日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





 御存知の通り、6月4日は1989年の天安門事件(六四事件)16周年でした。

 事件当時、私は北京ではありませんが中国国内の某大都市に留学していたものですから、その日のことはよく覚えています。その日から数日の間に様々な出来事がありました。書こうと思えばまた「昔話」扱いで色々書くこともできます。

 ただ、いまはどうもそんな気になれません。

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 天安門事件の翌年である1990年の春、私は留学を終えて帰国することになりました。

 その日の朝、仲が良かった中国人学生たちが入れ代わり私の部屋を訪ねてきてくれました。その中に、前年の民主化運動で学生リーダーのひとりだった奴もいました。

 色々話をして、最後になって、奴は突然私の手を両手でぐっと握りました。私の名前を呼んでから、

「中国はいまこんなだけど、政策は3年もすれば変わる。そのうちにきっといい国になる。今度いつ会えるかわからない。わからないけど、そのときにはマトモな国になっていると思うから」

 そんなことを、あれは泣き笑いとでも言うのか、そういう表情で私に話しました。奴とは再会を誓ってそれで別れましたが、そのあと私は香港・台湾を流転する破目となり、奴も異動で住所が変わったりしましたので、連絡が途絶えてしまい、未だに再会の約束を果たせないのが心残りです。

 ともあれ、うっかりそういう体験をしてしまいますと、やはり6月4日を平然と迎えることができません。

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 それから3年後、私は香港にいました。

 奴の予言は見事に的中して、ちょうど3年で中国は大きく舵を切りました。トウ小平が挑んだ人生最後の権力闘争によって引き締めから改革加速へと政策が一変したのです()。そのときを起点に、現在に至る中国の経済成長が始まることとなります。私はその大転換を目の前で、まざまざと見ることができました。

 ただし、それは「六四」で失脚した趙紫陽・総書記(当時)とそのブレーンが描いていた青写真とは異なるものでした。経済改革とともに政治制度改革を実施することで、一党独裁体制に市場経済を持ち込むことの弊害(例えば特権を利用した党官僚の汚職)を極力防止する、という趙紫陽構想に対し、トウ小平そして江沢民は
「安定は全てに優先する」というスローガンを掲げ、政治制度改革に手をつけないまま、経済改革一本で十数年も突っ走ってしまいました。

 それによって、中国は賞賛であれ揶揄であれ、とにかく「世界の工場」と称されるほどの経済的地位を国際社会で獲得するに至りました。ただ政治制度改革を置き去りにしたため、躍進する一方で片肺飛行のツケを抱え込むことになりました。汚職の蔓延もそうですが、ある種の調節機能を欠いたシステムだったため、
経済が走れば走るほど「格差」が拡大するという結果になったのです。

 「格差」とは貧富の差であり、都市と農村の差であり、沿海と内陸、または沿海同士といった地域間格差でもあります。それを十数年続けた後、胡錦涛が江沢民からバトンを渡されたときには、社会状況は危険なまでに悪化していました。現に各地で暴動やデモ、ストライキなどが発生しています。いずれも「反日」とは全く無縁であり、端的にいえば、
物価上昇、失業者の増加、貧富の差の拡大、党幹部の汚職蔓延……といった問題によるものです。

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 政治制度改革を含めた趙紫陽構想が実現していれば、上手くいっていたかどうかはわかりません。いずれにせよ、1989年の民主化運動が「六四」の血の弾圧によって頓挫し、当時一貫して武力弾圧に反対していた趙紫陽が失脚したことでこの構想は葬り去られました。

 その趙紫陽は終生軟禁生活を余儀無くされ、上述したような社会状況について、

「いまの中国は、最悪の資本主義をやっている」

 という言葉を残し、今年1月にこの世を去りました。

 あいつだったら何と言うだろう、この現状を評して「マトモな国」と言うだろうか。……と、私は奴のことを考えてみたりします。

 奴や私がいた街は風景が一変し、高層ビルが競うように建ち並んで、中国の経済発展を象徴する都市のようにいわれています。たとえ表面的であれ、当時からは信じられないような発展を遂げた風景を重くみるか、それとも急成長の陰で当時よりはるかに悪化している社会状況を重視するか。

