日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





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 現在の中国において、経済発展のシンボルとして第一に挙げられるのは往々にして上海市。ビジュアル的には香港に負けじと建ち並ぶ摩天楼や夜景に映える外灘(バンド)、といったところでしょう。

 特に外灘は租界時代の名残を遺しつつも周囲の風景がガラリと変化したため、20年近く前の町並みしか知らない私のような「昔型」にとって、現代的にライトアップされている「偽りの正面」にはただただ圧倒されるばかりです。夜景だと大気汚染が目につかないのもいいですね(笑)。

 ちなみに「老上海」と名乗ることにはひるみがあるので「昔型」としましたが、私はもちろん「上海閥」ではなく「団派」贔屓です。ええ胡錦涛直系の共青団(共産主義青年団)人脈。……というより胡燿邦系「団派」というべき時代でした。「上海閥」でないのは1989年の民主化運動のときデモ隊の一員として、

「江澤民,下台!」(辞めろ辞めちまえ江沢民)

 と何百回も叫びつつ上海市中心部の目抜き通りを練り歩きましたし、当時上海のトップ(上海市党委書記)だった奴の自宅の門前に座り込んで、

「江澤民,出来!」(コラ出てきやがれ江沢民)

 とシュプレヒコールを繰り返したように、「上海閥」の御大を散々にこき下ろしているからです(余談:当時私が見聞した限りでは、上海市長だった朱鎔基の悪口を言うデモ隊は全くありませんでした)。

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 それに私は江沢民が大嫌い。なぜって反日風味満点の愛国主義教育を定着させた……という以前に、この愛国主義教育によって
硬直的な価値観を叩き込むことで中国の若い世代から柔軟な思考癖を奪い、民度を退行させたというのが第一。これは歴史に刻むべき重罪です。

 それから江沢民は同じ「中共人」でもギリギリの局面で「中国人」であることをより優先させた趙紫陽とはまるで比較になりませんし、「中共人」としてみてもトウ小平や胡錦涛のように良くも悪くも政権維持のために心を砕くことを第一とするスタイルではなく、むしろ「中共人」としての特権で潤うという方向に激しく傾斜していた観があるのも醜悪でたまりません。

 ではなぜ「団派」贔屓かといえば、そりゃ私の書いた文章が初めて中国語媒体に出たのが共青団系の新聞、という馴染みがありますし、当時の胡燿邦・趙紫陽時代に深い思い入れがありますし(趙紫陽は「団派」じゃありませんでしたけど)。

 そもそも当時は「上海閥」なんて利権集団なぞ、まだ政治勢力として認知されていませんでした。……いや、誕生していなかったというべきでしょう。

 1992年当時の上海もまた同様で、後年の繁栄への取っ掛かりとなる「浦東開発計画」すら本格始動していなかった時期です。そのころ改革開放政策の先進地区といえば広東省であり、広東省の中でも経済特区の旗頭として輝いていた深セン市。

 そういえば、当時の広東省は後の上海市のように中央政府に対し独立王国然としたスタンスを崩さない一方で、「経済特区」という名のもと中央に召し上げられてしまった深センを陰湿にイジメたりもしていました(そのうち「観察日記」に登場すると思います)。

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 余太はともかく。

 その改革開放政策の星である深セン市に突如出現し、後年「南巡講話」としてまとめられる「改革路線再加速」の大号令談話を次々に発表し始めたトウ小平が、その「南方考察」(南方視察)を始めて1週間か10日ばかり経過したあたりから、権力闘争としての本格的な凄みを帯びてきます。



●トウ小平、党政軍の高官集め政治会議を開催か(1992年1月28日)


 珠海を訪問しているトウ小平と楊尚昆・国家主席は27日、市内の電子工業企業を視察した後、市北部をバスで見学。この日の発言は伝えられていない。

 28日付の親中国系紙(実質的に新華社の掌握下にある)『香港文匯報』は、両氏の深センにおける談話を紹介。それによると、トウ小平は株式市場を視察した際、

「株は資本主義のものだと言う者もいるが、上海と深センでの実験は成功を収めた。資本主義のものの中にも社会主義体制下に転用できるものはあるということだ。たとえ扱い間違えることがあっても大したことはなかろう」

 と語り、株式市場をはじめ大胆な資本主義的要素を改革に導入することに大きな支持を表明。これは一方で保守派の提唱する、

「姓社、姓資」(資本主義的な改革には断固反対)

