はらじゅく86のブログ

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大好きな夏がもう…!

2012-09-27 00:45:32 | 日記

今朝気がついたのですが、我が家の裏にある古墳の木木のつくつく法師が、なんとも心細い掠れがちな鳴き声をだしていたのです。盛夏の頃にたくさんのつくつく法師がうるさいほど賑やかに鳴き交わしていたのが嘘のような、数匹の淋しい鳴き声なのでした。少し前までは、みんみん蝉とつくつく法師が、お互い同士しゃにむに自己主張よろしく鳴き方の競演をしているようにも感じられたのです。(つくつく法師の鳴き声 http://9oo.jp/evY13

でも、今朝のあのうらぶれてしまったつくつく法師の鳴き声を聞くと、盛夏のころのあの賑やかで一大イベントのような多重混成重唱?は何だったのだろうかと思うわけです。その頃のセミたちの鳴き方は、”俺だって蝉だ””俺がセミだ””この俺を見ろ”といった激しさがあったと思いますね。あの一途で過激な鳴き方から想像できたことは、少なくとも”俺はもう駄目だ”とか”俺は負けそう”といった自己否定的な声は聞き取れなかったわけです。

しかし、あのファーブル先生は蝉の生態も研究されていたのでしょうか。以下は少し検索した結果ですけど、とにかく知らないことをネットですぐに教えていただけるというのは有難く全くの感謝です。昔だったら百科事典で調べるしかないわけです。ぼくも平凡社版24巻だったかありました。あれをひく面倒くささは大変です。殆ど積読で本を処分するときに一応古書店に電話で聞いてみましたら、「版が変わったらゼロ円です」とのことでした。他の本とと一緒に捨てるとか、kgいくらの資源素材とかですね。種類・内容・程度によってはバザーにだすとか、ネットでの一般の通販とか、古書店とのネットや電話での売買もできるみたいですね。

いま検索したら、次のようなセミ大好きさんにお会いできました。ファーブルと訳者の奥本先生(前のブログに書いた)の所説を下敷きに以下のように書かれています。
「…(産卵後のセミは)土の中にもぐるとかなり深くまでもぐるらしい。餌は、植物の根から吸う樹液である。この養分が希薄なので生長に長時間がかかり、結局、彼らは、4,5年間という長い間、地中で生活することになるのだそうだ。アロエやサトウキビなどで人工的に高濃度の養分を与えてやればもっと短い年数、約半分の期間で地表に出てくることも知られている。先日のテレビによると、アメリカ北中部で、17年ゼミというのが今年発生したという。この地域の樹木は、よほど養分が希薄なのであろうか。他の要因もありそうである。

出てきた幼虫は、脱皮して飛び立ってゆく。その様子は、夏休み、ほとんどの子どもたちの目にも触れる。そして、雄がうるさいほどの声を立てて鳴く。ファーブルは、大砲の空砲を撃ってみたがセミたちはびくともしなかった、そこで、セミは耳が聞こえないのではないか、と書いているが、これは、セミの聞いている波長が大砲の音を含まないからだと奥本さんは解説している。交尾が済むと雌は産卵にかかる。そして次の世代への輪廻が始まる」 。

この、交尾と産卵が終ったあとには”次の世代への輪廻が始まる”ということは、何ともいえない厳粛な思いをもたされます。生き物たちの間には、親である自分の身体を犠牲(餌)にして子供の出生を可能にするといった行為をする種族もあるみたいです。ユーチューブには、様々な生き物の”生と死の限界的な有様”もアップされているのでビックリしたことがあります。 http://9oo.jp/fyDGO 

ファーブル昆虫記3、奥本大三郎 編・訳『セミの歌のひみつ』もあるりたいです。HP「せみの家」の冒頭には、”このホームページは国内のセミを中心に、日本で最初の本格的なセミのページを目指しています”と書かれています。http://9oo.jp/aqNQW  以下のカッコ内の情報はこのHPからです。

