ことしの桜の花は、どうしてそんなに速いのでしょうか?
桜ちゃんが、危険運転中です
桜よ櫻!何故にそんなに先を急ぐのか。
ゆっくりでいいのだよ。慌てることはない!無事故無違反、安全が一番だよ
ホントーに急ぐことはない、緩やかに、ぼちぼちと、そんなに周章てなくても、いいのだよ。
「飛び出すな!桜は急に止まらない」
そうなのだ、櫻よ、咲き急ぐことはないのだよ
桜は日本の国花なんですよね。
それにしても桜ちゃんは、近年の開花日の記録を塗り替えるように、爆走ならぬ暴走中です
そしてその、上野公園の満開美は、明日なのだそうです。
満開美だったら、まことに結構この上ない慶事なのですが、満開美は満開日なのでした
そうしてなのですけど、
tagawaさ~ん
昨晩ボクは、自前のとネットから頂いた桜の写真を数枚、A4でプリントアウトして、部屋中に飾りました
いまこの部屋は、最高のお花見日和です。満開美も満開中なのです。
それで、花にはお酒!というわけで、ついつい呑みすぎてしまいました(マジなのですけど)
しかし、今年の桜はとてもいい加減な感じがしますけど、でも桜の花と言えば日本と日本人!
そして、「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」という歌を想いだします。
作者は本居宣長サンなのだそうです。
なんだか、とてもよく分かるような感じがする歌なのです。
この歌の感じが、なのですが。
なにが分かるかという何かは、よく分からないのですけど、でもたしかに何かなのではあります
そしてしかし、この国の国歌は、「君が代」ですよね。ともかく!
しかししかし、戦時中の準国家(第二国歌)と言われていた歌をご存知ですか?(知ったかぶりですみませんけど)
ぼくは子どもの頃、この準国家とやらを蓄音機で聞いたような聴かないような記憶があるのです。
正直なところ、この歌は好きです。ユーチューブの「お気に入り」に入れてあって、ときどき拝聴しています。
この歌を聞くと、ぼくでもなんだか、少しだけ真面目な気持になれるような気がするのです。
その歌は、「海ゆかば」なのです。
僕と同じ高齢者世代の人はご存知の方が多いと思います。でも若い人たちは多分、知らない人の方が多いのでは?
この歌詞は大伴家持(万葉集)、曲は信時潔さん(1937年・昭和12年)だそうです。
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
この歌の意味は
海で戦って死ねば、死体は海水に浸かって浮かぶだろう。
山で戦って死ねば、打ち捨てられた死体は草に覆われるだろう。
天皇のおそばで死ぬのだから、決して後悔はしないぞ 「教えてgoo」から
http://p.tl/mfuM (ユーチューブ)
何よりも、この曲は、大東亜戦争(太平洋戦争)の最中に、ラジオで大本営発表(戦果発表)が放送されるときに、
特に玉砕を伝える際に、必ず冒頭に流された曲なのだそうです。
つまり、この曲が放送されるときというのは、日本兵が玉砕ならぬ多大な徒死をした、という報せであったというわけです。
ユーチューブのこのサイトは15分弱です。画面の情景を変えてこの歌が繰り返されます。
最初の方の画面は戦時中の過酷な場面が続きます。そして、その後の方では、あの有名な神宮球場での学徒出陣の
壮行会の画面も流されます。あの時の東条首相の「壮行の辞」は、その声音が僕の耳にものこっているんです。
冒頭の写真は、昨日、テニス帰りに撮った桜並木です。
この桜並木は例年、なかなか綺麗なのです。この画面の後ろ方向にもズット続いています。
しかし、桜の花は気がついたときにはあっという間に開花していて、今は6分咲きといったところです。
アキレス腱のその後は、一進一退ともいえそうです。でも何とか、あまり無理をしない程度にやっています。
このところ、呑みすぎと食べ過ぎ(甘いもの)です。なんだかストレスが溜まっているようなのです。
でも、例によって、何がなにやらよく分からずに生き延びているといった感じなのです、が。
「海ゆかば」なんかを書く予定はまったくなかったのです。
ただ、お花見のお相手の桜ちゃんについて、呆れています!と言いたかっただけなのですけど
そして、ついでで恐縮ですけど、過去ログに書いた近藤先生のご著書の内容について、
いろいろと実践させていただいております。
お風呂での頭や身体の洗い方では、石鹸の使い方や洗髪方法なども真似をさせていただいています。
以前から、石鹸とタオルの使い方はそのようにはやっていたのです。前に湿疹になったときに皮膚科医から、
極力控えた方がよいと言われたことがあるからなのです。
コーヒーも飲み始め、卵も食べ始めました。もちろん自己責任であります。
その本を読まれていない方には、何の話か通じないと思いますが
それからまた、ついでのついではあるのですけど、少し前の新聞の広告に吉本隆明さんの『フランシス子へ』
という著書が載っていました。吉本さんは昔から愛猫家で、ネコとの付き合いを書いた本も出されています。
(インタビュー構成の、『なぜ、猫とつきあうのか』1995年。挿画は長女で漫画家のハルノ宵子さん)
しかし、今回知ったのですけど、最晩年の吉本さん最愛の猫の名前は「フランシス子」だったのだそうです。
