リンポウアカデミア

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

異界170211

2017-02-11 17:08:22 | 日記

朝日新聞、2017年2月11日付を参照した。日米首脳会談を終えた安倍晋三首相と昭恵夫人は10日夕(日本時間11日朝、2017年2月11朝)、トランプ米大統領夫妻とともに大統領専用機「エアフォースワン」でワシントンからフロリダ州のパームビーチへ移動した。両首脳夫妻は同日、2017年2月11日夜、トランプ氏の別荘で夕食を共にした。米国南部にあるパームビーチは温暖で、この日は夜でも気温が約20度だった。2時間にわたる夕食会は、両夫妻が通訳を交えて談笑するなど和やかな雰囲気だったという。首相夫妻はこの別荘に宿泊した。両首脳は11日、共通の趣味であるゴルフを楽しむ予定。トランプ氏はワシントンを出発する前の共同記者会見で、「実りある週末を過ごしたい」と語った。(パームビーチ=高橋福子)。異界。いかい。広辞苑によると、日常とは異なる世界。物の怪、もののけや、霊の住む領域。以下、ウィキペディアを参照した。異界、いかい、とは、人間が周囲の世界を分類する際、自分たちが属する(と認識する)世界の外側。異世界。異界を認識する主体は個人より集団を想定することが多い。民俗社会において、霊魂が行く他界(来世)を含め、自分たちの社会の外側に広がる世界を意味する。他界が時空による認識であるのに対し、異界はむしろ空間で捉えられる。例えば、妖怪が住む世界は異界であり、死後の存在である幽霊とは区別される。現代社会では、特定の社会から見た異質な社会の空間を異界と呼ぶことがある(この場合は民俗語彙ではなく分析概念であり、現代の流行語にもなっている)。(感想)私の住んでいる、いわゆる異界では、現実世界では説明できない現象がよく起こる。異界という語は、人間が分類体系を作り上げる際の構造論と関連している。我々の自己中心的世界観で内部と外部を二項対立的に認識する場合、後者が異界である。よって様々な程度で、境界を挟んで異界が存在する。例えば自分の家に対する家の外、自分のムラに対する外側は異界である。つまり、異界は入れ子構造で多数存在する。異界の住人。内部社会とは異なる外見や風俗習慣を持つ人間は、異界の住人、異人と呼ばれる。異人は外国人のみならず、芸能民、山人など外側から訪れる人も含まれ、時には妖怪視され差別された。異界の観念は「境界」の観念と深く関わっている。橋・坂・峠・辻などの境界の場所は、異界への回路であり両義的な空間である。(感想)もしかしたら、椹野川、ふしのがわ、や、九田川、くでんがわを渡った先は、辞書でいう「異界」なのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間170211-1

2017-02-11 16:55:31 | 日記

時間、じかんについて。その2。人間が実際に体験し、感じている時間はどのようなものか?、人が実際に体験している時間は、空間化、視覚化、された時間や、ニュートン力学の変数のような時間ではない、という指摘、そもそも、過去や未来というのは実在するのか?変化するものが何一つない場合でも、時間はあるのか?カント。イマヌエル、カント(1724年 — 1804年)は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官(外的なものからの刺激を受け取る感覚器官)によって空間的に、内官(内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間のメタファーとして捉える見方もあるが、それは「純粋理性批判」解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多いのである。ベルクソンの説明。アンリ、ベルクソンは、時間の理解は「空間化された時間」に過ぎない、と批判した。たとえば、時計は空間化された時間の一例である。時計は時間ではない。座標の横軸や線分も時間ではない。そして、人間が経験している時間というのは「空間化された時間」ではない、と指摘した。ベルクソンは時間を「純粋持続」であるとした。バシュラールの説明。ガストン、バシュラールもやはり、ニュートン的な時間の理解には異議を申し立てた。ただし、ベルクソンが時間を純粋持続として捉えたのに対し、バシュラールは「瞬間の連続」だとした。我々が感じる時間現象は常に「現在」、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。またそこから、「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」とするバシュラールの思想が開花する事になる。大森荘蔵の説明。大森荘蔵は、人が過去を思い出すとき「過去の写し」を再現しているのだ」と考えがちなことに注目する。大森はそのような「写しとしての過去」という理解は錯覚であるという。そのような過去のモデルでは、まず写される対象としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし、過去は「想起という様式」で振り返られる中にのみ存在する、と大森は述べる。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。世界五分前仮説などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。時間の向き。自然科学における「時間の矢」、例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することは無い。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象という。不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、「桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合」を写した映画フィルムの例や、「瀬戸物店に闖入した雄牛」 を写したフィルムの例[20]や、「アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程」 のビデオ録画の例、がある。