セミはなぜ鳴くのかということについて、「基本的にはオスが鳴いてメスを呼び寄せるため(配偶行動)」なんだそうですね。その通りだとしたら本当に納得できることです。あの泣き方の一生懸命さは生物の本能的な何かを感じさせられます。また夏に鳴く理由については、<夏に羽化し、その寿命が2~4週間程度という事から、「羽化し、成虫である期間が、主に夏だから、夏だけ鳴く」と言える>ということだそうです。また、変な時間帯に泣いたりする場合があるわけですけど、鳴く時間が狂っているような場合は、<「気温と光が関係」するという事が説明されています。羽化も、気温が関係してくるみたいですので、セミの体内時計は、主に温度が関係している、と言えそうです>。蝉も生物である限り、体内時計といった人間と同じような遺伝子レベルの仕組みがセットされているわけなんでしょうか。たかが蝉されどセミ、ということでしょうか。

「気象庁、熊本地方気象台」のHPには、アブラゼミの”初鳴き日”がデータとしてアップされています。1968年頃からのようですが、7月14日(2012) ,7月11日(2011) ,7月9日 (2010),7月11日(通年平年値) ,6月26日(1978年) ,7月25日(1968年) , といった統計もあり、ビックリです。しかしこの統計値はどのようにして調べるのか興味をひかれますね。桜の開花と同じように、その地域の特定の場所での初鳴きを調べるということでしょうか。それにしても音響機器でもセットしない限り厳密な調査はできないはずです。人が立ち会って調べるフィールドワークといった手法はできないはずですよね。体内時計が狂っている蝉が深夜に初鳴きをする場合もあるし、しかしそもそも、そのようなことを調べる意味がどの程度あるものなのか、この方にこそ興味をひかれてしまいます。

しかし、もう夏も終わりですね。これは当り前のことで、いまは初秋とか中秋というのでしょうか。俳句をやっている人に聞くといいのかもしれません。それにしても10月にもなろうとするのに、まだ30度を越す日があるわけです。きょうは久しぶりのテニスをしたのですが、出かけるときには念のために、スポーツ用の薄手の長めのパンツと長袖ウエアを持参したのです。もちろん汗をかいた後の帰り道が寒くなったときを考えてのことなのです。

しかし今夜は、前のブログでコレステロールのことを書いたので、そのことと絡めて近藤誠先生のことを書こうと思ったのですけど、また変なところで引っかかってしまいました。などというわけではないのですけど、どんなことでも少しでも調べてみようとすると時間がかかるわけですね。あっという間にこんな時間になってしまいました。今月の『文藝春秋』には近藤先生の「『先進医療』はカネの無駄」が11ページ書かれています。「『粒子線治療』と免疫療法。『先進』とは名ばかりの実態を暴く」とあります。前回書こうとした「アエラ」のコレステロールの記事についても、その内容は、近藤先生が昔からいわれていたことなのです。今回の方も勇気をもって言ってくださったと感激したのでした。

しかし突然なのですが、僕は難病にかかった場合のセカンドは、近藤先生にお願いするつもりです。ただ先生はもう少しで定年ですから、それが心配です。ただきっとどこかで父上と同じように開業されるとか、奥様とご一緒にでも相談に乗っていただけるようなシステムを作っていただけたら有難いわけです。でも、基本的には、ご著書の精読が必須なわけです。ご著書は40冊くらいは出ているのではないでしょうか。僕は妹の乳がんを契機に出会ったドクターなのですが、以前このブログにも少し書いたとおもいます。なぜ医師になったのかということも1冊書かれています。先生の医学的知見だけではなく、その医療理念や生き方にまず魅かれるわけです。

しかし余談ですけど(ぜ~んぶですが)、今月号の「文藝春秋」の値段は840円なのですが、週刊誌2冊分と大体同じくらいです。この値段は本当に安いとおもうのです。本の安さというのは一概に言うことはできなくて、値段と内容と自分の判断のバランスのわけです。例えば、前回のブログで最近刊のご著書の書名だけを書かせて頂いたような内田樹さんの本ですけど、僕にとっては最近では最高に安い激安の本なのです。つまり、自分にとって価値があるとおもえた本はその程度に応じて、自分が新たに値段をつけることができるという訳です。内田さんのその本の定価は1600円ですけど、読んだ後の僕にとっての価格値は1万円以上なのです。1万円以上の本を1600円で買わせて頂いて有難うございます。というわけなのですが。

