右を見ても、左を見ても見えない。快晴で遠くの山並みが見渡せるが富士山は不在だ。小津の仕事部屋で一夜を過ごし、左富士を眺めるのが茅ヶ崎での仕上げだった。

残念だが、この一帯から富士山は望めないのだ。宿に戻り帰り支度をし、小津を扱った書籍を置いた部屋から駅までのタクシーを呼ぶ。白髪中年の仲居がせっせと廊下を掃除している。声を掛けて尋ねた。「富士山はここからは見えないんですかね」「富士山? ああ、見えるなら山手の方向だろうねえ」。関心がさほどないように言って再び掃除をし続けた。

タクシーが来るまで所在なくしていると、仲居が息を弾ませてやってきた。「お客さん、タクシーはまだ来てないですか?」「ええ、まだのようです」「よかった。見えますよ! 二階から富士山が見えますよ!」「えっ」。仲居はわたしを手招きし廊下を小走りし案内する。わたしも小走りとなる。踊り場がない階段を二人して駆け上がり、仲居が引き戸が開いた和室に駆け込む。後を追う。客人のためにきちんと敷かれた布団のそばを通り窓際に迫る。

「ここからですよ。ここから見えますよ」。仲居が高揚した声を出して小窓を開けた。冠雪した富士山が目に飛び込んできた。青空を従えて霊峰富士がどんと居座っている。存在の引力からか思わず手を合わせる。仲居も感極まった表情をしている。「あなたも一緒に」。「はい、はい、わたしも合掌します」。そう言って仲居は祈りの姿になった。吉兆を求めて、それに当たった満足感をわたしは感じ、仲居の表情もまた同じ思いだった。

小津安二郎と富士山。初めて訪れた茅ヶ崎で、普通の生活と時間の中に共存する偉大さを観た。後生に畏るべしと言わせしめる魅力の塊に触れた。これだけでも2008年はわたしにとって十分に価値があった1年間となった。

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うろ乗に電の江だうそ

2008-12-19 | Weblog
ある晴れた週末、小さな旅行をすることにした。江ノ電に乗ろう。全長10キロ、15の駅を通過する旅となる。

なにせ響きがいい。えのでん。連想が弾む。おでん、逐電、屯田(兵)、でんでん虫。冬場の日向ぼっこ、のんびり温泉につかるような思いをもたらしてくれる。えのでんはええ。えのでんは構えない。えのでんは普段着のままでいい。

♪今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思う間も無く トンネルの~

熱狂的な鉄道ファンではないけれど、ゴトンゴトンの線路を走る音に鼻歌の一つも出てくる。新幹線や東京メトロじゃ、こうはいくまい。

♪遠くに見えるは村の屋根 近くに見えるは町の軒(のき)

♪森や林や田や畑 後(あと)へ後へと飛んで行く

沿線の民家の生垣すれすれに列車は走っていく。実際の間隔は30センチ以上はあるのだろうが、見た目は10~15センチほどだ。生垣から伸びた枝とか、飛び出た花一輪さえもなく、列車に当たらないように見事に手入れされている。

江ノ電の保線担当者が言う。「民家の方が自前で手入れされる場合と、民家の方の許可を得てわたしたちが剪定する場合があるんですよ。大事な植木をわたしたちが勝手に切ってトラブルになってはいけませんからね」。沿線住民と江ノ電側が協力しあって、ぎりぎり・すれすれ・ここまで近づくか、という沿線風景が出来上がっている。

毎度ながら保線担当者に質問する。「民家と線路が超接近してますけれども、これは線路ができた後に民家が迫ったのか、民家のそばに線路を引いたのか、どちらなのでしょう」。やたら質問をかます江ノ電ファンだなと思いつつも担当者は丁寧に答えてくれる。

「藤沢と江ノ島の間が開通して百年以上です。その後に沿線が延びて鎌倉まで走るようになりました。全線が開通してから百年近くですから、そうした経過と当時の沿線状況からしますと、線路ができた後に民家が建ったと言えるでしょう」。まさに好き好んで線路のそばに住まいが並んでいった。

海側の窓からはオットセイみたいに波間に漂うサーファーたちが見える。のどかで平和な風景が続く。山側の窓からは紅葉した落葉樹が鮮やかだ。抜けるような、いや抜け切った青空がいい。ライフ・イズ・ビューティフル。