このように、自然界において不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものであり、「覆水盆に返らず」などの諺も残されている。しかしながら、ビデオの逆回しという考えからは、人間は時間の方向を一方向しか認識出来ていないだけではないかという解釈も出来る。例として、ビデオの中の登場人物を考えてみよう。時間とは変化を認識する事で初めて知覚する現象であり、ビデオの中の登場人物は何回巻き戻しを実行しても結局は同じ行動を繰り返すため、巻き戻しという逆方向の変化を認識出来ない。つまり、ビデオの中の世界の人物は時間の逆行に気づく事が出来てはいないが、実際には時間の逆行は何回も起きているのであり、ビデオとは異なる世界から観測しないと、それを認識する事が出来ないのである。これを、ビデオテープのパラドックスと言う。イギリスの天体物理学者アーサー、エディントン (Arthur Stanley Eddington) はこの不可逆な現象を時間的非対称性だと考え、1927年、90年前に「時間の矢」と表現した。この“時間の矢”を表す物理法則として、エントロピー増大則 (law of increasing entropy) について言及されることがある。エントロピー増大則は、「孤立系内のエントロピーは時間と共に増大するか変化しない」と言い表される。このことは熱力学第二法則、すなわち「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理 (Thomson's principle, —statement) や「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理 (Clausius' principle, —statement) などから導かれる。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)やルドルフ・クラウジウスの主張は互いに等価であることが示されており、これらをまとめたものが熱力学第二法則である。熱力学第二法則は熱力学における基本原理であり、熱現象の観察事実を法則化したものである[25]。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明(ないしは置換)できる。例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程は「水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い(自由エネルギーが低い)ため起こる」と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。しかし、エントロピー増大則が成り立つのは「孤立系」、すなわち外界と熱的なやりとりがない系においてであり、エントロピー増大則をもって「時間の矢」問題がすべて理解されるということはない。「時間の矢」ないしは「熱力学第二法則」に対して、多粒子系における衝突現象の結果として認識する還元主義的な立場をとることもできるが、微視的な理論からそれらを説明することは未だに成功していない。時間的に逆に進行するような変化も起こり得る、可逆性が厳密に成り立つような具体的な巨視的現象を挙げるのは難しいが、振り子の運動や惑星の公転をニュートン力学により質点の運動として表した力学系では可逆性が成り立つ。このことは、その系の時間発展を表す運動方程式が時間反転対称性を持ち、時間の進む向きを逆転しても方程式の形は変わらないためであると説明される[26]。また量子力学や相対論、それに含まれる電磁気学も同様に時間反転対称性を持つ。系の時間発展を記述する方程式が、時間反転対称性を持つために、ある運動が方程式によって記述されるなら(解が存在するなら)、その逆向きの運動も存在する。この「可逆性」は「微視的可逆性原理」と呼ばれている。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、不可逆性問題または不可逆性逆理と呼ばれる、自然科学上の未解決問題である。ルートヴィッヒ・ボルツマンは「分子的混沌」を仮定してH定理を証明した。H定理が成り立つならば、それを通じて微視的な力学からエントロピーを定義することができる。すなわち(微視的な意味での)エントロピー増大則から「時間の矢」の向きを決定できる。可逆な力学からこのような不可逆な理論が得られることは、ある種のパラドックスのように思われるが、それは「分子的混沌」やそれに相当する仮定によるものである。熱力学第二法則に基づく時間の矢の説明の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ」というものもある。実際コンピュータの記録(正確にいえば記録の消去)はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある(モーター蛋白質など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちにしてみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる。素粒子論においてはCPT変換による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換 C, 空間反転 P, 時間反転 T の積であり、時間反転対称性が関与している。量子力学の観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きると解釈するが、波動関数が収縮することはあっても、「復元」することはない。すなわち観測に伴う過程は不可逆なものであり、時間反転に対して非対称となる。時間の速さ。「人が感じる時間」の速さは、気分、年齢等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである。年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになる。また人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われることもある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の老人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明ができる。