 私は中国に対して何の責任もない外国人ですから、躊躇することなく後者に目を向けます。当時の奴でも間違いなくそうだろうと思います。しかし、今はどうでしょう。

 一別以来すでに15年です。この世に住み古し、仕事に追われ、組織にもまれ、またその間に結婚もしたでしょうし、父親になっているかも知れません。その過程で考え方や価値観が変化していても不思議ではありません。私自身、色々な面で当時とは考え方が大きく変わっています。そしてオッサンになりました(笑)。お互いオッサンになったところで奴と再会を果たし、四方山話に花を咲かせてみたいところです。

 「六四事件」の扱われ方も変化しています。当初は
「反革命暴乱」という禍々しいレッテル(定性=党による政治的評価)を中共によって貼られたものの、「安定は全てに優先する」という後に掲げられた大原則のもと、当局が公の場で事件に言及する際には、

「1989年の春から夏にかけて起きた政治的な波風」(在一九八九年春夏之交所發生的政治風波)

 と柔らかな表現が使われるようになっています。もちろん、口ではそう言っても「反革命暴乱」という「定性」はそのままであり、
中国ではいまなお「六四」を公然と論じることはタブーとされています。

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 いや、中国で唯一「六四」を大っぴらに語れる場所がありました。特別行政区・
香港です。

 1989年当時、大規模なデモを連日繰り替えし、物資支援なども行って中国の大学生による民主化運動を熱烈に支持したこの街では、毎年6月4日になると、都心に近い「維園」(ビクトリア公園)でキャンドル集会が開かれています。「反革命暴乱」との烙印を押されたままである「六四事件」の名誉回復と、中国の民主化促進をアピールするためです。

 あるいは、それだけではないかも知れません。「民主」には覚醒して間もない香港人も、「自由」の有り難さは何十年と満喫しているだけによくわかっています。反中共スタンスの新聞や雑誌を出すことができますし、中共批判の言論や文章を発表することもできます。法輪功も活動OK。江沢民がかつて香港を、

「あそこは反動勢力の拠点だ」

 と罵っただけのことはあります(笑)。もっとも言論や思想の自由、信教の自由などはあっても、政治的自由度(民主)だけは十分でないことに漸く気付いたところですが。

 ともあれ、中国国内なら絶対許されない「六四事件」の名誉回復を求める集会を開くことができるのです。「自由」の尊さを肌で知っており、その「自由」が中国返還後、脅かされつつあると感じている香港人にとって(世論調査参照)、このイベントには
「香港にはいまなお『自由』が維持されているのだ」という象徴的な意味合いも現在(返還後)は含まれているのかも知れません。

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 さて今年で16回目となるキャンドル集会ですが、例年同様、6月4日夜に「維園」で開催されました。事件から16年、といえば当時生まれた赤ん坊が高校生になっている訳ですから、事件の風化も進んでいます。さらに当日は雨(途中から土砂降り)と屋外イベントには最低の条件でしたが、それでも4万5000人(主催者発表)が集まりました。警察発表では2万2000人となっていますが、集会の性質と悪天候からすれば、2万人としても上出来だと思います。

 この集会については昨日(6月5日)の香港各紙が詳しく報じています。あ、『香港文匯報』『大公報』(いずれも電子版)といった親中紙だけは厚顔無恥にも堂々とスルーして、「なかったこと」にしていますけど(笑)。

 報道を詳しく紹介するのは避けますが、参加者や野次馬といった街の声を甲斐甲斐しく拾って回るという点では、いつものことながらやはり最大手紙の『蘋果日報』(Apple Daily)が群を抜いていました。その中で印象的だった記事をかいつまんで取り上げてみます。

 ひとつは大陸(中国本土)からの観光客の反応です。香港は今年秋にディズニーランドがオープンする一方、経済面で担っていた役割を中国本土に奪われつつあることから、従来の「金融センター」「中国進出の玄関口」「貿易中継点」といったポジショニングから単なる観光地へと傾斜を深めつつあります。その観光客の主力が、大陸からの中国人ツアーです。

