ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 176号 田川建三さんの近著を読んで

2005年08月02日 | 教育関係
        
 最近、田川建三さんの名前を聞かなかったので、どうしたの
かなと思っていました。ファンの1人として「何かあったのか
な」とすら思っていました。この春、勁草書房から「キリスト
教思想への招待」を出され、健在であったことが分かりまし
た。新聞の書評などでも好評で、売れているようです。

その「後書き」によりますと、68歳になって最期を視野に入
れて研究と執筆を続けているようですが、少なくとも後3冊、
「新約聖書概論」(題名は「事実としての新約聖書」)、「マ
ルコ福音書注解」の下巻、詳しい注解の付いた翻訳「新約聖
書」はどうしても自分の責任として出しておきたいとのことで
す。

この責任感には本当に頭が下がります。成果を期待したいと
思います。

田川さんほどの碩学の著作に対して私のような浅学非才が批
評をするなどというおこがましい事をするつもりはありませ
ん。今回も沢山の事を学ばせていただきました。

大きな観点としても、天地創造の神話と自然に対する謙虚さ
との関係とか、西洋人は自然を支配するが東洋人は自然と一体
となるという風に対比して理解するのは間違いだとか、日本だ
けが四季がはっきりしていて自然が豊かだなどというのは偏見
だとか、隣人を愛せといったうさんくさいモラルも長い間かか
って今日の福祉社会を築く力になってきたとか、キリスト教や
浄土真宗はその当時の諸宗教の負担から民衆を解放したのだと
か、黙示録のヨハネが非難した終末的現実はいまだに終わって
いないとか、感心して読みました。

アフリカの雨期とはどんなものか、人々がその雨期をどんな
に待ち望んでいるかといったことは、アフリカ中部の南緯5度
に住んでいたことのある田川さんならではの叙述で、びっくり
しました。

このように感謝する気持ちが大部分なのですが、ほんの少し
疑問に思った事を書きます。それは田川さんの授業のあり方に
ついてです。

この本の 151頁以下に次の文があります。材料となっている
のは「有名な」話(だそうです)で、「ぶどう畑の日雇労働者
の譬え話」(或る地主が1日働いた者にも、仕事がなくて畑の
前に立っていた者にも同じお金を払ったという話)です。田川
さんはここにある「隣人愛の精神」が長い歴史の中で今日のヨ
ーロッパの社会保障制度に繋がってきた、と言っています。

少し長くなりますが、所々略して引用します。

─私にとって非常にショックな事柄があった。長年にわたる
ヨーロッパ、アフリカでの生活を終えて、日本に帰って来てか
ら、私はある小さい女子大学の教師になった。学生にクリスチ
ャンはほぼまったくいない。その学生たちに、私は毎年つとめ
て授業でイエスや新約聖書の話をするようにしていた。この本
に記したことの多くは、その授業で語ったことでもある。特
に、この日雇労働者の譬え話は、必ず紹介した。

ある年、この譬え話を紹介し、上で述べた、また以下にも述
べるような解説も加えた。そこまでは毎年やっていることであ
る。しかし、一度学生たちの率直な感想を聞いてみたくて、あ
る学期の終りの試験の時に、最後に時間が余ったら、これは試
験とは関係なく、採点にも関係ありませんから、率直に、この
譬え話についての感想を書いて下さい、と頼んだ。この時に、
要望に応えて率直に意見を書いてくれた大部分の学生に私は感
謝している。普通は、そうは言われても、なかなか書く気には
なれないものだ。それを、ほとんどの学生が書いてくれた。

しかし、その点では感謝するけれども、その中身に私は非常
なショックを受けた。全体のおよそ三分の二(三分の一ではな
い!)の学生が、こういう意見は間違っている、と書いていた
のである。働かなかった労働者にも賃金を与えるなんて、間違
っている。それじゃ、働いた労働者が損をしてしまうではない
か。そんなのは不公平だ。働かなかった労働者は、自分が悪い
んだから、賃金をもらう資格なんぞない、等々、等々。

確かに、これは一年生の授業である。もしもこれが四年生相
手の授業であったら、すでに就職活動を通じて、嫌というほど
女性の就職が差別されるのを経験しているから、働く機会が得
られないのは御本人の責任とはいえない、ぐらいのことは、こ
っちが何も言わなくても、十分に肝に銘じている。