心理的な時間は、さまざまな要因によって影響を受け伸縮する。その影響の度合いは大人に対し子供の方がずっと大きい。大人は心理的な時間の伸縮に左右される出来事があっても『短く感じられるが実はこのくらいだろう』と心理的時間を補正できるが、子供はできない。大人はこの「時計時間」に支配されるが子供は「出来事時間」に支配される。また生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば生物種間の時間感覚・体感時間の相違については本川達雄の「ゾウの時間、ネズミの時間」に詳しい。現代の自然科学を習得しその枠内で思考している間は、人はつい「時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる」などと考えてしまう。だがその時、人はある周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり(物理的な時間の定義)、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているかどうかは本当は定かではない。また、場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われている。例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。下天、げてん、とは、広辞苑によると、仏教用語で、下層の天。特に、六欲天の下層の四天王を指す。四天王の一昼夜は、人間界の50年にあたり、対比して、人間の命のはかないことを示す。冥土、めいど、とは、広辞苑によると、仏教で、死者の霊魂が行くという暗黒の世界。あの世。直接関係はないが、一般相対性理論から、重力ポテンシャルが異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られている。(感想)東京と山口では、時間の流れる速さが違うのかな、と思った。時間の有限、無限。時間の長さ、ということは、世界観とも深くかかわっている。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識するか、その世界と現世の関係をどうとらえるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうか、ということで時間という概念が根本的に変わってくるからである。時間の長さ。古代宗教の節、ユダヤ教の節、古ゲルマンの節で解説したように、時間は円環して無限に続いている考え方が古来ある。一方で、キリスト教では直線的で有限だということになっている。時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある有限なものという考えもある。たとえば、前述のアウグスティウス的な時間観においては、時間は神によって創造されたものであり、始まりを持つものである。これは世界や宇宙の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の神話における世界の始まりについては「天地創造」や「天地開闢 、てんちかいびゃく、日本神話)」「天地開闢 (中国神話)」に詳しい。また世界の終わりについては「終末論」に詳しい。「宇宙論」も参照のこと。古典物理学(量子論以前の物理学)における時間は連続体であり、実数で表せる。つまり時間はいくらでも細かく分割可能なものである。だが物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学(量子力学)ではこの最小時間間隔をプランク時間と呼ぶ。分岐時間。時間が木のように枝分かれするという時間観。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であると言う。量子力学の観測問題の解決のためのひとつの仮説である多世界解釈も分岐時間の考えを使っている。時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。現実の医療現場における全身麻酔状態の患者や昔話の眠れる森の美女などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられる。(感想)もしかしたら、私は、東京とは別の、パラレルワールドの1つに住んでいて、時間の進み方も違うのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間170211

2017-02-11 16:37:16 | 日記

時間、じかん。ウィキペディアを参照した。時間、じかん、は、出来事や変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要なテーマとなっている。それぞれの分野で異なった定義がなされる。今日の日常的な意味での時間。「時間 (単位)」および「時間 (クルアーン)」も参照。「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。時刻。つまり、時の流れの中の一点のこと。ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの。時刻という意味で時間という言葉を用いるのは、日常語、ないし俗語とする辞書もある。1. の意味の時間すなわち時刻は、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)である。これを数的に表す表現には例えば「5時 (five o'clock)」「2日 (the second day)」「4月 (April)」などがある。2. の意味の時間、すなわち時刻の間およびその長さというのは「この仕事は時間がかかる」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で時間をつぶす」などのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間 (five hours)」「2日(2日間、two days)」「4ヶ月 (four months)」などがある。3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。一般に人は日常的にこの意味での時間を「流れ」としてとらえていることが多い。