しかし、ある人にとって、ある時に出会った本によって、自分の人生が決定的に変えられてしまった、という話を聞くことがあります。そうした場合のその人にとってのその本は、お金の問題ではないはずです。お金には代えられない∞の価値に出会ったということになるのでしょうか。そうなのです、うろうろとバカみたいに歩き回るのも、そうした出会いによって…という道筋もあっても仕方がないというわけですが。しかし、こうした方途にもどこか危ういものがあるような感じもします。。よく分らないけど、近代主義者とか認識至上主義者とかそんな感じもするのですけど、どうなんでしょうか。いずれにしても、遠からず今生にお別れしなければならないということだけは、このことだけは真理の筈です。でもどうなんでしょうか…。しかし須らく、”私が”私は”私を”私に”と、”私”だけのオンパレードという道程が見え隠れもするというわけです…

また今週の「アエラ」も立ち読みが面倒なので買ってしまったのですが、読みたい記事の他の記事に大変興味深い記事が幾つもあってラッキーでした。数学の”独立研究者”・森田真生さんの記事などもそうでした。中沢新一、内田樹の両先生も関わっている方みたいですけど、その方の紹介記事を読むと全く圧倒されてしまうのです。その方の優秀な能力と生きざまの過激さについてなのです。

またその「文藝春秋」なんですけど、いつもほんとうに安いなあと思いつつも実は半分程の感謝なのです。半分の理由はいつもトイレに数冊という惨状な点もあるのですが、反芻よりも半数半読でしかないからなのです。これは見当はずれなもの言いでしかないわけですが。しかしそれにしても、70年前後だったら、『文藝春秋』は敵性品種の指定本みたいにいわれていたはずです。

 画像はクリックで大きくなります。 (不忍池から根津方向です。画面外の左方向は東大病院。池には終りかけの群生古代ハス。)

しかし、大好きな夏が終りそうです。終ってしまったというにしてはまだまだお名残り惜しいというわけです。どんなに汗をかいても、主にスポーツの汗ですけど気持がいいのです。そんな夏の象徴的な夏雲を撮った写真です。この夏、上野公園に2度いったのです。例のフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に会うためです。でも余りにも見学者の列が長く続いていたので諦めました。それで3度目で逗子の帰りに「真珠の首飾りの少女」に変更した次第なのです。勝手な想像ですけど、福岡伸一先生他何人もの人がフェルメールに一度は会いなさいといってくださっていたので、今生の想い出にもと思ったわけです。つまりその、”フェルメールの光と影”というのを感じてみたかったのです。見た結果ですが、まずゆっくりと見るといったことはできなかったですね。少し離れたところでしか立ち止まれなかったわけです。でも、あの光の淡い温かさというのは何となく、”oh!そうなのか”といった感じではあったのでした。

 

でも、一番興味をひかれたのは、あの宗教改革者の「マルティン・ルターの肖像」でした。少女の方は亡くなった女優の音羽信子さんに似ていて、少しオバさん風だななんて思ったりしたのです。しかし、ルターの表情は素晴らしかったのです。ルターの肖像は他にもありますけど、今回観たのは教科書などにも載っているのと同じではないかと。今手元にハガキ大の写真があります。美術館でルターの顔の表情を観たときに、おもわず引き込まれるような感慨をもたされたのですが、うまく言葉にできないですね。とにかく、その目が一番印象的でした。ルターは時の絶対的な権力に抗したわけです。その過激な行動とそれを為さしめたルターの信仰のあり様ということも考えてしまいます。ルターのその優しい眼差しのなかにものごとを真っ直ぐに見てゆこうとする強い意志力が感じられます。それと、きりっと引き締まった口元と鼻筋の確かな強さは、何ごとにも動じることがないルターの信念の強さが感じられるのです。ルターの作った讃美歌も昔歌ったことがあります。力強い歌詞と曲でした。1曲しか知らないのですけど、「神はわがやぐら」といって宗教改革記念礼拝とかクリスマスなどによく歌われるとおもいます。