広告には、「最愛の猫・フランシス子の死、自らの生と老い…。最晩年に思想家は何を思い、何を語ったのか?」と。
そして、僕は、その広告の本の題名を見たときに、と思ったのです。
どこかで聞いた名前だ? 「フランシス子」 ~ 「フランシスコ」?~「フランシスコ 1世」
そして、そうだ、今度のローマ教皇の法王名ではないかと思いいたったわけです。
ぼくは、吉本さんが、どうしてそういう名前を猫につけたのか、大変興味を引かれるのです。
多分、特別に名づけの由来があるという訳でもなさそうな感じがするのですけど。
上記の本の裏表紙にある「吉本家の猫の家系図」には、ミロ、チャーリー、タロウ、ナマコ、モコ、クロ、サンキチ、マグロの名前が
またどうでもいいことばかり書いてしまっていると思います。
このぼくの投稿は、ぜ~んぶ、そうですから仕方ありません。
ただ、こうして苦労に苦労を重ねながらも書くということには、少しばかりの僕なりの意味がありそうなのです
しかし、この「フランシスコ」という人は、愛と清貧に生きた聖人として、欧米やカトリック信者の間では有名だと思います。
読売新聞の「Q&A」のサイトに行ってみましたら、
「この名前は、13世紀にイタリアで活躍し、修道会「フランシスコ会」を創設したアッシジのフランチェスコ(フランシスコのイタリア語読み、
1182年頃~1226年)にあやかったものと見られています。
フランチェスコはイタリア中部アッシジの裕福な商人の家庭に生まれました。騎士になろうと戦いに参加して捕虜になったり、重い病に
かかったりという経験を経て、信仰に目覚め、着ていたものも捨て、聖書に書かれたイエス・キリストの生き方を実践しようとしました。
フランチェスコが活動を始めたのは、ローマ法王インノチェンチオ3世(在位1198~1216年)の時代で、法王は、神聖ローマ帝国を
意のままに操りヨーロッパの国王に命令を下すなど、世俗の領域でも絶対的な権力を握っていました。これに対してフランチェスコの活動は、
清貧を追求しキリスト教の原点に戻ろうという改革運動だったといえます。
新法王が「フランシスコ」の名を選んだのは、神父による児童への性的虐待やローマ法王庁内の権力闘争などのスキャンダルに揺れる
カトリック教会に、「基本へ戻ろう」と呼びかける狙いがあるものと見られています」
(上記は、フランシスコの十分な紹介記事ではないように思いますけど、でもまあそんなところではありそうですから)
そして、突然、例によって例の通りなのですが
じつは、吉本さんの住いは、抜群に素晴らしい場所なのです。
文京区本駒込の「諏訪山 吉祥寺」(曹洞宗の大きなお寺で、昔は千人の修業学僧がいたとか) の脇に建っていますのです。
本郷通りから車一台が入れる小道の突き当たりなのです。
お寺の正門の横にある小路になるのですが、その家の正面は道を隔てて、そして横側はくっつくような形でお寺の塀なのです。
そして、ぼくが素晴らしいと思う理由なのですが、家の玄関を出ると小道を隔てた正面の塀越しに、お寺の境内の大きな
「釈迦如来坐像」の横顔が見えるのです。親鸞を始めとした仏教や、また新約聖書にも取り組んだ吉本さんらしい場所ではないかと。
(その釈迦如来坐像)
そしてまた、吉本さんの寝室のような気がする二階の窓からは、境内が一望できて、しかも墓地が部屋の真下にまで続いて
いるという具合なのです。そうなのです、つまり、吉本さんの家は、お墓の脇なのです。お墓と隣り合わせているわけです
おそらく大方のご家族にとっては、お墓の隣に住むということになったら、戸惑ってしまうのではないかと思うのです。
わざわざそんな所に住みたいと思う人は、多くはないはずだと思います。
しかし吉本さんは、たまたまなのかも知れませんがそのような場所を選ばれた訳です。でも、もしかしたら、たまたまその
物件を紹介されたときにその場所に何かの意味を感じられて、そして両者がドッキングした結果、そこに住もうと思った
のでしょうか
多分どなたかが、そうした経緯についても調べているはずです。
とにかく、そうした場所に住まわれていた吉本さんも、僕は好きなのです。
また、吉本さんは、若い時から下町の路地裏の住いばかりを渡り歩いてきて、そして、終の棲家がこの家だったわけです。
あるとき、吉本さんは父親から、お前の住むところは引っ越しの車も入れないような所ばかりだね、と言われたこともあったとか。
吉本さんには、吉本さんに興味を持って、吉本さんの様々なことごとを調べつくしている人が、数人いるのです。
その中には、その生涯を吉本さんに捧げたといってもいい方もいます。
ある人は、吉本さんの出自から青年期に至る軌跡を調べ歩いて、書物にまとめられています。
また他の人は、吉本さんのご両親は九州天草の出身なのですけど、そこにも行って生き残っている親類や関係者に
訊き歩き、吉本家の歴史と吉本さんの成り立ちについての関係性を考えようとしてみたりと。
この吉本さんの住いは、お寺の境内と同じような静かな環境にあり、多分この家が建っている部分も、昔は多くの学僧
が修行した場所であって、25時間目の労働を自分に課してきた吉本さんには、とっても相応しい場所だと思えるわけです。
そして何よりも、上記のようなこの場所は、
まさに、「メメント・モリ(死を憶えよ)」を考えるに相応した場所であると思うのです、が。