例えば時間は、「過去から未来に絶えず移り流れる」とか「過去、現在、未来と連続して流れ移ってゆく」、「過去、現在、未来と連続して永久に流れてゆくもの」、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」などと表現されるのである。なお、時間の流れに関しては、過去から未来へと流れているとする時間観と、未来から過去へ流れているとする時間観がある。長さとしての時。現代の「時の長さ」の単位。「時の長さ」を表すのに用いられていること(ものさし、単位)としては、多くの国や地域において日常的には、年 (year)、月 (month)、日 (day)、そして時 (hour)、分 (minute)、秒 (second) が用いられており、しばしば週 (week) も用いられる。また、10年紀 (decade)、世紀 (century)、千年紀 (millennium) なども使われる場合がある。「時の長さ」を表すもの。人はもともと何かの変化を「時そのもの」として感じていた、何かの変化と時をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる。人々は数学的な意識では生きていなかったのであり、「単位」という概念も意識していなかったということである)。「時の長さ」そのものと感じられていたことの中では、「日」はきわめて一般的であり広くどの文化でも見られると言われている。「月」というのは、もともと夜に照明を用いずに生きていた人類にとっては強く意識されていた時間の長さであり、女性にとっては、古代の女性でも現代の女性でも、自身の身体や気分の変化で強く実感している時間の長さでもある。「年」は神話的、宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の農耕活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の文明で広く用いられている。「週」というのは7日をひとまとめと見なす人工的な概念、制度、7曜制、であるが、これはある歴史的経緯を経て広まってきたものであり、近・現代になるまでとても万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期にそれは伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていたのである。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めたことで日本に広まったのである。何日かをひとまとまりとして見なす文化、制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある。7日をひとまとまりと見なす文化は、確かなことは判らない面もあるが、バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対、打倒し成立した革命政府、たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など、では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという。「時」は人工的に作られたものではあるが、一日を12分割したりする発想はかなり古くからあった。「分」、「秒」などの単位はかなり人工的に作られてきた概念、単位で、歴史的に見ればかなり新しいものである。現在視点で見れば、天体が見せる以下の周期的な現象、現代で言う天体の運動、をもとにして人類は時間の単位を決めてきた、と解釈することも可能ではあるかも知れない。日没の周期や日の出の周期、太陽の見かけの動き、現在で言うところの地球の自転-1日。太陽の見かけの高度が変化する周期、現在の公転、-1年。月の満ち欠け、現在で言うところの、月の公転-太陰暦での、1ヶ月。そしてそれが現在も暦として生き続けているのだ、とも解釈できるかもしれない。機械式時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、そして遂には、原子の発する電磁波の周波数によって時間を決定することとなった。これが原子時計である。現代の国際単位系では時間の基本単位として秒を定義しており、2006年、11年前、現在では、「1秒はセシウム133原子 (133Cs) の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9192631770(約100億)周期にかかる時間」と定義されている。そして国際単位系における基本物理量のひとつとされて世界的に統一された単位が定義され、社会生活や産業活動においてよく使われている。時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点、時点、ということである。時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午、noon、とされた。つまり、時刻は、自然をもとに決められていた。現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったのである。なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされているのである。一日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に一日の終わりである夕暮れを迎えるのである。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。古代宗教における時間。ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される。(感想)時間が「中断」されることがあるかもしれないんだと思った。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー、hierophany、聖なるものの顕現、である。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断して神が顕現する聖なる時間なのだという。(感想)最近、祭儀は、あまり周期的に行われていないと思った。