ここでウイキペデイアをURLしたいのですけど、宗教色付だし上記で既にたくさんupもしたので控えた方がよいかもしれないのでやめます。それと今週号の「アエラ」に<「ウイキペディア馬鹿」が増殖中>が2ページあります。ずいぶんと前に、国会議員の方が委員会の質疑のなかでか、ウイキを資料に使ったことを批判されていたことがありました。その時は引用されたウイキの記事の間違いが指摘されていたと思いました。「アエラ」の記事では、学生や会社員の間でウイキがどのような使われ方をして、どのように評価をされているのかをレポートしてくれています。そして、使い方について慎重であるに越したことはないという結論があるわけです。その記事の最後は「必要なのは時間と手間をかけた、健全な猜疑心だ」ということでした。

 

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大阪しぐれ♪

2012-09-19 01:29:58 | 日記

いま朝になって、というかもう昼ごはんの時間になってしまいますけど、一度書いたものを修整しています。修正ではないですよね。改稿とか推敲ということばは気がひけるの使えませんけど、修整もなんだか美容整形をイメージした感じでピッタリとしません。ようするに、書き方直れ!というわけなのです。ちぐはぐな文章はいつもどおりなので仕方ないです。←深夜にはできなかった絵文字が入りました。

今、都はるみさんの♪一人で生きてくなんて、できないと~♪の「大阪しぐれ」http://9oo.jp/fsQR3を聞きながらこのブログを書きはじめました。すみません、少しよっているみたいです。ほんとうは今頃、su-は伊豆に行っていたはずなのです。一年に一回のシルバー仲間の集まりを、あるホテルを借り切ってやっているのです。でも今日はある用事があったので不参加でした。

いま曲は、♪あなた変りはないですか、日ごと寒さがつのります。着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます。おんな心の…♪「北の宿から」なんです。この歌について面白いコメントが書き込まれています。歌謡界の大御所であった故・淡屋のぶ子さんがこの歌を聞いて、「着てもらえないセーターなんて編むんじゃない」と仰ったそうなのです。ほんとにそうですよね。無駄なことだと分っているのだったら、するだけ時間のムダなことは確かなことというわけです。でも思うんですけど、このいま自分が生きていることのなかで、ムダではないという時間はどれだけあるのかと考えてしまいます。たしかパスカルは『パンセ』のなかで、「壮絶なまでの気晴らしこそが人生だ、という生き方を人間はしているのだ」ということをくり返していっていたように思います。こんな回りくどい言い方ではないですけど。要するに、大方のひとの人生の大方の時間は壮絶なムダ・気晴らしの連続である、のではないかということなのでしょう。

音源があまり良くなく少し?ですけど、画面はまさしく抜群の”はるみちゃん”なんです。万が一にもお暇があったらぜひご視聴くださいhttp://9oo.jp/cGL07「北の宿から」です。ユーチューブのコメントには、「「未練でしょうか」ではなく「未練でしょう」と自分で答えを出す­、自立した新しい女性像のつもりで小林・阿久コンビが作った歌だと­、2011/10/23の朝日新聞日曜版の特集で読みました」とありました。

歌詞の2番は、「吹雪まじりに 汽車の音 すすり泣くよに 聞こえます お酒ならべて ただ一人 涙唄など 歌います 女心の 未練でしょう あなた恋しい 北の宿」。この歌は、小林・阿久の超、名コンビによって作られた、”自立した新しい女性像”をイメージした作品というわけなのですね。朝日紙のその特集記事はいつも読んでいます。そして読むたびに、ああそういうことなんだ!と教えられるのです。でもすぐに忘れてしまうわけです。ホントウにこまったものです。耐え忍ぶ女の歌としてヒットしたのは誤解の産物だと・・・。

