(【昔の観察日記07】へ)
前回書いたように、トウ小平が突如として経済特区・深セン市に出現し、改革開放政策の再加速の大号令ともいえる談話を発表した。……という報道に接したことで、私は中国の政局が一大転換する、全てがガラリとひっくり返る、歴史的事態が進行しつつある、という衝撃にとらわれました。
その一方で私を大興奮させたのは、これまた前回の「観察日記」で言及している「趙紫陽免責」報道です。
トウ小平は1989年の天安門事件以降、軟禁状態におかれていた趙紫陽・元総書記に対し、
「罪を認めるなら復帰を許す」
という密書を3回送ったといわれています。硬骨・節義の人である趙紫陽は「私は信念に基づいて行動した」として3回ともそれを拒否したとされていますが、そのうち少なくとも1回はこの時期ではなかったかと思われます。
密書やそれに関連する水面下の動きが消息筋情報として外部に漏れて、それが「趙紫陽免責」という形で報道されたのではないかと思うのです。
タイトルにあるように中国当局は即座にこれを否定しました。実際、趙紫陽が失脚して江沢民が総書記に就いてからこの時点ですでに2年半を経ており、仮に復帰したとしてもどれほどの働き場所があったのかは大いに疑問です。
とはいえこの話、最終的には流れてしまったものながら、この時点においては「趙紫陽復帰」という段取りがかなり進められていたのではないか。……と、いま現在の私は当時の消息筋情報を総合した上で考えています。
●趙紫陽氏の無罪報道、中国当局は否定(1992年1月24日)
ロイター通信社は23日、消息筋の話として、1989年の天安門事件で失脚した趙紫陽・前総書記に中国当局が行っていた取り調べがこのほど終了し、趙紫陽が同事件で問われた罪状は全て不問に伏されることになったと明らかにした。また、趙紫陽の元秘書・鮑トウが軍当局に逮捕されたと伝えている。
中国政府新聞処はこれについて同日、
「そんな事実はない。海外の報道は全くのウソだ」
と正面から否定。外交部スポークスマンは、
「聞いたことがない」
とコメントを避けた。
趙紫陽の罪状は、1989年当時に
●動乱を支持した。
●党中央を分裂させた。
……の2点。天安門事件後、当局は趙紫陽の全職務を解任し、専門委員会を設けて「同事件中に趙紫陽が犯した誤り」を審査。この間、趙紫陽は一貫して罪状を否認し続け、処分の行方は重要会議が開かれるたびに焦点となりながら、改革・保守の両派間で合意が得られないために棚上げにされてきていた。
鮑トウは改革派の有力なブレーンで、89年の第13回党大会の総書記報告「社会主義の初級段階論」の起草者として有名。天安門事件の数日前に逮捕されて投獄、釈放後は自宅軟禁状態に置かれていた。
一方、中国地方筋は23日、趙紫陽に関する報道を事実とし、審査終了を伝える内部資料が現在、省長クラスで回覧されていると答えた。また政府筋も「決定は先月に行われた」としている。
香港の観測筋は、中国政府が否定したことを「まだ発表段階でないため」とみて、事実確認にはなおしばらく時間がかかるとしている。この情報で趙紫陽の復活が急浮上した観もあるが、
●趙紫陽の主導した性急な改革政策が88年にインフレなど経済的混乱を招いた。
●江沢民・李鵬体制のなか、すでに以前の改革路線がとられている。
●すでに70歳を超える高齢。
……といったことから実質的ポストに就くことはないとみられる。ただ内外の問題に動揺する民心を安定させるため、名誉職に就任する可能性は否定できない。
実は今回の「観察日記」の中で、「観察」の範疇から飛び出してしまっている部分があります。
●中国地方筋は23日、趙紫陽に関する報道を事実とし、審査終了を伝える内部資料が現在、省長クラスで回覧されていると答えた。
というのが、それ。正に「いまだから話せること」かも知れませんが、これは私が向こう見ずにも深セン市当局と地元紙『深セン特区報』に「電話取材」を敢行して教えてもらった情報なのです。
当時の深セン市は経済特区ながら、保守派主導による引き締め政策によって逼塞しており、経済特区という制度すら廃止されるのではないかという一種の脅えの中で息をひそめている観がありました。
そこへ最高実力者・トウ小平が突如やってきて改革開放再加速の大号令を発したのですから、市当局も地元紙もすっかり舞い上がってしまい、士気も一挙にレッドゾーンにまで高まって興奮のるつぼ。そういう状態でしたから、得体の知れない日本人からの問い合わせにも、つい話し過ぎてしまったのだと思います。
後で書くことになると思いますが、旧正月休みを利用して深セン市に入った私はこれまた無鉄砲にアポもなく『深セン特区報』を訪れました。門前払いを喰うかと覚悟していたのですが、意外にも副編集長が出てきて応接室に私を引き入れ、私の質問に答えてくれたり向こうから深センの政治状況を語ってくれたりと、熱気にあふれた一時間を過ごさせてもらったものです。
●香港の観測筋は、中国政府が否定したことを「まだ発表段階でないため」とみて、事実確認にはなおしばらく時間がかかるとしている。
というのも、香港の某政論月刊誌の編集長が直々に教えてくれたものでした。ちなみに上記「省長クラスで回覧されている」という点についても、私が「電話取材」したことを話したら、この某誌編集長も「その噂は私も耳にしているが、本当だったのか」と言っていたので、確度は低くなかったのではないかと思います。