バラモン教そしてヒンドゥー教では全てのものは輪廻、りんねしているという。写真はチベット仏教の仏画に描かれた六道輪廻の環。聖なる時間は可逆的で、反復可能である。(感想)時間が「可逆的」なことがありうるんだと思った。人は、通俗的な時間を中断する力をもった祭儀を周期的に営むことで、聖なる時間へ立ち帰り、神々と同一化する。これは真実在への渇望にもとづく。神々による世界創造の時間が、あらゆる時間の原型とされた。聖なる時間は、世界が創造された根源的時間を象徴する。宇宙の原初において聖なるものが顕現した根源的時間を周期的に再現する、ということが宗教暦の基盤である。祝祭はたんなる記念日ではなく、神話的出来事を再現しているのである。周期的祝祭のうち、重要なのは新年である。多くの民族の言語で、「世界」をあらわす言葉が同時に「年」をも意味することが指摘されている。これは、世界が新年ごとに再生し更新されている、という観念である。したがって新年は世界創造の再現であり、新年ごとに原初の生命力を更新して再生するのである。ここにあるのは円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造-存続-終末的破滅-創造…を繰り返す、Great Year、グレイトイヤー、「大年」)。時間は宇宙の創造から破滅にいたる一周期を終えると、さらに他の周期を始め、完全に再生するのである[8]。ここには永遠に対する希求があるという。仏教。仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない、諸行無常、というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。龍樹、りゅうじ、に代表される空観における時間もまた、計測時間の外で現在意識を軸に考察されている。ギリシャ神話ギリシャ神話には時にまつわる神が二柱ある。カイロス (Καιρός, Kairos)[9] は一瞬を表す神であり、もう一柱のクロノス (Χρόνος, Khronos) は連続した時を表す神である。古代ギリシア、ある哲学者らは、時間を円のように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、マヤや古代インド文明などにも存在した。古代ローマ。「カルペ・ディエム」の句が上部に掲げられた日時計。古代ローマのホラティウス(紀元前65年 - 紀元前8年)が詩に残したCarpe diem、カルペ、ディエムという句は、直訳では「その日を摘め」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。ユダヤ教、キリスト教。ユダヤ教には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、キリスト教にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある。キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス、キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の啓示である[8]。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っている。キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.ブルトマンやC.H.ドッドなどは終末についても現在性があると指摘している。キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、終末や再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される。アウグスティヌス。時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」というものがある。アウグスティヌス(354年 - 430年、1663年前-1587年前、は時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは「すでにないもの」であり、未来とは「いまだないもの」である。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろうか。過去や未来が在るとすれば、それは「過去についての現在」と「未来についての現在」が在るのである。過去についての現在とは「記憶」であり、未来についての現在とは「期待」、そして現在についての現在は「直観」だとアウグスティヌスは述べる。時間とは、このような心の働きなのである。「神は世界創造以前には何をしていたのか?」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかったのである。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にあるのである。古ゲルマン。10世紀以前の古ゲルマン世界での公的生活は、まだ直線時間意識には規定されておらず[12]、円環的な時間意識が支配的であった。ゲルマン人が「timi」、(時)と言うと、正確な計測という考え方はみられず、あくまで季節などかなり長い時の経過を意味した。ar(年)というのも、毎年繰り返される収穫の意味であった。まず現実の農耕生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、「繰り返し」が時間のあたりまえの姿だったのである。ゲルマン人の円環的時間意識のもとの死生観では、人間は死後冥界に入るが、この冥界というのはこの世と並行して存在しており、この世と交流可能な世界であり、死者は現世とつながりつつ冥界で生きる、とされた。11世紀以降のゲルマン世界。ところで、1年前の今日。2016年2月11日のブログを加筆修正した。「ビリギャル」によると、受験はマラソンレースに似ているそうだ。小学校から義務教育が始まり、6年。中学で3年、高校で3年。計12年、毎日のように学校に行き、塾に通い、コツコツと勉強し、知識を増やし、学力を高めてきた人間が、いわゆる難関大学を受験するそうだ。それでも、合格する可能性は限りなく低いという。私が子供の頃は、もっとのんびりとしていたものだが、最近は厳しいようだ。慶応大学の合格可能性A(合格安全圏)判定には、偏差値70以上が要求される。