今の日本社会、政府は「男女共同参画社会」なんぞという看
板だけはかけてくれているが、この看板は、ほとんど何もしな
いことの言い訳のための看板であって、現実はなかなか変らな
い。世界中どこに行っても本質は似たようなものだが、しか
し、労働の場における女性差別は、日本では世界でも群を抜い
てはなはだしい。

等々、いろいろあるだろうけれども、しかし、いわばまだ素
直な若い人たちである。小さい大学の、数十人の授業だから、
それが日本全体の意識をどの程度代表しているかもわからな
い。しかし、彼女たちは、ほどほどにまずまずの知性もあり、
みなさん人柄はなかなか良い人たちである。しかも、今回この
本に書いていることの大部分は、これほど詳しくはないにせ
よ、その時の授業ですでに話した後である。この人たちの「素
直」な感性がこういうことであったとは。

これは、一つには日本のクリスチャンの怠慢である。(略)
もっとまわりの、キリスト教を知らない人たちに、キリスト教
の中にもこういう良いことがいろいろ伝えられているんです
よ、と語ってくれないかしらん。別に、キリスト教という宗教
はどうでもいいけれども、労働者の賃金について、こういう良
い話があるよ、ということぐらいは。

と、そうには違いないが、ともかく、仕事にあぶれた労働者
も、その日の食いぶちにあずかって、安心して生きられる、よ
かったよかった、と思うのと、仕事にあぶれた労働者なんて、
働かなかったのだから、食えなくても当り前だよ、と思う神経
とでは、あまりに開きがある。良識のあるはずの、素直な若い
人たちが、何となく、後者の神経しか持つことのできないでい
る社会。(略)

その学生たちには、この譬え話を語り継いできた伝統がある
おかげで、キリスト教西洋社会は失業保険やら健康保険やら、
その他さまざまな杜会保障制度を発達させてきたのですよ、そ
の制度を近代になって輸入することができたから、日本でも、
似たような制度が存在しているのですよ、(略)

しかしそれは降ってわいたものじやありませんよ。西洋世界
がイエスのこの譬え話を生かしながら、長年かかって徐々に作
り上げてきたものですよ。それが日本に輪入された。この譬え
話を聞いて、よかったよかった~、と思うことのできる人たち
の長い間の伝統が、それを生み出したんですよ。

と、こう申し上げると、学生たちは一応納得してくれたみた
いであるけれども・・。─

さて、田川さんは自分の生徒(4年制大学の1年生)に大分
ご不満のようですが、ここでの田川さんの特徴は他者への不満
ばかりで、自分の授業のやり方に問題はなかったのかという自
己反省がないことです。そこで、田川さんのこの授業のやり方
を具体的に検討してみましょう。

第1に、お断りしておきたいことは、何の授業なのかは分か
らないということです。語学の授業でないらしいことは分かり
ます。田川さんの『イエスという男』(三一書房、第1版第16
刷、1991年02月刊)の奥付きに書いてある「現職」によります
と、「1978年より大阪女子大学英文科教員」で「宗教学、西洋
古典学」が専門とありますから、その種の概論的な講義なのだ
ろうと推測します。

第2に、今「概論的な講義」だろうと書きましたが、講義と
いう言葉は大学では授業の代名詞としても使われるからそう言
っただけです。その「講義」つまり「授業」が実際に「一方的
な講義」つまり講師が話すことが大部分を占めている授業でな
ければならない理由はありません。

しかし、田川さんの授業はどうも実際にも講義中心の授業の
ようです。これがまず問題だと思います。講義という授業形態
は最低の授業形態だと思います。田川さんはヨーロッパやアフ
リカでの生活が長かったと言っていますが、その生活とは大学
教員としての生活だったはずです。外国でもこのような講義中
心の授業をしてきたのでしょうか。

私は外国の大学で授業を受けた経験がありませんが、ほんの
少し見学しただけでは、ドイツの大学でも講義中心のものが多
いようで、「高校以下はドイツの方が日本より好いが、大学は
どちらもお粗末だな」と思いました。

第3に、たしかにこの批判に対しては「数十人の学生がいる
のだから」という弁明が考えられますが、生徒が数十人いて
も、講義中心でない授業は可能ですし、そうすべきだと思いま
す。

生徒に毎回レポート(感想文でもよい)を書いてもらって、
それに対して講師が答えるとか、生徒を3~4人ずつのグルー
プに分けてその日のテーマについて話し合ってもらうとか、で
す。

まあ、授業中に「休憩」を入れるなどという事は、本当は必
要ですし、学生は喜ぶのですが、私のようなふざけた教師でな
いとできないでしょうから、そこまでは要求しません。