それから、上記のURL短縮されているの気がつきましたでしょうか。これって凄いとおもいませんか、ぼく的にはですけど。じつは、ぼくが前に書いたこのブログのURLがあまりに長いので数日前にグーグルで調べたのです。そうしたら、短縮するためのソフトといっていいのかどうか分かりませんけど、便利なものがたくさんあるのでした。いまぼくが利用しているのはgooのものです。使い方が簡単だし使いでがよいと思います。コピペを二回くり返すだけですから。http://9oo.jp/

上記のはるみちゃんもそうなのですけど、ぼくはPCをする時にはよく、ユーチューブに作ってある「お気に入り」を聞きながらやります。いままさにそうなのです。ユーチューブには歌謡曲からクラシック、癒し系のBGMから講演まで、なんでもそろっていて誠に有難いわけです。癒し系のBGMにはすごいのがあります。例えば、海辺の波の音を5時間ちかく延々とやってくれているのもあるんです。たしか8時間とか10数時間のBGM系もあったとおもいます。皆さんにもいろんなPCの使いかたがあると思います。以前イワサキさんにお聞きしたときには、海の向こうのクラシックを流しているときもあると、たしかお聞きしたように記憶してますけど、酔っているときの記憶はあまりあてになりませんですね。

いま曲は、…メドレーなので曲名はわからないんですけど、”小春~!あんた、将棋!”と唄ってくれています。ぼくは都さんとは一夜を共にしたことがあるということは、前に書いたことがあるとおもいます。最近また月刊誌で特集が組まれている芥川賞作家の故・中上健次さんには、都さんのことをかいた新書があります。二人は新宿2丁目の呑み仲間でもあり親しい関係だったのでしょう。数年前に、都さんのパートナーは自死されたわけですけど、この方の存在は都さんにとってとてつもなく大きかったわけです。多分この方の存在は都さんにとって、兄であり先生であり、夫であり同志でもあったのではないかと。そして、中上さんが生きていたらこんなことにはならなかったかもしれないのではないかとか、勝手な妄想をしてしまうのですが。

参議院議員のあの有田さんも都さんに一書を捧げています。ぼくは読んではいないのですけど。有田さんは心根の確かな方ではないかなと思います。以前ブログやツイッターを読んでいたこともあるのです。ぼくも大好きな”テレサ・テン”についても一書を捧げています。それにしても、民主党はどうなるのでしょうか。この党のことをおもうと”矛盾”ということばを連想してしまうのですが、大いなる的外れ!

それにしても、ぼくの連想癖の連鎖は尽きることがないというわけです。いつもながら他の人にはまったくもってどうでもよいことばかりなのですけど。ただぼくにとっての救いは、以前このブログにtagawaさんが、とにかくここではなにを書いてもいいのです、といわれていたことばなのです。たしか、そうだったとおもうのですけど

それから、ついでのことですけど、このPCには「BOSE」のPC用スピーカーを繋いでいます。TVに繋いであるサラウンドの3.1chにも接続できますけど、これで充分です。皆さんはもっと性能がよいスピーカーを使っているのでしょうか。ぼくの音響機器とのつき合いは、ご幼少のみぎりの”蓄音機”から中学生からこ高校時の”ステレオ”とテープレコーダー”。そして結婚してからの、何というのか今少し酔っていているせいなのか言葉が思いうかびませんけど、ヤマハの木製のスピーカーとビクター?のアンプとなんとかのセットが今は懐かしいのです。鎌倉から帰ったときからかその後だったのか記憶にないのですけど、今は影も形もありません。

ぼくはじつは、さっき目が覚めたばかりなのです。ある集まりで呑んできてから寝てしまったのでした。きょうはというか昨日からいまにかけて連ちゃん酒なのです。

<以下の文章は書き直したいけど、面倒なのでこのままにします。書き直したら全部書き変えてしまいそうですし、一昨日からお天気の機嫌が悪いのでテニスや買物ができるかどうか微妙な時間帯なのです。でも、明日は晴れそうです。夏野菜などもこの間の雨で大分生き返ったはずです。>