それは上位2%という意味なので、1万4,000番以内にいないといけない。夏目漱石「こころ」を読んでいます。ところで、平成15年、2003年、14年前の大学進学者数は、60万4,784人で、大学進学率は、41.3%である。今まで書いてきたように、大学進学までにお金がかかる。平成17年、2005年、12年前の「国民生活白書」によると、0歳から21歳まで子ども1人を育てるのにかかる費用は平均1,300万円である。年額61万円、月額5.1万円である。幼稚園から高校までオール国公立だと、学習費総額は、508万円、オール私立だと、1,700万円なので、私立は国公立の約3.3倍かかることになる。大学に入ってからもお金がかかるので、大学卒業までにずいぶんお金がかかる。金銭的に余裕のある家庭の子どもしか大学に行けないことになる。大学を出ないと大卒正社員になるのは難しいので、日本の格差はますます拡大していくことになる。ところで、正社員男性のうち、年収500万円未満が59.6%である。年収500万円で、控除率が15%だとすると、手取り425万円、ボーナスが単純に4か月分だとすると、月収の手取りは、26万円である。2,800万円の住宅を購入すると、年利2%で、総返済額は約3,896円、毎月返済額は、9万2,753円である。手取りから住宅ローンを支払うと、残りは16万7,247万円。これから子どもの教育費5.1万円を除くと、残りは11万6,247円である。食費が5万円だとすると、残りは6万6,247万円で暮らさなければならないことになる。夏目漱石「こころ」を読んでいます。母親の夕食が辛くて、水を2リットル、大きいペットボトル1本、飲んだ。ところで、厚生労働省によると、大幅な人口の転入超過が続いている東京でも、高齢者の急増や介護サービスの不足など多くの課題があり、また、厳しい子育て環境により、出生率の低い東京圏(合計特殊出生率は、東京都が1.15、神奈川県が1.43、千葉県が1.32、埼玉県が1.31。合計特殊出生率とは、人口統計上の指標で、一人の女性が一生に産む子供の平均数を示す)に人口が集中することは、ますます日本全体の人口減少につながっていくことになる。地方での人口減少は、労働力人口の減少や消費市場の縮小を引き起こし、地方の経済規模を縮小させる。それが、社会生活サービスの低下を招き、さらなる人口流出を引き起こすという悪循環となり、地域経済社会の急速な縮小につながる。また、都市部を中心に高齢者数の増大、あと26年間は高齢者は増え続ける、により、医療、介護のニーズが増大し、これにより特に介護サービスを担う人材が不足して、確保が困難になるとともに、これらのサービスの円滑な供給に支障をきたすことが考えられる。夏目漱石「こころ」を読んでいます。2015年10月15日、2年前に、自宅の近くの荒神様まで散歩に行って、荒神様の鳥居の写真を撮っているが、今ではとてもそこまで行けそうにない。ここ4か月で体力が低下しているのが分かる。2013年11月3日、4年前に、国立西洋美術館のミケランジェロ展に行っている。2年前には、秋葉原の自宅から上野の美術館まで歩いていく体力があったことが分かる。(感想)1年前には、「2年前」と書いてあるが、今日計算し直すと、4年経っている。自宅の中では、時間が経つの速いのかもしれない。2年前くらいに比べて、体力が大幅に低下していることが分かる。ところで、母親の料理が辛いと最初に気づいたのが、去年の2015年12月19日だが、あれから2か月くらい辛い料理を食べ続けていることになる。後でのどが渇いて大量の水を飲んでいる。これでは健康に悪いだろう。ここ2か月くらい母親の辛い料理を食べては、大量の水を飲んでいるので、ボディーブローのように効いている。(感想)「去年」が、「2年前」になっている。夏目漱石「こころ」を読んでいます。今日は、一日中お腹がゴロゴロしている。小説の中の話とはいえ、「私」はずいぶんな金持ちだな。「それでもわが家から逝きたい」という本を、2015年10月2日に買っている。4か月前くらいから、「看取り」について考えていたようだ。(感想)今日から計算すると、2年前だ。「龍馬がいく」を2015年9月2日に買っている。5か月前は、まだ自分の人生を切り開こうと思っていたんだ。今では、死を待つのみだよ。漢方薬の葛根湯、かっこんとう、を飲んだ。昨日からお腹を壊してぐったりしている。2015年8月29日にアンプを買っている。今のアンプを買ってから、7か月くらい経っているんだ。さっき、コンビニに行って来た。タバコ、420円が4個で1,680円、とアリナミン、158円、を買った。パーキンソン症状特有の小刻み歩行で、歩くのが遅かった。本屋にも行こうかと思ったが、頑張れば行けるのかも知れないが、とてもそんな体力はなかった。2日前の2016年2月9日に本屋に行っているので、ここ2日で体力が低下しているのかもしれない。以下、「時間」の続き。1111~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり[12]時間意識や死生観は変化してゆくことになった[12]。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、終末に向かって進んでゆく時間の変化が意識され[12]、人間は死ねば、煉獄、そして天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかない、とされることになった。古ゲルマンと、この世とあの世の時間的関係が全く異なるのである。人々は死ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、1度だけ死ぬ、ということになった。(感想)人がただ1度だけ、生きるという考え方は、「教会」によるものなのだと思った。2017年2月11日、16:32に、玄関のチャイムが鳴った。またこの時代、キリスト教のほかにも、商人たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった、とジャック、ル、ゴフは言う。自然哲学および自然科学での時間。ニュートン力学での時間。アイザック、ニュートンは、自然哲学にユークリッド幾何学(および他の数学)を大幅に導入した体系を構築、それを『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica, 1687年刊)で発表した。