「教科通信」は田川さんが出したら立派なものができただろ
うと思いますが、田川さんの才能をこんな事に使うのはもった
いないかなとも思います。そういう事を言いだしたら、そもそ
も田川さんのような人が大学の1年生に授業をする事自体がミ
スマッチなのだと思います。

第4に、田川さんは4年生でなく1年生だから経験が乏しい
という点について触れていますが、これも賛成できません。経
験の乏しい生徒だからこそ、講師が新聞記事とかビデオとかで
間接経験(小説を読むのは間接経験であるという時の意味)を
与える義務があるのだと思います。生徒の体験を待っているの
なら教師は要らないと思います。

憚りながら、私も某女子短大の1年生に半年間、「女性労働
論」というテーマの授業をしたことがあります。田川さんの学
校よりレベルの低い学校です。しかし、毎回、適当な新聞記事
などをコピーして読んで考えてレポートを書いてもらったの
で、好評でした。当時は私はまだ「教科通信」というものを知
らず、少人数に分けて話し合ってもらうこともしませんでした
が、これだけでも好評でしたし、内容のあるレポートでした。

 第5に、「一度学生たちの率直な感想を聞いてみたくて、あ
る学期の終りの試験の時に、最後に時間が余ったら、これは試
験とは関係なく、採点にも関係ありませんから」として書いて
もらったと書いていますが、なぜ「一度だけ」なのでしょう
か。毎年、その他の事を含めて何回も感想を聞いて授業を進め
るべきだと思います。

なぜ「試験と関係なく、採点とも関係がない」のでしょう
か。これは思想的な内容のある授業では「思想の自由」と「真
理は1つ」との関係をどう解決するかの問題と関係してとても
難しい問題だと思います。

私も悩みましたが、今では次のように考え実行しています。
生徒の考えの「内容」が講師の考えに賛成か反対かは自由であ
る、しかし、どれだけ深く広く考え根拠をあげて論じたかを評
価する、その意味で内容も評価する(あるいはこれを私は「形
式」を評価すると考えている)。

つまり私の授業ではその目的を「自分の考えを自分にはっき
りさせ、更に発展させること」としています。田川さんはどう
も、講師の考えに賛成してほしいと思い、説得しようと思って
いるのではないでしょうか。

その意味で私はレポートの内容はもちろんアンケートすら成
績の対象としますし、そう生徒に最初に断ります。しかし、こ
れは「自由な発言」を全然阻害していないと確信しています。

 HP「哲学の広場」の「授業参観」に載っている「天タマ」
第43号を見て下さい。「先生の考えに反対です」という意見が
冒頭に載っています。そして、この生徒に私は「優」をつけま
した。別に「講師の考えに反対したから」ではありません。全
体としてそう評価しました。とてもしっかりした生徒です。忘
れえない生徒の一人です。

アンケートは匿名にしなければならないというのは「公理」
と思われているようですが、私の考えでは、「匿名でなければ
本当の話し合いの出来ないようなら、それは本当の師弟関係で
はない」。その事自体が失敗授業の証拠だと思います。

大体これで全部ですが、最後に、田川さんはかつての60年代
末の大学紛争の時、ICU(国際キリスト教大学)の若手教員
の一人で、いわゆる全共闘の立場に立ってこれに参加し、その
結果、大学を追われたか自分で辞めたかしたのではないでしょ
うか。この事とこの授業のあり方とはどう結びつくのでしょう
か。

それと関連して、田川さんは自分たちの行った「闘争」を歴
史家の一人としてどう理解しているのでしょうか。この事をど
こかに書いているのでしょうか。もし書いているならば、ぜひ
読みたいものだと思います。

本メルマガ第 161号で「山本義隆さんの労作」を書きまし
た。山本さんと田川さんは全共闘世代の生んだ二人の巨人(学
問の巨人)だと思います。年齢的には私よりも上ですから、本
当は安中派(60年安保世代)として知られてもおかしくないの
ですが、60年安保の時は研究に没頭していたかで余り中心的に
参加しなかったのでしょう。あるいは、60年安保はあくまでも
政治闘争だが、大学紛争は大学と学問のあり方についての闘争
だから彼らは全力をあげて参加したのだということかもしれま
せん。

期せずして、別々にではありますが、このお二人の方を論じ
ることになりましたが、二人とも、自分の全共闘時代の闘争と
の関係に沈黙しているようなのは残念です。

  (2004年07月07日発行)