 を批判するものである。同紙はまた、

「改革を進めなければ中国には前途がない。改革開放は唯一の道なのだ。改革に反対する者には失脚だけが待っている」

 という発言をも伝えている。楊尚昆は深センで、

「改革開放と発展に有利な政策は全て支持する」

 と表明。この発言は、トウ小平の持論である「白猫黒猫論」(生産力の発展につながる政策であれば、資本主義的なものでも構わない)を想起させる。

 一方で、両氏が滞在する広東省に党・政府・軍隊の高官が集まりつつあり、注目を集めている。広州市で公安・検察部門の会議を主宰した喬石・党中央政治局常務委員はなお同地にとどまり、珠海で両氏と会ってもいる。軍部では中央軍事委員会の劉華清・副主席、張愛萍・元国防部長が相次いで同省入りしたほか、楊尚昆の実弟で軍内部で実力を広げつつあるとされる楊白冰・中央軍事委秘書長は深セン訪問以来トウ小平に随行。また、同省の実力者である葉選平・全国政協副主席も珠海に到着したと伝えられる。

 こうした動きに、来月初めの旧正月期間中、広州で党・政・軍高官による会議が開かれるという観測が強まってきている。テーマについては見方が分かれるが、江沢民総書記が参加する可能性が低いうえ、李鵬首相は外遊中。鄒家華・朱鎔基両副首相といった実務面の指導者にも「声がかからない」ことからみて、「改革路線の検討」といったことでないのは明らか。むしろ党大会を控え、改革派優位の人事実現に向けた軍部の支持取り付けが行われるのではないかとみられる。

 なお、こうした動きのなかで26日付『人民日報』(国内版)は1面で江沢民・李瑞環演説、また楊尚昆の改革加速を促す発言を掲載。さらに河南省の経済発展を紹介する記事では「思想解放」を見出しに使った。

 同紙は天安門事件以降、さながら「保守派の意見発表の場」として使われ、昨年は「思想解放」の是非をめぐって上海の『解放日報』と論争を展開。トウ小平の深セン訪問を契機に改革派の攻勢が強まる中でも「改革加速」には沈黙を続け、24日、海外で趙紫陽前総書記の免責報道が流れた際には、同氏を暗に批判するとともに、「姓社、姓資」的内容を再び提起した保守派の主張を反映する論文を発表している。

 今回掲載された記事は、河南省が内陸部という地理的ハンディのなか、「思想解放によって『内陸』観念を打破」し、輸出をはじめ各面での発展に成功したことを評価。「意識の開放による改革の加速化」を呼びかけ、メインタイトルで「改革加速」を打ち出してもいる。楊・江・李3氏に関する報道と併せてみれば、何らかの「変化」を示唆するといえなくもない。

 しかし、この場合の「思想解放」が、保守派による思想引き締めを批判する本来の意味ではなく、

「不利な条件をはね返すための意識改革」

 といったニュアンスで使われていることは興味深い。保守派は「思想解放」の内容をすりかえ、政治色を薄めることで、改革派による攻撃の矛先をかわそうとしているのかも知れない。




 軍部や治安当局の元締めがトウ小平の元に馳せ参じてくる光景はさすがに「銃口から政権が生まれる」というお国柄ですが、トウ小平談話によって改革派に猛烈な追い風が吹き始めたという「中国政局一大転換」な俯瞰図の中にあって、この情景にはやはり戦慄を伴うような凄みを感じずにはおれませんでした。

「軍を握っている奴が最高実力者」

 ということを、トウ小平は行動を以て内外に知らしめ、自分こそが主流派なのだ親分なのだ仕切るのはおれなのだ、ということを誇示したに等しいからです。トウ小平・楊尚昆・楊白冰なんて顔ぶれは正にブラッディー三匹。小細工の繰り返しで勢いに流されることに終始した李鵬などとは違い、天安門事件を自ら実行に移してその血しぶきを浴びた連中です。

 ちなみに今回の「観察日記」の中にある一節「テーマについては見方が分かれるが」というのが、当時の私にとっての解説陣の声であることは言うまでもありません。プロのチャイナウォッチャーや記者たちの間でも意見が割れていました。跡づけてもいないので私にとってはいまでも謎です。

 ともあれこの「軍・警察の元締め参集」というデモンストレーションで一番ブルったのが政治・経済の両面で厳しい引き締め政策を維持し、改革開放路線の再開にも何かと制約をつけようとしていた保守派の現役組です。

 馬鹿李鵬などはここでも漂うように何となくひよりつつも結局空気が読めず最後に赤っ恥をかくことになるのですが、それよりも代弁者としてブイブイ言わせていた保守派系メディアの「転向」がこのあたりから歴然としてきます(この時点において中国国内メディアはまだ「トウ小平出現」を報じていませんけど)。