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以前、当ブログで書いたことがあるかと思いますが、当時私のチナヲチ(素人の中国観察)には恰好の相方がいました。1989年の民主化運動で某省省都の学生リーダーとして活躍し、6月4日の天安門事件後は民主化団体のルートで香港に脱出してきたL君です。
L君とはふとしたことで知り合い、同世代であること、また「同好の士」かつ「民主化運動の戦友」としてすぐに仲良くなりました。
何より有り難かったのは、そのL君は中国本土から脱出して日も浅かったためまだ住む場所がなかったので、某政論月刊誌の編集部に身を寄せ、編集部の片隅で寝起きしていたことです。寄宿しているだけでなく編集作業の手伝いもしていました。
当時私のネットワークはすでに他の政論誌にも及んでいたのですが、L君がいるおかげでその編集部や編集長には非常に楽に「取材」することができ、実に重宝したものです。
L君とは電話したり一緒に飲茶をしたりと常々情報交換を怠らなかったのですが、トウ小平出現の数日後、残業を終えて0時近くに帰宅したとき、
「趙紫陽が復活するという噂も出ている」
と電話で急報してくれたのも、このL君でした。慌ててテレビをつけてみるとちょうど夜のニュースが終わるところで、復活説によって香港の株価は軒並み上昇し、ハンセン指数がはね上がった……という意味らしいことを伝えていました(香港に来て間もなかったので広東語の聴き取りは不得手だったのです)。
「御家人、会って話そう。いま出られるか?」
「もちろん出られる。近くに24時間営業のレストランがあるからそこで会おう。お前んとこからも歩いて15分で来られるだろう?」
「わかった。すぐ出る」
というやり取りのあと、コーヒーお代わり自由のファミレスめいた湾仔(ワンチャイ)のレストランでL君と合流し、ポテトフライを何度か頼みつつ、コーヒーを飲みながらスタンドに新聞が並ぶ朝まで二人して夢中で色々と話したのを昨日のことのように覚えています。
翌日は徹夜明けの出社となりましたが、もう内心は「流れが変わる。政変だこれは政変だ」と事態に興奮してしまっていて、仕事もロクに手がつきませんでした(笑)。
(【昔の観察日記09】へ)
遠藤誉『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』日経BPが、
「天安門事件により中国共産党の維新が揺らいだので、党の基盤を強化するためにに外敵として抗日戦争を利用し愛国主義教育を強化し始めたため」とする説を俗論としてしりぞけているそうです。
明日立ち読みに行ってみます。
御家人さんの当時の活躍を拝見して、なにか恥ずかしくなりました。
この当時の私は、6.4天安門で中共嫌いにはなってましたが、それを抜かせばただのバカ者でしたね。
でも、その当時から疑問なのですが趙紫陽への拘禁にいかなる法的正当性があったのでしょうか?
いくら人治の国とはいっても、共産党の総書記を解任するなど、なぜ可能だったのでしょう。
総書記の職権を総動員すれば、逆に反対派を全て捕らえることも可能だったと思うのですが…。
ちょっとだけ自慢させて頂くと、私は連載コラムで日本市場分析を行った際に、香港においては業界に「ライトユーザー」という概念を持ち込んだ開祖扱いされています。そのために造語までしました。こと日本市場に関しては、ライトユーザーの存在を語らない限り市場分析が成立しないからです。
私の名前がいつか忘れられても、業界用語として定着した造語は残ります。ごくちっぽけなことですが、自分は何事かを確かになしたのだ、という気持ちがあります。所詮は自己満足なんですけど。
ちなみに民主化運動~天安門事件という流れを一種の権力闘争と捉えるとすれば、趙紫陽を担いだ側が根回しから何から準備不十分で、学生の勢いを借りて出たとこ勝負でやっちまおう、というノリでした。その意味で奪権闘争などを終始行わなかった趙紫陽は被害者といっていいでしょう。
その通りです。ただしこの時期は軍権を掌握しているかどうかだけでなく、「十三大」(第13回党大会・1987年)で秘密裏に決定された「重要事項は全てトウ小平の判断を仰ぐ」という取り決めがあったことも無視できません。
そのトウ小平が徹頭徹尾「中共人」であったことが不幸でした。ギリギリの段階で「中国人」であることをより優先させ、武力弾圧に最後まで反対した趙紫陽が失脚するのは、一党独裁国家においてはごく自然なことでした。
それから天安門事件当時、武力弾圧に抵抗した軍区もあって、トウ小平の威令が軍部の端々まで及んでいた訳ではありませんでした。トウ小平が軍部全体に影響力を強めるのは、武力弾圧を断行して自ら血しぶきを浴びてからのことだと私は考えています。
ちなみに、天安門事件は人民解放軍が跋扈する「反革命分子」を武力で鎮圧した、というのが現在に至るまで中国共産党の公式見解。要するに鎮圧の対象は「人民」ではなかったという建前なのです。
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