♪廻(まわ)り灯篭の画(え)の様に 変わる景色のおもしろさ

♪見とれてそれと知らぬ間に 早くも過ぎる幾十里

通り過ぎる駅名もいい。七里ヶ浜、稲村ヶ崎、極楽寺、由比ヶ浜。地名に味がある。のんびり、ことこと、江ノ電小旅行。切符1枚で幸せな時間が手に入る。気分は実物大のジオラマに入り込んでいる。気持ちが高揚して言葉も反転する。「は次、らくっまか~、らくっまか~」。四国八十八か所のお遍路にならって順打ち、逆打ちもいいな。「ざい、わさじふ、へ~」

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渋谷でアンドリュー・ワイエス展を観る

2008-12-17 | Weblog
渋谷のBunkamuraでアンドリュー・ワイエス展(12月23日まで開催)を観る。創造への道程(みち)をテーマにテンペラを含む素描、水彩約150点が並んでいた。テンペラに仕上げる前に下絵として素描や水彩でいくつも描いて構図や色調を練った。完成作と下絵群を比較することでワイエスの創作の過程が具体的に分かる作品展となっている。

会場に入ってまず驚いたのが人出だった。週末とはいえ、こんなにもワイエスファンがいるのかというほどの多さだった。1点1点に行列ができている。美術鑑賞では1点当たり最低10分間は見入る性分なので、150点を見終えるのに1500分、もしくは25時間、朝6時から寝食抜きで見続けても翌朝7時までかかる計算となる。

いつもの鑑賞法を変更する。順路を進みながら行列ができている作品は飛ばして人の集まりが少ない作品から見ていくことにした。最後まで行き着くと逆行して順路の最初に戻る。この往復を繰り返すうちに全作品に目を通した。さらに気にかかる作品に再三再四じっくりと見入った。

ワイエスの風景画の魅力は作者自身の寂寥感、孤独感、虚無感、世界の中で1人だけ風景の中に取り残されたような感慨が感じられる点だ。見る人もワイエスの風景観と感受性に同調していく。

荒涼とした風を感じさせる風景画の一方で、ワイエスは「果実」も描いた。それはリンゴやオレンジ、グレープフルーツではなく、ブルーベリーや木イチゴのイメージに例えることができる。身障者クリスティーナであり、少女シリであり、農婦ヘルガだ。極めて限られた世界で暮らしているワイエスの近くにいた女性たちが素材となった。

ワイエスへの魅せられ方は人それぞれだろうが、私の場合はヘルガがきっかけとなった。多分、ワイエスが魅せられたように、わたしもヘルガに魅せられた。サラブレッドの華麗な美しさよりも、農耕馬の頑丈な逞しさに引かれるようなものだ。モナリザよりも、ボティチェリのヴィーナスよりも、寂寥感の漂う瞳と土偶の豊満さを持つヘルガはずっとずっと魅力がある。

ワイエスは多作の傍らで密かにヘルガを描き続ける。その存在と形にぞっこん惚れ込んで自分だけのものにしていた。その数、およそ240点だ。ヘルガと過ごし、ヘルガを作品にすることで、虚無の世界と寂寥な風景の中にニヤリとする幸福な時間と秘密を持つ愉しさを創り上げていった。これほどの男冥利に尽きる創造の道程(みち)はそうそうない。ワイエスの人生には実にたくさんの下絵が描かれている。

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マッカーサー記念室

2008-12-15 | Weblog
皇居のお堀に面した日比谷・第一生命館にマッカーサー記念室がある。館内には戦後日本の占領政策を司った連合国軍総司令部(GHQ)が置かれ、6階の一室で司令官ダグラス・マッカーサーが執務をした。コーンパイプをくわえレイバンのサングラス姿の映像や、礼服の昭和天皇に対し平服で腰に手を当てた姿で並んだ写真で有名な人物だ。

幕末から明治維新後の富国強兵、殖産興業を経て軍部の台頭の帰結として、日本は昭和20(1945)年を迎えた。東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、玉音放送で戦争が終わり、日本は歴史上初めて占領を体験することになる。天皇よりも偉い存在として日本に君臨したのがマッカーサーだった。軍国主義から民主主義へという歴史的大転換を為した中枢部が現存しているならば、わたしにとってそこは見ておくべき場所となる。

「9・11テロがあって以来、一般には公開しておりません」。2001年の米国での同時多発テロ以後、第一生命はセキュリティーのためマッカーサー記念室の一般公開をやめている。担当部署の説明だった。「はい、分かりました」では事は進まない。一計を案じた結果、本社の管理職の方に案内してもらうことになった。