しかし、ほんとうのことをいいますと、書きたいことがありますのです。二つあります。しかしこうした場合、ふたつと書くのか二つと書いたらいいのか、任意なのでしょうけどね。自己責任で自分が書くわけですから、じぶんの主観にあう選択をすればよいということでしょうか。ここで文法ということばを聞かされたら、なにも書くことができなくなってしまうわけですけど。グーグルするのも面倒です。

その書きたいことというのは、きのう読んだ雑誌の記事と、朝日紙の読書欄に書かれていた書評に触発されて買った本についてなのです。その記事というのは、「アエラ」今週号の”コレステロール「下げなくていい」”長谷川熙さん。そしてその本というのは、『街場の文体論』内田樹さんなのです。

とにかくこのアエラの記事と内田さんの本は、su-にとっては刺戟的な内容でした。でも、もう、また眠たくなってきてしまいました。大事ことなので、あとで書いた方が後悔しなくてすむような気がします。一応、朝方検索したURLは書いておきます。コレステロールですけど、ここにアエラの紹介記事の概要をURLしたのですが、友人から指摘され(報道系のサイトの更新は定期的にされ、時間の経過で他の記事に置き換えられます)他のURLに替えました。http://9oo.jp/etB02 http://oo.jp/eloDW 同じブログ内に関連記事が41件ありますので、もし興味がおありでしたらどうぞ。

内田先生の本については、http://9oo.jp/prOV5。ここにはカスタマーレビューが5件書き込まれていますけど、どうにも響いてこないですね。しかしとにかく、新聞の書評を書かれていた鷲田先生のことばが刺戟的でした。不謹慎ないいかたですけど、アジびらとしたら至上の内容ではないかと思うのです。生意気な言い方ですけどそう思ってしまうのですからしかたないわけです。しかしここで、「俺だって人間だ!」なのです。このことばは昔、”吉本隆明25時”というこのブログにもかいたことがあるイベントで、いま法政の教授をしている名前がでてこない X さんが中上さんとの掛け合いの中で、酔っぱらいながらおもわず発した言葉なのです。なんだか、いまフットおもわずでてきたことばなのです。そうなのです、「みんな人間。たかが人間、されど、人間。」なのでありますよね。お互いの間でなにかが優れていたり劣っていたりとか、そんなことごとはある意味まったくもってどうってこたーないよ、というわけです。しかし、じゃーとにかく、ほんとうの問題はなんなのだ、というわけでもあります。← ここに”スミマセン”の絵文字を入れたいのですけど、クリックすると文頭にいってしまうのです。なぜでしょうか?こんなことは過去になかったのですけど、意地悪はやめてほしい(-。-)y-゜゜゜

内田さんhttp://9oo.jp/aKV07についてはブログやツイッターでときどき追いかけていたり、本も数冊はあるのです。でもあまり響いてくるというわけでもなかったのです。でもこの本を全部ではないのですけど、拾い読みをするなかで感動してしまいました。この本は、内田先生が昨年退職するまえ半年間の講義録ともいえるものなんです。この本の第1講は、「言語にとって愛とは何か?」なのです。あの吉本さんの「言語にとって美とは何か」を連想させてくださいましけど、内容は刺戟的です。女子大生に向かって語られたことばなのでやさしい文章になっていて、でもぼくの理解の程度はともかく興味を集中させていただけるわけです。はじめと真ん中と終りとを読んだのですけど、なんだかよくわからないけれど、神学(聖書)や国学や、多くの学問の根っこに通底している問題であるのだなあといいうことも感じたのです。ぼくは構造主義やポスト・モダンもほとんど分らないんですけど、でもこの本と共に少し学習できたら少しは目が開かれることがでてくるかもしれないのかななどとおもったりするわけです。そしてこの本には、いろいろなことについて、そうなんだ!といった形で教えて頂けることがたくさんあります。このいろいろなことというのも人それぞれだから、一概にはいえないわけですけど。

でも、どうして絵文字が文頭にしか入れることができないのでしょうか?