当時知られている幾何学はユークリッド幾何学だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと暗黙裡に仮定されている。ニュートンは同著において、時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を「絶対空間」及び「絶対時間」とも呼んだ。ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされたが、アルベルト、アインシュタインが発表した相対性理論によって、そうではないことが認識されるようになった。特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の変換式が求められ、それはローレンツ変換となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを「同時性の崩れ」という。結果として、観測者に対して相対運動する時計は進み方が遅れて見える。相対性理論ではローレンツ変換により時間座標と空間座標とが混合するので、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。この事情から、この4次元空間を時間と空間が一体化した時空 (spacetime) だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、重力は4次元時空の曲がりに相当するとする一般相対性理論の発想につながった。この考え方によれば、時間は「経過」ではなく空間と質的に等しい「拡がり」を表すものとみなされる。一般相対性理論では、重力と加速度は等価とされ、等価原理、これらは空間と共に時間をも歪める。「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされる。例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされる。非常に重力の強いブラックホールや中性子星ではこの効果が顕著であるとされる。物体の運動については、よほど光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されているので、相対性理論が登場した後でも、大半の場合は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱うことは多い。現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつとして扱われている。特筆すべきことのひとつに、「プランク時間」の概念の登場がある。物理学において、いくつかの物理定数を用いて、「長さ(時間)」「エネルギー」「温度」などの単位を構成しようという考え方があり、このような単位の組(単位系)を自然単位系と呼ぶ。プランク時間は自然単位系のひとつであるプランク単位系の時間の単位である。プランク時間は、物理的に興味のある最も短い時間であり、しばしば「時間の最小単位」であると云われる。このことはしかし、物理学における時間の概念が離散的なものであることを意味しない。ニュートン以降の哲学における時間。ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門1702011

2017-02-11 15:59:49 | 日記

夏目漱石の小説「門」を読んでいます。5.佐伯のおばが訪ねてきたのは、土曜日の午後2時ごろだった。室温は、19.5℃だが、肌寒い。おばは、たった1人の子どもを産んだ。おば、「おの9月から、工場に出ることになりまして」。「お払いになるなら、6年に負けておきましょう」。日経新聞、2017年2月11日付けを参照した。安倍晋三首相とトランプ米大統領による初の公式首脳会談を読み解く経済のキーワードは「自由で公正、フェア、fairな貿易」だ。トランプ氏は露骨な対日批判を封印したものの、「公正」が何を指すかで日米首脳の言いぶりは微妙に食い違う。友好的なやりとりの裏側に今後の波乱の芽がある。ぶしつけなツイッターとは裏腹に、外交舞台では意外と行儀のよいトランプ氏の作法が再確認された。主要国のリーダーではメイ英首相に続き2人目となる安倍首相との直接会談。就任から3週間の新大統領の姿にはそれなりに安定感が伴っていた。(感想)今のところ、アメリカにとって、イギリスの次に重要な国は、日本だということになると思う。共同記者会見では通貨、金融、為替政策で日本に対する直接的な批判や不満は鳴りをひそめた。外交儀礼もあるが、財務長官も商務長官もまだ正式に就任していないトランプ政権としては当然の対応だろう。会見での発言も、その後に出た日米の共同声明も、ひとまずは前向きな内容。だが行間には日米の駆け引きが透けて見える。「貿易関係を自由で公正なものにしたい。両国が恩恵を受けるものにしなければ」、トランプ大統領、「アジア太平洋で自由貿易を拡大するのは日米双方にとって大きなチャンス。しかし、もちろんそれはフェアな形で行われなければならない」、安倍首相、大統領がいう公正とはなにか。中国経済の文脈でトランプ氏は「為替の切り下げには苦情を言ってきた。公平な土俵でなければならない」と明言した。安倍首相が隣にいなければ「日本に」が加わっても全くおかしくない。為替相場や貿易赤字、市場障壁といった現状への不満がにじんでいる。安倍首相が思い描く「公正」の先は貿易ルールにあるようだ。「国有企業による国家資本を背景とした経済介入はあってはならない」「知的財産へのフリーライド、ただ乗り、は許されない」。日米で協力して中国をけん制しようとする意図が伝わる。トランプ氏が決別した環太平洋経済連携協定(TPP)の構図と重なってみえる。貿易、投資関係の強化へ最善の方法を探ることをうたった共同声明には「日米間で2国間の枠組みに関して議論をする」という選択肢が盛り込まれた。それが首相の提案した麻生太郎副総理、財務相とペンス米副大統領が率いる新たな経済対話を指すのか、米が意図するといわれる2国間の自由貿易協定、FTA、協議を意味するのかは現時点ではわからない。いずれにせよ、会談後に両首脳がみせた温度差は、未踏の域に入る日米の経済関係の難しさを暗示している。(感想)「共同声明」が、外交上どういう意味を示すのかよく分からないが、キーは、安倍首相と、トランプ大統領が、どういう文書に署名するかだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする