(【昔の観察日記04】へ)
香港に渡った当時の私は仕事に没頭せざるを得ない状況にありました。まだ20代半ばだったので苦にはなりませんでしたが、日付が変わるまで残業することが多く、いまでいうと「毎日が年末進行」状態。
それでも「香港=中国情報満載」という嬉しさがまだ持続していて、忙しくても観察日記は少しずつ書き進めていました。12月も下旬になって1991年の総括めいたことを記しています。
●「安定」優先で懸案先送り 来春の改革再開に期待……中国この一年(1991年12月20日)
この1年の中国の動きにおけるキーワードは「安定」である。中国はこれを掲げて国際情勢の激変を切り抜け、また内政面での懸案を先送りした。
外交ではまず湾岸戦争の際、米国をはじめとする西側諸国にも、またイラクに同情的なアラブ諸国にも、国連の場において貸しを作った。また、89年以来冷却化していた西側との関係も本格的改善への一歩を踏み出し、経済制裁の実質的解除に成功。この背景には、ベトナム、韓国、インドなど周辺諸国との関係強化によるアジアでの発言力拡大があり、天安門事件の失地回復を進める一方で足場を強化した1年といえる。
内政面では、冷戦構造崩壊による危機感から政治的引き締めが続く一方、経済では改革再開を決定。
4月の全人代では、第8次5ヵ年計画と国民経済・社会発展十10ヵ年計画を策定。しかしその内容は、改革派と保守派、また分権化をめぐる中央と地方の対立を反映。肝心の部分では「適当」「適度」「慎重」の連発が目立つ「玉虫色」に終わった。
夏には華東水害が発生。その救済支出は財政赤字を悪化させ、改革再開の時期もずれ込んだ。
9月末の中央工作会議は、経済引き締めの終了を確認し、企業改革の方向を決定。その構想の多くは全人代で示されていたが、8月のソ連激変でイデオロギー重視の声が高まっていただけに、経済最優先の「お墨付き」としての意味は大きく、これ以降、改革派による巻き返しが強まった。10月には李鵬、袁木が深セン、上海の証券取引所を視察し、株式市場を保守派が認知した。
人事面では、改革・保守の両派に配慮したバランス人事の中で、胡啓立らが復活。「安定」最優先のため、朱鎔基副首相らの政治局入りなど異論の多い重要人事は見送られたが、天安門事件直後の顔ぶれと比べればかなり変化している。一方で広東省のボスである葉選平など、地方の実力者を中央入りさせることで地盤から引き離すという「中央対地方」を反映した人事が出てきたことは注目される。
なおこれは、改革で強まった地方の発言力が政治面にも及んできたことの表れであり、両者の対立関係の改善は、今年先送りされた最大の課題ともいえる。
◆今年の主要人事
新 職 名 氏 名
副首相 鄒家華
副首相 朱鎔基
政協副主席 葉選平
機械電子工業部副部長 胡啓立
民政部副部長 閻明復
国家計画委副主任 艾杏文
党中央台湾工作弁公室主任 王兆国
上海市長 黄菊
上海党委書記 呉邦国
河南省長 李長春
新疆ウイグル自治区主席 克尤木巴吾東
建設部長 侯捷
交通部長 黄鎮東
公安部長 陶駟駒
浙江省長 葛洪升
遼寧省長 岳岐峰
河北省長 程維高
福建省長 賈慶林
広東省長代理 朱森林
広東省党委書記 謝非
基本的には荒れることのなかった一年でした。ただ秋口には保守派の牙城『人民日報』の「姓資・姓社」論に対して改革派が上海の『解放日報』を拠り所に「皇甫平論文」で「思想解放」を呼びかけ反撃し論争を展開するなど、「安定優先」とはいいながら、年末にかけて改革派が力を盛り返しつつある印象が残っています。
とはいえ、改革派が政局を転換させて主導権を握れるかどうかは当時はまだ先行き不透明な部分がありました。9月の中央工作会議で引き締め政策の終了と改革路線再開の合意がなされ、李鵬と袁木(懐かしー)が深セン、上海の証券取引所を視察することで本来資本主義的とされた株式市場を認知したのはトピックではありました。
しかし、李鵬首相(当時)とその後ろ盾である保守派長老たちは、保守派主導による改革開放政策を行うことで「改革の推進者」という立場を確立し、実際には改革派が望むような政策を阻む気配がありました。
「適度に改革を進める」
「慎重に改革を進める」
という但し書きつきであることが、保守派主導の改革開放路線ということになります。
この「改革派 vs 保守派」の主導権争いに決着がつかないでいることが人事面に反映された観があますが、同時に独立王国然としていた広東省のボスである葉選平を中央に引き抜いてその影響力を骨抜きにする、といった「中央 vs 地方」を示す動きが出てきたことは注目されます。当時は江沢民制権がまだ不安定な時期で、上海も「浦東開発」に着手しようかという時期。「上海閥」の台頭など、誰も予測できなかったことでしょう。
「両者の対立関係の改善は、今年先送りされた最大の課題ともいえる」
と当時の私は書いていますが、この1カ月後にトウ小平が南方視察によって人生最後の権力闘争を発動し、政治勢力としての保守派が事実上潰滅し、「今年先送りされた課題」が一気に片付けられるとは夢にも思っていませんでした。
――――
なお、ちまちましたことですが、広東省のボス・葉選平の異動に対応して広東省当局が人事面で新たなシフトを採ろうとしていることを、私が敏感に予測して珍しく的中させています(ちょっとだけ自慢)。
●広東省、近く省長人事か……葉選平氏の動向に注目(1991年12月24日)
広東省では先月、韶関市の党委員会書記である高祀仁氏が広州市党委書記に転出した。国営企業管理に精通する同氏の昇格については、省当局による企業改革始動への下準備とする観測がある。だが、この人事でむしろ注目したいのは、前任者の朱森林氏が代理省長職に専念することになった点である。
広東省長職は前任の葉選平氏が全国政協副主席に転出して以来、空席となっている。葉氏は言わずと知れた広東省のボス的存在。その昇格には、中央の指令を必ずしも貫徹せずに独自の経済発展を進めようとする同省の牙を抜く狙いがあり、それを裏付けるかのように、葉氏は副主席就任後も同省を離れようとしない。
しかし、今回朱氏が市党委書記の職を譲ったことは省長への正式就任を示唆するものであり、そうなれば葉氏の動向にも何らかの変化があるものと思われる。
今年、同省の人民代表大会は異例の1月開催。この会議上、朱氏の省長就任が決まるのかも知れない。
――――
●広東省人代、空席続いた省長を選出(1992年1月10日)
広東省の第7期人民代表大会第5回会議が8日から開催され、昨年度の省経済・社会を総括するとともに、今年度の年間計画を審議。国内総生産(GDP)が前年同期比10%増、工業成長同12%、農業成長同5.5%などの経済統計も発表された。また、空席が続いていた省長に現省長代理の朱森林氏を選出した。
なお、前省長の葉選平氏は全国政協副主席就任後も同省にとどまり、北京へ赴こうとしない。今回の人事で、春の全人代を控えた同氏の動向が注目される。
葉選平というのはやはり広東省を地盤としていた葉剣英の息子で、父親の地盤をそっくり引き継いだ形で広東省に君臨していました。このころ広州に行くと、あちこちに葉選平が揮毫したものを目にすることができ、その影響力の大きさを実感できたものです。
保守派が政治勢力として存在感を示していた時代が、……いや「改革派 vs 保守派」という対立の図式が、事実上この年をもって終焉を迎えることになります。
(【昔の観察日記06】へ)