日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)






★★★「血染的風采」by 梅艶芳★★★





 今年もまた6月4日がやってきました。1989年のこの日に、あの天安門事件(第二次天安門事件=六四事件)が発生しています。中国と付き合う者にとっては意識せざるを得ない日です。今年ではや19周年。私と同世代だった当時の中国の大学生たちも、40歳前後になっています。歳月というほかありません。

 古馴染みの皆さんなら御存知でしょうが、この事件当時に上海に留学していた私の体験は、

 ●あのときのこと。(2006/06/04)

 という2年前のエントリーで粗方書いてしまっているので、ここで付言することは何もありません。……本当は他にも余話めいたエピソードがいろいろあるのですが、本筋からズレているのといまは書く気になれないので今年は手をつけないことにします。

 民主化運動において常に最前線で飛び回っていた私は、命冥加ということになるのでしょう。軽躁浮薄で野次馬根性の人一倍強い私の留学先が北京だったら、どうなっていたかはわかりません。

 事件の死者数は、未だに諸説あり正確な数字は把握されていません。遺体の身元確認ができたケースはまだ幸運というべきで、行方不明者が多数出ているのです。「いまも帰ってこない」という形で「死」が表現されたといえるでしょう。

 9月に新学期が始まってから、私と仲の良い中国人学生が、奴の同郷だか同窓だったかは忘れましたが、

「北京の大学に進んだ親友が、いまも音信不通なんだ」

 と、暗い表情でそっと教えてくれたことがあります。

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 「六四」というのは、私にとっては原点ではありません。

 素人の中国観察=チナヲチは、中国語の初級を修了したばかりの大学2年生になった早々から始めていました。生意気にも大学図書館にあった香港の政論誌などに挑戦して、2ページの文章に知らない単語が220個くらい出てきて泣きそうになった記憶があります(笑)。中国で使われている簡体字とは大きく異なる繁体字にも戸惑い、ついでにそのときに覚えてしまいました。

 ただそうして活字から入ってくる情報や、恩師をはじめ当時の大学教員や付き合いのあった私より年上の中国人留学生たちから、中国の政治運動がいかに凄まじく、中国の発展を大きく遅らせてきたかは嫌というほど聴かされていました。

 私の聴き方が良かったのか悪かったのか、留学生たちはこの話題になると正に悲憤慷慨の呈を示し、まるで私が中共政権そのものであるかのような、のしかかる勢いでかきくどき、最後には涙をにじませることが珍しくありませんでした。

 そういう尋常でない出来事が中国で起きていた、その尋常なさを私は「六四」と事件後の厳しい政治的引き締めで実体験することができました。中共政権の本質、行動原理を思い知らされたということです。

 それから、民主化運動の勃発から「六四」に至る展開を結局は読み切れなかった。……というチナヲチにおける自らの至らなさを思い知らされた(いよいよヲチに励むようになった)、という点で、1989年は私にとってひとつの区切りとなる年となりました。

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 「六四」で事実上終息する1989年の民主化運動は、実は中国当局の発表の通りである部分があります。

 一部の者による策動、海外の反中勢力による煽動というのは確かにありました。実際、上海の民主化運動を終始リードした学生は事件後逮捕され、香港人活動家であったことか明らかにされています。

 改革開放政策の停頓ひいては後退を危惧した改革派知識人(紅衛兵世代)の連携によって空気が醸成された部分はより大きいですし、その機を捉えて体制内にいた改革派ブレーンが準備不足のまま試みた中途半端な権力闘争という側面もあります。

 ただ、そうした策動だけではああも広範な知識人・大学生を立ち上がらせることなど到底できません。当局が指摘するような動きは確かにあったものの、より大きな背景、具体的には社会的・経済的・政治的混乱が前年である1988年夏から1989年初めにかけて相次いで尖鋭化したことが最大かつ真の要因といえるでしょう。

 ……このあたりは江沢民による愛国主義教育を浴びて成人した「亡国の世代」は未だ十分に認識できていないかと思います。連中は天安門事件については学校で詰め込まれた通りの公式的説明で対応できますが、では民主化運動の生起した背景について説明しろと言われれば、言葉に詰まることになるでしょう。「公式」を教わっていないからです。

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 しかし中国と異なり政治的禁忌が非常に少なく、比較にならないほど大きな「自由」が保障されているわが日本においては、資料などによって現代中国の転換点ともいうべきこの時期について調べることが容易です。

 今年3月から5月の胡錦涛来日にかけて日本国内でチベット問題がクローズアップされるなか、奇特といっていいごく一部の若い世代が「六四」に関心を持ち、2ちゃんねるなどをプラットホームにしてアクションを起こしたことは余り知られていないかと思います。その有志のひとりが先日のコメント欄で活動報告をしてくれました。

 むろん、当節のならわしとして映像化されています。天安門事件OFFというよりも、メッセージ性の高いひとつの作品とみるべきでしょう。






 「平反六四」(天安門事件被害者の名誉回復を)という言葉は、中国人を敵視したものではなく、逆に中国がより確かな未来を勝ち取る上で不可避な手続きのひとつを直截的に表現したフレーズといえます。中国人への,応援歌です。長野の聖火リレーで五星紅旗を振って盛り上がった向きも、それを白けた気分で眺めた向きも、中国人留学生であり、祖国を想う気持ちがあれば胸に沁みるのではないでしょうか。

 沁みてほしいと思います。その上で、一連のムーブメントに対する認識を深めてくれることを願ってやみません。この動画は、真面目な中国人留学生にこそ観てほしいものだと、私個人は考えています。

