世の中には、ベストセラーと言われる中で、実は売れたほどには読まれていない本が結構ある。もちろん、蔵書しておいて必要に応じて取り出し、調査することが目的の、資料的な書物は別にしての話である。
売れたのに読まれていない本の代表格が、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』だと言われる。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』もそういった意味で有名だ。
『ソフィーの世界』は哲学の手ほどき書であって、まあ興味のない人には退屈きわまりない。ベストセラーだというふれこみで買ったものの、読み始めて途中で放り出したというのが実情だろう。
小説の場合はその多くが大長編で、気力が続かなくなって挫折する。
長編小説の多くが、物語が面白くなる前の段階が延々と長いので、佳境に入る前に飽きてしまうことが多いのである。
しかし不思議なことに、トルストイやドストエフスキーの長編は意外に読破した人が多い。あまりに有名すぎるので、時間のある中学高校時代に読んでしまったりするためだろう。
ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』も、日本ではベストセラーとまではいかなくても、そこそこ売れている本だと思う。この作品が翻訳されたのは、ジョイスが死んで半世紀も経ってからで、「ついに」という接頭語がつくキャッチフレーズで告知され、話題にはなった。
ジョイスといえば『ユリシーズ』が有名で、こちらは1963年に伊藤整・永松定訳が「新潮社版世界文学全集」で出たので、それを読んだ。最近は丸谷才一訳が出ていて、こちらの方が読みやすいらしい。
ところが代表作『ユリシーズ』をさしおいて、このところ『フィネガンズ・ウェイク』がちょくちょく顔を出す。
テレビや新聞・雑誌のコラムで取り上げられたり、昨日送られてきた岩波のPR誌『図書』の11月号に、大江健三郎さんの連続エッセー「親密な手紙」で、「ジョイスと武満」と題し、武満徹が『フィネガンズ・ウェイク』に触発されて曲を作った話が掲載されていた。
ただし、武満徹自身は「歯が立た」なくて読んでおらず、手紙で大江さんに講釈を頼んでのことだったそうだ。
《川走(せんそう)、イブとアダムの礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲(わんきょく)する湾へ、今(こん)も度失せ巡り路を媚行(びこう)し、巡り戻るは栄地四囲委蛇(えいちしいいい)たるホウス城とその周円。》
冒頭からこんな調子で、延々と続く。
全四巻(単行本は「Ⅰ・Ⅱ」「Ⅲ・Ⅳ」の2巻本)の大作の、第一巻を半分ほど読み進んだ頃に、言葉のジャングルに頭脳が絡みとられ、まるで富士の樹海に迷い込んだかのように右も左もわからなくなる。「ああ、この小説は、頭で考えてはいけなかったのだ。この雰囲気を感じ取るようにして読み進まなければ」と思ったとたんに、読み続けるのが嫌になってしまった。
《転落(ババババベラガガラババボンプティドッヒャンプティゴゴロゴロゲキカミナロンコンサンダダンダダウォールルガガイッテヘヘヘトールトルルトロンブロンビピッカズゼゾンンドドーッフダフラフクオオヤジジグシャッーン!)》
翻訳した柳瀬尚紀氏について、丸谷才一のふるったコメントが帯に載っている。
「柳瀬尚紀さんは大のジョイス好きで、癖が昂じたあげく、つひに『フィネガンズ・ウェイク』の全訳に志した。立派である。一般に道楽は、このくらゐにならなくては本式とは言へない。この人一流の解釈と演奏のおもしろさを、存分に味わひたいと思ふ」
柳瀬氏が「道楽」で翻訳したわけでもなかろうが、読む方もわからないところはさらりと流すくらいの道楽の気楽さがなければ、とてもじゃないが読みこなせない。
緊急性のある書物ではないし、はたして、死ぬまでに読み終えるかどうか、心配な本の一冊ではある。
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