カウンセリングの勉強を始めて、数年過ぎた頃の私の失敗話を思い出しました。
理論を学び、ワークショップにも参加して、私も人の話が聞けるという自信に満ち溢れていました。
頼まれてもいないのに、困った人の世話をしてみたり、その方の話を聞いて自己満足したりしていました。
勉強を深めていくうちに、私自身の問題も解決できていないのに、相手の話を傾聴しようとする傲慢さに唖然とする瞬間に出会いました。
それは、娘さんを病気で亡くして、失意のどん底にいる方との話の時でした。娘の友達という関係の中で、私も何とかしてあげたいと思う優しさから出た行動だと思い込んでいました。
私の娘も、生まれた時から心臓病を患っていました。病気の子供を持つ親として、共感できると自負していましたが、娘の検診の後、その方を訪ねて行ったときの一言は今も忘れることが出来ません。
「元気だったのね」その心の奥から発する言葉は、何故自分の子と一緒ではないのという怒りのような言葉でした。
その時、私は悲しみを聞いてあげるという傲慢な気持ちでいたのだと知りました。
その方の悲しみを、私は聞いていなかったのです。
その時から、傾聴を本格的に勉強していきたいと思いました。
ふと昔の事を、思い出しましたので書いてみましたが、時々立ち止まって傾聴の意味を再確認する作業も大切だと考えています。
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理論を学び、ワークショップにも参加して、私も人の話が聞けるという自信に満ち溢れていました。
頼まれてもいないのに、困った人の世話をしてみたり、その方の話を聞いて自己満足したりしていました。
勉強を深めていくうちに、私自身の問題も解決できていないのに、相手の話を傾聴しようとする傲慢さに唖然とする瞬間に出会いました。
それは、娘さんを病気で亡くして、失意のどん底にいる方との話の時でした。娘の友達という関係の中で、私も何とかしてあげたいと思う優しさから出た行動だと思い込んでいました。
私の娘も、生まれた時から心臓病を患っていました。病気の子供を持つ親として、共感できると自負していましたが、娘の検診の後、その方を訪ねて行ったときの一言は今も忘れることが出来ません。
「元気だったのね」その心の奥から発する言葉は、何故自分の子と一緒ではないのという怒りのような言葉でした。
その時、私は悲しみを聞いてあげるという傲慢な気持ちでいたのだと知りました。
その方の悲しみを、私は聞いていなかったのです。
その時から、傾聴を本格的に勉強していきたいと思いました。
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