 最大公約数でならしていえば、1989年の民主化運動は打倒中共政権ではなく、あくまでも体制内改革を掲げたものでした。少なくとも19年前、中国のより良い未来のために、いまの中国人留学生にとって「先人」にあたる学生や知識人が身命を賭したこと、中国当局がそれを人民解放軍の無差別射撃による流血の弾圧で押さえ込んだことは覚えておいてほしいと思います。

 学生は「總罷課」で教員は「總罷教」、つまり学ぶ側も教える側も授業を総ボイコットして、全校を挙げてデモ隊を組織しました。私の知る限りでいえば、娯楽の少なかった当時、毎日勉強ばかりしていた学生たちの中にはデモをお祭り騒ぎと捉える向きがあったことは否定できません。女子学生にモテたいがために学生リーダーに立候補する奴すらいました。

 ただしこのときのデモにはそうした明るさとはまた別種の、独特の昂揚感がありました。当局の姿勢が民意から著しく乖離している状況下で、学生や知識人が民衆の代表者として政府に異議申し立てを行う、要するに「自分たちは庶民の声の代弁者としてデモをしているんだ」という気分です。……もっとも、市民は最後まで応援団に徹し、運動の主体とはなってくれませんでしたが。

 くどくなるのを承知でいえば、あの民主化運動はあくまでも体制内改革を志向したものでした。少なくとも19年前、いま日本にいる中国人留学生にとって「先人」である学生や知識人が、その当否と成否を問わず中国のより良い未来のために身命を賭したこと、中国当局がそれを人民解放軍による容赦なき武力弾圧で押さえ込んだことは覚えておいてほしいと思います。

 それから、当時の中華人民共和国にはまだ彫塑可能な、期待を託し得る「未来」があったことも。

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 この1989年に、現在の「胡温体制」の構成者、またはその反対者のような小粒な連中とはスケールがまるで違う政治家を2人失ったことが、その後の中国の運命に大きな影響を及ぼしたといっていいかも知れません。

 ひとりは、胡燿邦です。その急死が追悼活動を経て民主化運動へと転化するきっかけになりました。常に温和で開明的なスタンスを崩さない一方、文化大革命で迫害された人々の「平反」(名誉回復)に尽力するなどして庶民からも慕われた人物です。チベット問題に対しても、「中共一党独裁」という限定された枠組みの中ながら、できるだけ穏健的に問題を解決していこうという姿勢で一貫していました。

 この胡燿邦を敬愛する胡錦涛が当時チベット自治区のトップとなり、胡燿邦の死の1カ月余り前には戒厳令を敷いてチベット人を力づくで弾圧したことを、最晩年の胡燿邦はどういう気持ちで眺めていたことでしょう。

 もうひとりの政治家は、民主化運動に絡む中途半端な権力闘争に巻き込まれて失脚した当時の総書記・趙紫陽です。やはり開明的、さらに積極的な姿勢で改革開放政策を推進し、一党独裁体制から生み出される諸々の弊害を、その枠内でいかに最小限で抑えていくかについて常に腐心していました。

 民主化運動に対しては終始穏便な手段での解決を主張し、武力弾圧には唯一正面から反対してそのポストを追われ、2005年1月に死去するまで軟禁状態下で過ごすことになります。趙紫陽の後に総書記となったのが江沢民です。

 一党独裁制の弊害を極力回避しようとした趙紫陽の政策、具体的には政治制度改革が現実的なものだったかどうかは、いまとなっては検証する術がありません。ただひとつだけ確実にいえることは、趙紫陽やブレーンの失脚によって、また共産圏国家が続々と崩壊していった当時の国際情勢の影響もあり、中国において政治制度改革はタブーとされ、中国の改革開放政策は経済面だけの改革を深化させていくという片肺飛行となりました。

 別の言い方をすれば、中国は一党独裁制の弊害を抑制する作業に手をつけることなく、ゼニゲバ最優先ともいえる十数年間の江沢民時代を突っ走ってしまいました。超格差社会の出現、汚職の蔓延、党幹部による特権を行使しての横暴、法治の不徹底、そして既得権益層の形成などは、全て片肺飛行を続けた結果生まれたものです。

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 江沢民の後を継いで中国の最高指導者となった胡錦涛は、要するにババを引いたことになります。ここまでいびつな形になってしまった中国を再生することなど、事実上不可能でしょう。既得権益層という胡錦涛政権にとってきわめて強力な「抵抗勢力」の存在もあります。

 皮肉なことに現時点の中国においては、学生・知識人による組織的な異議申し立て、つまり民主化運動などはもはや無意味で時代から取り残された、お呼びでないものとなってしまいました。

 そんな悠長なことをやっている余裕が、すでに中国社会から失われているからです。年間約8万件発生するとされる様々な形による官民衝突の「民」は大学生などではなく、とうとう農民・都市住民としいう「庶民」となってしまいました。十数年に及ぶ片肺飛行の挙げ句、「官vs民」という対立軸はかつてないほど抜き差しならぬものとなり、民衆は代弁者に拠ることなく、自ら蹶起せざるを得ない状況に追い詰められているのです。

 準戦時態勢の如く危機感を喚起しつつ「強い中央」を再現させ、30年に及ぶ改革開放政策で生まれた「負の部分」を強権政治によって改善し、「再生」を図る。その後は党勢回復に努めて「中興」を実現する。……というのが胡錦涛政権の主題であることは、2004年9月の政権発足時から当ブログが繰り返し指摘してきたところです。

 もしそれがかなわなければ、単なる「延命」作業で終わってしまうことも。

 「再生」となるか、「延命」となるか。……来年の6月4日は20周年です。そのころには、私たちはよりはっきりと「解答」を目にすることができているだろうと思います。





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