日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





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 1991年というのは、中国政治における権力闘争が「改革派 vs 保守派」という形で行われていた時代の終末期にあたります。

 当時の権力闘争は経済運営をめぐる主導権争いという形で行われていました。改革派が導入する改革開放路線の新政策に対し、

「それは資本主義的だ。社会主義国のやることではない」

 と保守派が掣肘を加えてその実施に抵抗する、というものです。主に利権を争う現在の対立の構図からみればまだしも健康的だった、といえます。

 最高実力者だったトウ小平が改革開放路線を支持していたため基本的には改革派優位の政情ではありましたが、新政策の導入で混乱が発生したり政策そのものが失敗に終わると「それみたことか」と保守派が反攻に出て、経済運営の主導権を奪回したりしました。その過程で新政策の担当者などが解任されたり干されたり、といった人事面に影響が及んだこともあります。

 保守派の反撃をしばしば許してしまったのは、当時のトウ小平が長老連の筆頭格ではあったものの、カリスマといえるほどの絶対的指導力を有していなかったからでしょう。1980年代当時、『争鳴』『九十年代』など香港の政治月刊誌、また民主化運動組織が出していた月刊誌『中国之春』などにおいては、

「毛沢東のようなカリスマではなく、トウ小平はバランサーにすぎない」

 という見方が一般的でした。そのトウ小平が「カリスマ」へと昇格するのは、1989年の天安門事件を事実上、陣頭指揮して自ら血しぶきを浴びたことで凄みを増すとともに、軍部に対する掌握力を高めてからです。

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 とはいえ、1988年夏のスーパーインフレを機に政策運営の主導権を奪回した保守派は経済引き締め路線を敷き、翌年の天安門事件を契機に政治的引き締めも大幅に強化しました。この過程で改革推進路線の旗頭だった趙紫陽やそのブレーンなどが次々に失脚し、改革派にとっては「冬の時代」となります。

 改革開放を掲げていたトウ小平がこの時期におとなしくしていたのは、第一に学生や知識人による民主化運動に終始否定的だったことによるものでしょう。天安門事件に対する西側諸国の経済制裁で中国経済が打撃を受けており、改革再加速を行う余裕がなかったことにもよります。

 より大きな理由は、東欧の共産党独裁政権国家やソ連が次々に崩壊していくという「非常時」だったからだと思います。トウ小平は経済面の改革政策には非常に前向きでしたが、政治改革については中国共産党の一党独裁体制を弱体化しかねないとして常に消極的でした。迂闊に大きく舵を切って取り返しのつかない事態になっては困る、という思いがあったのではないでしょうか。

 しかし、それも天安門事件から2年余りを経た1991年の秋になると政情も経済もそれなりに落ち着いてきていました。そして翌1992年1月にトウ小平が突如として経済特区・深セン市を視察に訪れ、周辺各地を回りつつ改革再加速の大号令である「南巡講話」を発表することで保守派主導の政局が一大転換。改革派が再び主導権を握る一方、保守派は政治勢力としての力を事実上喪失してしまうこととなります。

 というものの、実際にはその手前の時期である1991年秋に改革開放路線の復活ということで中国指導部がほぼ合意していたということは見逃してはならない事実だと思います。



 ●改革路線の復活、来春「引き締め」終了を宣言か(1991年11月4日)


 中国が3年近くに及ぶ経済引き締め策の終了を来春の全人代で宣言し、改革推進路線が再び復活することを親中国系月刊誌、『紫荊』が明らかにした。

 同誌が権威筋の話として伝えたところによると、中国指導部は引き締め政策の目標が基本的に達成されたとして、来年春に開催される全人代でこの政策の終了を正式に宣言する見通し。

 緊縮政策は「治理・整頓」と呼ばれ、経済環境の調整、経済秩序の整頓を目的に88年末から実施。当面の急務として、

 ●不合理な産業構造の是正
 ●国営企業の効率向上
 ●インフレ抑制
 ●経済過熱抑制
 ●国営企業の活性化
 ●基本的なマクロコントロール機能の確立

 ……の6つを掲げていた。もっとも、このうち多くの問題については、価格改革(不合理な価格体系の是正)をはじめとする制度改革の深化によって初めて改善の見通しが立つものであり、指導部が国営企業活性化を経済政策の最重要課題に据えた時点で実質的な方向転換が行われていたといえる。

 政府筋によれば、中国指導部は、88年当時の経済過熱期に引き締め措置をとらなければインフレがさらに昂進し、ここ数年来の厳しい国際情勢下における経済運営が一層困難になっていたという認識で一致。引き締め政策の正しかったことを改めて確認した。

 しかし、中国経済の状況をみる限り、「目標が基本的に達成された」という指導部の認識には、政治的混乱を伴わずに政策を転換させるための妥協的産物という色彩が濃厚。問題の主因である需要超過構造の改善にはメスを入れないまま(これも改革深化を待つしかない)。現在、これによる影響が経済面に出始めている。

 同誌によれば、来年は適当な速度による経済成長を維持する一方、金融緩和などの措置で総需要を徐々に増大させる方向に進み、経済改革の深化が図られることになる。しかし、引き締めの反動による経済過熱の出現は過去に何度となく発生しており、今回においても、これまで安定していた物価が上昇に転じたことや工業の急成長といった状況がその可能性を強く示唆している。




 親中誌の記事に当時の私は敏感に反応したようです。改革派が上げたアドバルーンかなとも思ったのですが、
「いやアドバルーンを上げられるまでに回復していることこそ重要」と判断したような記憶があります。当時の親中系の新聞や雑誌は天安門事件で編集部が総入れ替えになったりして、改革派の広告塔のようなポジションは失われていましたし。