6階でマッカーサーが使っていた部屋は3つあった。来客があった時の応接室、座右の銘としていたサミュエル・ウルマンの詩「青春」が掲げてあったという執務室、そこに隣接したプライベート室だ。執務室は約54㎡。引き出しのない机に古びてところどころ禿げた革張りの肘掛椅子、英国人画家オルドリッジが描いたヨットの油絵2枚が目についた。

引き出しのない机は、即断即決を旨とするマッカーサーの性格を表す象徴として語られる代物だ。引き出しに入れ込んで明日以降に結論を出すような書類(事項)はないというわけだ。多くの日本人が戦後の食糧難に喘いでいたころにヨットの絵を眺めながらの仕事をしていたのか。

管理職が説明する。「執務室は元は第一生命社長室でした。当時の社長石坂泰三が使っていたものを入れ替えることなくそのまま引き継ぎました。米国産のクルミの木を使った内壁や、寄木細工の床も当時のままです。プライベート室は第一生命会長室でした。第一生命館を改装する際に執務室を1階に移す計画があったのですが、床の寄木細工は一度ばらすと復元が難しいということで、執務室を6階にそのまま残すことになりました」

一般公開していたころに見学者からの質問が多かったのだろうか、長身で平服のマッカーサーと礼服の昭和天皇が並んだ写真について補足して語った。「あの写真はここで撮られた思っている方が多いのですが、あれはマッカーサーが宿舎にしていた米国大使館なんですよ」。当時マッカーサーは米国大使館から第一生命館の執務室に午前中出向き、昼食と午睡のため米国大使館に戻り、夕方に再び執務室へ。仕事が終わると米国大使館に帰る生活をしていた。

執務室には寄贈されたマッカーサーの胸像とウルマンの詩「青春」の記念碑が置いてあった。マッカーサーは昭和20年9月からトルーマン大統領に解任される26年4月までこの執務室の主であり、日本国の主君でもあった。解任されて帰国後、米議会上院での軍事・外交合同委員会での証言がマッカーサーを日本人の意識の中で色褪せたものにする。「科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソンは45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である」

消え去った老兵の魔力が解けると、執務室が実に平凡なしつらえに見えてくる。肘掛椅子も小ぶりだし、引き出しのない机も実用的ではない。ヨットの小さな絵も日本人が好みそうな柔らかな色調じゃないか。記念室はまさに保険会社の社長のほんの一室にすぎない。歴史のオーラが見えないはずだ。そもそもマッカーサー色などなかったのだから。










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六本木でポルチーニ茸を食す

2008-12-14 | Weblog
東京ミッドタウンでの写真展に寄った帰り、夕食のためにイタリアンレストランに入る。六本木交差点アマンド近くのトラットリア・ジリオーラの奥まった席に案内される。

どれにしようかなとメニューを眺めていると、ウエイトレスが食材を乗せたバスケットを運んできた。もっこりほっこりのポルチーニ茸が媚を売る。「いかが、極上よ~ん」

イタリア産のシャンパン(?)を飲みながら回りを見渡す。隣の男性同士を除いて男女のカップルだらけ。男に眼はいかないが、女性はいずれも六本木のイメージを体現している。おされ。しぇんれん。こいぎ。しょくつー。モデル風メークミラクル。

隣の男性組が出るのと入れ替わりに男女のカップルが着座した。ちょい悪おやじ風のイタリアン・レオンと小娘風のジャポネ・ニキータ。飴玉をしゃぶりながら話すようにしてニキータが英語を繰り出す。ナンパと言うほどもない。「かわいいねえ。うまいイタリアンレストランを知ってるんだ。行ってみようか」「うん」。百戦練磨のレオンだから女性の扱いはお手のものだ。

あーでもない。こーでもないとメニューを手にして語り合うレオンとニキータ。食べに来たのか、しゃべりに来たのか、どっちなんかいなと思案していると、美男美女1組が入ってきた。レオンが立ち上がる。ショートカットの美女がほほ笑み、長髪を束ねてポニーテールにした美男がやあという表情をした。

レオンと対面していたニキータが席を美男美女に譲り、レオンの隣に移った。美女がイタリア語でレオンと会話を始める。流暢で優雅な話しぶりにニキータは唖然としている。

ニキータは小娘だから平気でなんでも聞いてしまう。「なにを話しているの」。美女は艶然として答える。「食事の内容よ。彼はニンニクを入れないでと言ってるの」。小娘はさらに尋ねる。「どうしてニンニクは嫌なの」。美女が代弁する。「口の中が臭くなるからなの。彼、ニンニクのあの匂いが嫌なのよ」。ちょい悪イタリアンはデートのエチケットをしっかり堅守している。