 

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久しぶりの逗子でした!

2012-09-14 22:30:45 | 日記

逗子での合宿は、参加者が12名でした。前回のブログではサトーさんの参加をお知らせしたと思います。その後、ユアサさんが朝から合流されました。合宿の宴会では、いつもユアサさんかぼくが二日酔いになるのが定番です。でも今回は、二人ともなんとなくいい感じでよい朝を迎えることができたようにおもいます。そうでしたよねユアサさん!

しかし、本当に久しぶりの逗子の宿でした。でも、分っていたこととはいえ宿の様子が余りにも昔と変わっていないので、何だか”今は昔、竹取の翁という者ありけり”といった幽玄の世界に浸らせていただけというわけでもありました。でも一番ビックリしたのはお風呂が昔と変ってないことでした。とにかく、なにも変わってはいなかったのではないでしょうか。そう、でもじつはそれがいいのです。新しければいいというわけではないのです。”温故知新、汝自身を知れ”というわけなのです。そうなのです、すみません、”汝は幹事だ!なのであります”

北は北海道から南は静岡まで、日本列島の半分から参集した12名でした。あれから25周年目でしょうか。よくぞ今まで生きてこれたものだと、ぼくは思うしだいです。ナカザワさん、カツメさんの奥様のミカさんと残念なこともありました。おふたりとも今頃どうされているのでしょうか。今こうしておふたりを想いだしているということは、今ここにいて下さるということにも繋がっているわけでしょうか。ナカザワさんの結婚式の写真も配らせていただきました。いろいろな集まりには、ナカザワさんは必ず参加されていたように思います。ぼくが都内A区で精神の仕事をすることができたのも、たしかナカザワさんの紹介であったと思います。いろいろお世話様になりました。それから、ミカさんも後輩でしたよね。若くてお名前の通り美しい方でした。カツメさんにはもったいないなどという人はいなかったと思います

宴会後の二次会で昔の写真をみていただきました。みんなでなんだかんだと昔の想いでを話す時間がとても楽しかったとおもいます。ぼくはカメラがすきでよく持ち歩いていたように思います。たしかビデオカメラでもいくつかの場所で撮っったことがあるとおもいます。ぼくは過去ビデオを3回買い換えたのですが、古いビデオはかびてしまったので捨ててしまいました。ですので、古いビデオで撮ったものはいま再生もダビングもできないというわけです。そのうちどうにかできるものかどうか調べてみます。高田馬場の労政会館で学習会をやっていたころのビデオカセットもあったはずです。本郷の東大正門前の宿での合宿では子供さん達が集まってとても賑やかでした。そのときの様子もビデオに撮ってあるはずです。その子供たちは今、大学生!ぼくは子供もいないので、そうした時間の流れを振り返ってみるとほんとうに驚いてしまうのです。

少し前にニシムラクンのHPに寄らせていただきましたが、まだアップ未満でした。超お忙しいのですから、そのうち仕事の合間に時間をつくっていただけたら嬉しいですね。

上記で、最小サイズの写真をアップしました。もしお気に障った方がいましたら、削除してください。またはtagawaさんかsu-にお知らせください。すぐに削除させていただきます。tagawaさんよろしくお願いいたします。参加者の方にはメールをさせていただきます。よろしくお願いいたします

 

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11名で合宿です!

2012-09-08 03:27:47 | 日記

サトーさんが参加で~す

今日は合宿です。 さっきまでは、今日の前日だったんですけど、今はもう今日というわけなのですが。

グループの昔からの写真をコピーしたりしていたら遅くなってしまいました。しかし、このグループで撮った写真がたくさんあったので、懐かしくてつい見てしまったということでもあったのです。アルバムに収まっている写真は少しばかりなんです。ほとんどの写真は簡易アルバムに挿しこんであるか、ネガと一緒にバラバラになって袋の中に入っているというわけです。どうにもこうにも整理整頓という習慣からほど遠いわけで、自己嫌悪におちいってもいいところです。しかし、su-はこれしきのことでへこたれることもなく、これを書いたらもう寝ます。