 中国国内ではCNNやNHK、広東省では香港のテレビも視聴できるようですが、当局にとって都合の悪い部分になるとブチリと強引に画面が切れてしまうそうです。そういう手間をかける一方で、大勢の観光客が香港に入ってきて「自由な空気」に触れてしまう。「維園」の横を通りかかったツアー客が指差して、

「ほらあそこ。あそこがあの『七一大遊行』(2003年の50万人デモ)の出発地点だよ」

 と会話したりしているそうです(義姉談)。大陸からのツアー客は今後拡大する一方と見込まれていますから、中共当局はいずれこれら観光客の「伝播力」を無視できなくなると思います。そのときに、どうするか。いつもの中共ならば香港政府に圧力をかけて、市民の「自由」を大幅に制限する法律を強引に通させてしまうところですけど。

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 で、大陸からの観光客ですが、近くにデパートなどが多いことから、今回の集会に遭遇した人がかなりいたようです。主催者側もそれを見越したのか、北京語の司会までちゃんと準備していたという心憎い配慮(香港は広東語ですから。方言とはいえ北京語とは外国語といっていいほど異なります)。しかも、

「平反六四!」(六四事件の名誉回復を行え!)

 などNG用語満載のシュプレヒコールを唱和している訳ですから、当然ながら集会が多数の中国人観光客を吸い寄せる形になりました。そこに記者が突入して街頭取材。多くはノーコメントと避けられてしまったそうですが、「写真は駄目だけど」と応じてくれた袁氏は、事件当時はちょうど広州の大学に在籍しており、デモにも参加したそうです。この16年、「六四」に関する話題は友人との間でさえ避けてきたとのことですが、この集会を目にして血が騒いだのかも知れません。

「あのころのクラスメートや、北京の学生のことを思い出したよ」

 とコメント。写真撮影には応じませんでしたが、

「いつか、明るい空の下で写真を撮らせてあげることができるようになったらいいね」

 という印象的な言葉を残して立ち去ったたそうです(それで私はうっかり「奴」のことを懐かしく思い出してしまったのです)。

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 もうひとつだけ。こちらは香港人、大学1年生のカップルです。もちろん香港の大学ですが、入学してすぐに「国情教育」なるものが行われるそうです。この二人によると、

「(国情教育では)中国は多党制で統治されている(一党独裁ではない)国家だ、とても偉大な国家だ、なんて教えられるんだけど、それって僕らが聞いている話と全然違う。だからここに来て六四事件のことを勉強しようと思って。まあ実地の国情教育だね。学校の国情教育では六四事件には全然ふれない。何でだろう?」

 これにはビックリです。香港の大学でもそんなことが行われているとは夢にも思いませんでした。大学1年なら18歳とか19歳、事件当時はまだ幼稚園にも上がっていない幼児ですから、大陸で行われている教育と同様、「六四」を「なかったこと」にする「国情教育」でもある程度の効果が認められるのでしょう。でも香港なのにそんなことをやっているとは……
本来保障されていた「自由」がすでに侵蝕されつつあるのを感じずにはおれません。やっぱり大陸からの観光客が増加するにつれて、中国では香港だけに残された「自由」も二重三重に縛り上げられてしまうのでしょうか(マカオも特別行政区ですが、あそこにはメディアらしいメディアがありません)。

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 という訳で話題が二転三転してしまいましたが標題(写真)について。知人である香港人フォトグラファー(万一を考えて名前は伏せておきます)が閉鎖直前の香港・啓徳空港を撮影したシリーズの中で、私が最も気に入っている一枚です。

 ビルの群れをすぐ真下に眺めつつ着陸するので有名だった啓徳空港は、英国統治が終わりを告げるとともに閉鎖され、香港が中国に返還された1997年7月1日からは現在使われている新空港が空の玄関口となっています。

 ただそれだけです。中国は天安門事件で、香港は中国返還によって、それぞれ何か大事なものを失ってしまったのではないかと思うのです。




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