美女とレオンのイタリア語会話が続く。ニキータは疎外感を覚えたのか、美女に再び質問する。「イタリア語が上手ですね」。美女は頭の回転が速いからニキータに断りを入れる。「彼ねえ、英語が嫌いなのよ」。ちょい悪レオンは、すべての道はローマに通じるの歴史と文化の分厚さを誇る国の出身だ。英国の文化など後発もいいとこ、まして米国など論外だよという訳で、堂々と英語嫌いを宣言する。ただしアモーレのためならば英語も使うのが、めちゃ悪にもなるレオンならでは。

1切れ、2切れ、3切れとポルチーニ茸を口に入れる。隣席ではニキータが小娘流の無礼を連発していく。初対面の美女に向かってなぜなぜの質問攻めだ。「とっても肌がきれーい。何歳ですー。30代じゃないですよねー」。美女は嫌な顔一つせずにこやかに応じる。「40代よ。おばさんよ」。「しわもしみもなーい。すっごーい。ほんとにきれーい」。美女と同様しわやしみもなく色白のにこやかな連れ合いの美男に向かって「お仕事はなにしてんですかー」。とどまるところを知らないニキータの質問に美女はきちんと答える。「歯医者さんよ」。「うっそー」。この裏返った声は心中のわたしの声だ。ニキータよ、今夜は無礼講だ。その調子だ。どんどん聞きなさい。








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鎌倉円覚寺で座禅を組む

2008-12-02 | Weblog
鎌倉・円覚寺は毎週土曜日に初心者向けの座禅会を開いている。参加無料だ。夏目漱石も参禅した由緒ある寺院で瞑想にふけるのもいいなと思って出かけた。

週末は元々賑わう円覚寺だが、晴れて秋深しの日和と連休も重なって境内はお祭りでもやっているのかなというほどの人出だった。集合時間ぎりぎりに道場に出向くと参加者が列をなしていた。30人はいる。20代とみられる若者ばかり。しかも女性が圧倒的に多い。ヘアメイクもしっかりと決めブランド物のバッグを肩に掛けた正装の女性たち。見学だけなのかなと思っていると、列の動きに従って道場内に入っていく。

頭髪をつるつるに剃り上げた中年の僧侶が腹の底から出てくる明瞭にして力強い声で指南する。「靴下を脱いで裸足になって。小物はこちらに置いて」。目の前にいた正装した女性たちが困った顔をしていた。靴下は靴下でも足先から膝小僧、太腿、腰までつながった代物だった。どうするのか。覚悟を決めたようだ。脱がずにそのまま待機部屋で正坐した。僧侶は知ってか知らずか「脱ぎなさい」とは言わなかった。

めいめいが大きな座布団と尻の下に敷く小さな座布団を取り道場に進み座っていく。幅1・5メートルほどの板張りを挟み参加者は向かい合う形となる。9割が女性だからわたしの両脇は女性、目の前は男性だったがその両脇は女性たちだ。僧侶の声が響いた。「はい、胡坐をかいて! 片方の足をもう一方に乗せて」

股関節の柔らかさが試される。目の前の男性は硬いようで両方の膝頭が上がってV字となっている。わたしは日ごろのストレッチの鍛練で両足を組む。女性たちのうちズボン姿の面々はすぐに胡坐をかいた。正装した女性たちにはちょっとした試練となった。なにせスカート姿だ。しかも膝上10センチほどのミニ。片手で股間を隠そうとするが、無理なものは無理。僧侶の声が続く。「両手を足の上で組んで! 視線は1メートル先の下の方へ」

頭を空っぽにして無心の境地になる。無念無想。心頭滅却。座禅はこうでなくてはならない。半眼にして目線を落とし1メートル先を見る。見てはいけないが、視野に入ってくる。色即是空。空即是色。見えないものが見える。無心と邪念が絡み合う。視線に霞がかかったり、焦点がワイドレンズになったりする。

僧侶の声が飛ぶ。「もぞもぞしない!」。警策で肩を叩かれる音がびしばし響く。目の前を僧侶がしずしずと歩く。生唾がゆっくりと音を立てないようにして喉元を滑り落ちていく。

数分の間を置いて20分間を2回の座禅が終わった。無念無想はそう簡単ではないと僧侶が説いた。わたしは無心になるという初心を貫きたかった。無我の一端を味わいたかった。永遠の一瞬に触れたかった。現実はなにを見せてくれたか。無想の境地ではなく、対極の世界を知った。涅槃より遥か手前にある極彩色が溢れてくる世界。天女たちが座禅を組んでいる。誰にも言うまい。決して、誰にも。


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