虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

隠れキリシタンの里 加西

2009-10-31 | 日記
見えるだろうか。地蔵さんの背中の十字架。

これは加西市の野上大日寺にある「背面十字架地蔵」。
播州の加西はキリシタンの里で、こうした背面十字架地蔵が100体もあるそうだ。

この画像の地蔵が発見されたのが1972年。
この加西で牧師さんをしていた吉田完次さんは市民の方からこのキリシタン地蔵について質問され、何も答えられず、それ以来、調査、研究を続け、現在、ご自宅横に、私財を投じて「加西石像文化センター」を設立している。加西の石像、キリシタン研究の先駆者だろう。NHKなどテレビにも何度か出演したこともあるようだ。

そこも訪ねてみた。入館料は無料。センター内にはご自分で撮影したキリシタン的石像を何十枚も大きなパネルにして掲示してある。今年、86才。いろいろ興味深いお話を伺った。
「加西のキリシタン的石像発見記」「加西石像・墓碑略史」「加西の背面十字架地蔵」「加西におけるキリシタン禁令実施状況」などの小冊子も発行している。

石像はそのままにしていると風化がどんどん進む。加西市に文化財として保護するように何度も申請しているようだ。ほんとに、そう思う。

黒田如水もキリシタン大名だったが、播州はキリシタンが多かったのかもしれない。いや、播州にかぎらず、戦国から江戸初期にかけてはキリシタンは想像以上に大きな勢力をもっていたのかもしれない。キリシタンといえば、当時では、最新の哲学、文化、科学を持っていた進歩的文化人であったのかもしれないのだ。
三木市の慈音寺の前の路傍にも翼のある地蔵を見たことがる。

この加西はキリシタン禁令がゆるやか(庄屋や豪族もキリシタンが多い)なので、ここにキリシタンが流れてきたのではないか、と推測している。後藤又兵衛もここの出身で、又兵衛もキリシタンだったそうだ。

同じく加西の五百羅漢像。あれもキリシタン像ではないかといわれた。五百羅漢像の説明板では、由来はまったくの謎として、キリシタンの文字はなかったのだが、いわれてみたら、そうかと思った。あそこの石仏はたしかに異形だ。外人と思われる石像が何体もある。あんな五百羅漢は珍しい。

お話を聞くと、キリシタンは多方面の人物に関わりがあるようだ。天海和尚、赤穂浪士、天保の加古川一揆、明治維新・・・。倒幕派は、キリシタンの富豪に資金援助を頼んだこともあったらしい。そういえば、坂本龍馬は、「キリシタンを扇動して一揆をおこすべし」(正確には覚えていない)という内容の手紙を書いていたはずだ。

日本の歴史に深い関わりを持つキリシタン。しかし、歴史学界では、事柄が宗教に関することだからか、歴史的にはまだ解明はすすんでいない。

このキリシタン石仏でも、キリシタンという言葉を使わずに、異形石像だとか、キリシタン的石像とか、そういう表現になっている。

「キリシタン」という言葉は、まるでかつての「アカ」のように、まだ世をはばかる言葉なのかもしれない。300年の抑圧の歴史を思った。

今日は貴重なお話を聞かせてもらった。吉田完次牧師には、長年の研究の集大成となる本を是非、早く出版してほしいと願っている。

古本うしおに堂の店長日記にも画像をのせました(店長日記は画像が何枚ものせられる)
http://rakuraku.huruhon.shop-pro.jp/

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