しかし、そもそも写真のコピーなどは前日になってやることではないはずですよね。、本来ずっと前にやっておくべき事柄だったのです。と、こうして書いているなかで、ここでまたまたsu-は、以下のような余計なことばにあたまとこころが侵されてしまうのです。そのことばというのは、「習慣、すなわち機械的無意識的な行動は、真実の生活、すなわち道徳的完成の基礎である」。このことばは、高校時代につけていた日記帳の裏表紙に印刷されていたことばなのです。『戦争と平和』を書いたレフ・トルストイの言葉だそうです。そのころ私淑していたトルストイがいっているのだったら憶えるしかないと思ったわけではなく、なぜか自然に記憶に残ってしまったようなのです。

日記を開くたびに見かけていたわけですから当りまえなことだったのでしょう。それに、『方丈記』の冒頭の言葉のように長い文章ではないわけですから。高校時代に記憶した数個のフレーズのなかの一つというわけでした。でもなんだか”気になることば”であると思いませんか。そうなんです、子供のころに、親や先生からよくいわれそうなことばではないかと思うのです。。

でも、その時の日記帳に書かれていたことばって、もしかしたら何だかもっと長い文章だったようにも思えてきました。しかし、トルストイに私淑していたなどと書くのはおこがましすぎて、ぼくなどがいってはいけない言葉なのです。しかしこのことばは多分、トルストイの晩年のことばのような気がします。この”道徳的完成”という表現などは「道徳教育」をれんそうさせてくれますけど、でもトルストイ的な本義はキリスト教のというか聖書の「山上の垂訓」がイメージされているとおもうのです。 

いずれにしても、いまの世のなかで使われていることばとは異質な表現みたいです。まあ訳文という問題もあるのかもしれませんけど。なんだか、嫌みたっぷりなことばのような気がしないわけでもないのですが?ぼくのことばもよれよれで、こうしていま書いている本人もよくわからないというわけです。でもじぶんが若いころは、けっこう真面目には受けとったことばだから今も頭の端っこに残っていたのだと思います。いずれにしても”過剰なる余談”でありました。

これから、9時におきるとしたら5時間以上も寝られます。それからきょうの宴会と二次会では、30分くらいずつ”座談の場”を設けたいのですが?目が覚めて起きたら交渉してみようかな?ウノさんとセキグチさんも、よろしくおねがいいたしま~すといっても読んではくださらないですよね…

いま、トルストイがいったということばの続きを少し想いだしました。「人がそれを得て、役目の終ったものの領域のなかへ入れておく…?」僕以外の方にとってはどうでもいいことなんですけど、しかし、「 …?」に当てはまるいうことばはまったく想いだせません。といういうことは、ぼくの記憶力は高校生時代でも、やはり今と同じようにダメだったということの証明に終ってしまいそうです。

いま朝なのです!このなんだか嫌みなてんもある書きこみを、消すべきか消さぬべきか迷ったのですが、ぼくにとってのひとつの想いでなので残させていただきます。いつもながら、ほんとうにすみません。”想いでノート””にっきノート””びぼうメモ”…?、ボケ防止のひとつの有効な手立てであることはまちがいありません。

 

 

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古い映画

2012-09-04 21:07:20 | 日記

 先ごろ亡くなった女優「山田五十鈴」追悼映画会が池袋でありました。

10日間ありその内都合のつく3日間通いました。私が生まれる前の作品もあり

全部モノクロでフィルムも痛んでいましたがよかったです。まっすぐでどこかほっと

する感じです。当時の日常生活が描かれてます。それで気が付いた事。

・アップからカメラが引いていく時何かあるんじゃないかと余計な事考えた。

 これは今のドラマで刑事物の見すぎか・・・

・最終日で前の回の人達が出てくるのを見て、なんと中高年の男性の多い事

 女性に比べ圧倒的に多い。何となくうなづけるが・・・・

それにしても「婦系図」では泣かされました。あらすじは分かっていてもやっぱり泣けました。

長谷川一夫が若かった、当然ですけど・・・(せー)

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