 例えば当時の『香港文匯報』などは天安門事件を機に編集部が総入れ替えとなって保守派カラーに染め上げられていたのが、今回の「観察日記」にあるように改革開放路線へと面舵一杯。

 ●往年の文匯報をしのびつつ。(2005/01/31)

 また、トウ小平の広報紙として働いていた上海紙『解放日報』と激しい論争を繰り返してきた保守派の牙城たる『人民日報』も、このあたりで腰砕けになるのが明確になります。

 ただし、『人民日報』はこの段階では完全に白旗を掲げた訳ではなく、上の「思想解放」の記事にみられるように弱々しいながらもしぶとい抵抗をなおも試みています。

 この『人民日報』のしぶとさはこの後もしばらく続くことになりますが(たぶん後述)、この時期に同紙が示した一連の「抵抗活動」(=保守派の最後のあがき?)は、中国の新聞の読み方を学ぶ上でまたとない恰好の教材となりました。「団派」贔屓の気分がある私もこの点だけは感謝しているのです。

 心から「ありがとう」と言わせてもらいます。……ええ、「ありが3-とう2」と谷村新司調で是非ハンドインハンドで。


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コメント
 
 
 
Unknown (sdi)
2008-02-13 14:45:25
御家人さんの記事を見て、真っ先思いついたこと。
「朱鎔基さんではなく、李鵬や江沢民を登用しなければならなかったのは千載に悔を残したな」
というものです。朱鎔基首相が上海市長のころから、民衆から支持されていたというのは知りませんでしたが納得できます。
 昔々、江沢民が主席だったころに半年ほど旧満州地域から日本出稼ぎに来ていた中国式整体師に通ったときのことです。なんでも瀋陽の軍需工場(当時噂になっていたスホーイの部品工場のことかと、その時に思いました)に江沢民の夫人が来るたび金庫から現金を洗いざらいカバンに詰め込んでもっていく、なんて話を聞かせてくれました。そのとき、「朱鎔基首相は?」と聞くと「あの人を悪く言う人はいない」と返されました。朱鎔基首相は全国レベルで信望を集めていたのですね。
 ちなみに某テロリストを主人公にした長期連載コミックで、江沢民、朱鎔基、そして今の主席がそろって出てくる話があります。事態を収拾するため朱鎔基首相が「私の責任において事を解決する。」といって会議室を立ち去るという、じつに颯爽たる役を割り振られていました。
 
 
 
sdiさんへ (御家人)
2008-02-20 06:00:32
 李鵬が首相を続投することで、朱鎔基の出番が5年遅れたことは中国にとって非常に惜しまれることです。御指摘の通り「千載に悔を残した」といっていいでしょう。朱鎔基は元々開明的なところがあり、上海市長だった1989年の天安門事件当時には、上海を包囲した人民解放軍を市内に進駐させ戒厳令を敷くことに最後まで抵抗した人物。当時現地にいた私にとっては命の恩人です。

 このとき朱鎔基が市民に鎮静化を呼びかけたテレビ演説の中で「事件の真相は歴史が明らかにしてくれる」と極めて際どい一句を口にします。実際この発言で後に失脚しかかったようですが、この言葉が天安門事件に激高していた市民の心をつかみ、上海が北京の二の舞になることを防ぎました。「中国のゴルバチョフ」と呼ばれるようになったのもこの時期からです。

 朱鎔基は企業改革などでの手腕を評価されて抜擢されました。深センなんていうところは経済特区とはいえ何もないところにビルや工場を建てていくだけのこと。計画経済時代以来の古いカサブタを剥がす作業こそが真の意味での改革であり、当時そのテストケースは満州国時代のインフラが残っていて「工業地区」とされていた東北地区でした。朱鎔基はここで実績をあげます(記憶モード)。SDIさんが会った整体師が朱鎔基をほめたのもその関係かと思われます。とにかく歴任した様々なポストごとに口碑を残した名宰相といえるでしょう。

 外国人記者相手の会見では、あの顔に似合わず常にウィットに富んだユーモアで記者を笑わせつつメモなしで自在の答弁を行ったことも話題になりました。香港人,特に天安門事件をリアルタイムで眺めた世代は中共に対する点数が常に辛い方ですが、朱鎔基はいまでも慕われる政治家のひとりに挙げられています。

 こういう水際立った手腕を発揮する宰相に恵まれない現在の日本は、まことに不幸といわざるを得ません。
 
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