 ただ当時の私はそれと同時に、
改革復活といっても根っこの病巣にメスを入れないとまた同じことが起こるよ、とも指摘しています。結局中国はその部分への対応が不十分なまま現在まで突っ走ってしまい、その尻拭いで胡錦涛や温家宝が苦労している訳ですが、私のこの指摘は卓見でも何でもなく、当時,私と同じように中国情勢を眺めていた者にとってほぼ共通した見方だと思います。

 ともあれ保守派主導の状況下ゆえ、「改革開放の復活」といっても様々な枠がはめられ、慎重に慎重に歩んでいこう、という条件つきではありましたが、その中で改革派が再び台頭する気配を示していたことは重要です。

 この改革派台頭の気配はトウ小平が演出したものなのか、偶然そういう流れになっていたのかは私にはわかりませんが、トウ小平の南方視察にとっての足場固めになったことは確かです。



 ●改革派が再び優位に、八中全会近づく中国。……今後の政局に展望(1991年11月8日)


 八中全会の開催を控え、改革派と保守派の水面下での争いが活発になってきた。10月以来、江沢民、李鵬、李瑞環といった指導者たちが国内各地を訪問しているが、こうした動きも多分に八中全会を意識したものであり、その際の発言にはそれぞれの政治的立場を反映して、改革の速度・内容について微妙な違いがみられるのが興味深い。

 8月のソ連激変で危機感を強めた保守派は、『人民日報』や雑誌『求是』を使って攻勢をかける。上海の『解放日報』が改革推進のために思想解放を呼びかけたのに対しては「姓社・姓資」(資本主義的な改革政策は行わない、という意見)を以て反論し、『求是』は趙紫陽を「個人独裁による全面的西洋化を企んだ」と名指し批判。

 改革は必要だが、「四つの基本原則」(社会主義の道、人民民主独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の枠から外れてはならず、またこれを軽視してはいけないというのが保守派の主張だ。先月末には『光明日報』が「力を結集して経済建設を行い、決して政治を無視してはならない」という文章を掲載した。

 しかし最近では、9月末に開かれた中央工作会議で経済の引き締め政策終了を決定し、経済改革の再推進が確認されたのを転機として、「経済建設が最重要任務」とするトウ小平の主張をタテにした改革派の勢いが目立つようになった。李瑞環は上海視察の際に「習慣勢力や主観・偏見」を打破しない限り改革の深化は望めないと語って思想解放を訴え、「姓社・姓資」を批判。江沢民は4日に新華社を視察し「人民を党の総目標へと導くことが報道部門の使命だ」と発言、「政治」を強調する一部新聞・雑誌へ暗にクギを刺した。

 楊尚昆もこうした動きと歩を同じくし、喬石は政治体制改革(行政改革程度だが)の必要性にも言及。また社会主義建設における「科学技術」の重要性が盛んに強調されるが、これも保守派の「イデオロギー重視」に対する批判とみられる。先月28日付『人民日報』が掲載した文章には「空論を唱えても始まらない」という一節がある。この文章の題は「決まったからにはすぐ実施、実施するからには成功を」。中央工作会議後の保守派の抵抗に向けたものだということは明らかである。

 もちろん、こうした動きによって強硬な外交姿勢や国内の政治的引き締めがすぐに緩和されるということはない。一方で李鵬ら保守派は、かつて趙紫陽が提唱した改革案の一部を自らが実施することで、今後も経済政策の主導権を保とうという動きをみせている。

 しかし、八中全会を間近にしたこの段階で改革派が力を取り戻したことの意味は大きい。同会議は、今後10年間の中国の方針を定める会議とされる「十四大」(第14期中国共産党大会、来年開催)の予備会議とも位置づけられており、天安門事件以来の厳しい政治情勢にようやく光が差し始めた観がある。




 2005年春の反日騒動に名を借りた政争もそうでしたが、中国政治における主導権争いは、争う当事者が往々にして大手メディアを押し立てて、自らの意見を代弁させる形で行われます。要するにメディア同士が相反する見方の論文を掲げて論争を展開するといったものです。

 この時期に保守派は『人民日報』を前面に出し、また保守派理論家の牙城であった雑誌『求是』を使って改革派が資本主義的な政策を打ち出さないよう盛んに牽制していました。
「姓社・姓資」とは、

「その政策の名字は社会主義か,資本主義か」

 という意味で、資本主義的な政策なら断固許容できない、というニュアンスを含んでいました。これに対し改革派はそういう建前にとらわれていては前に進めない、という意味で
「思想解放」を主張。物事には柔軟な思考で対処すべきだという意味で、これは「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るネコは良いネコだ」というトウ小平の「白猫黒猫論」そのものです。

 そして、その「思想解放」を唱える論文を次々に掲げて『人民日報』と論争を展開していた改革派の拠り所が上海の『解放日報』です。その論文の書き手が上海を流れる黄浦江とトウ小平の名前をもじって「皇甫平」というペンネームでした。

 この論争、この時点ではまだ最終的な決着はついていませんが、改革派指導者がそれを支持するという意思表示を視察などの行動を以て示すようになっいます。このあたりにトウ小平の影を感じなくもありません。ただトウ小平に言わせれば、江沢民以下の意思表示は、

「まだまだ手ぬるい」
「もっと思い切りやれ」

 といった、「お前らそれでも改革派か」といった感想だったのではないかと思います。それでも野次馬の私からみると、改革派の前途が開けてきたという印象がありました。

 NHKの松平さん風に言うとすれば、「その時,歴史は動いた」のその時まであと79日、ということになります(笑)。


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