ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

YWCA「憲法カフェ」毛利孝雄さん

2014年11月29日 | 日記

 
 11月29日は同じ時間帯に複数の集会が重なっていたが、毛利さんは友人でもあるし、YWCAの「憲法カフェ」にも興味があったのでこちらに出向くことにした。
 
 毛利さんとは『けーし風』の読書会で知り合った。還暦を過ぎた2011年に沖縄大学3年次に編入し、若い学生たちとともに2年半学生生活を送っていた人だ。
 『琉球弧の住民運動』復刻に際しては、ずいぶんご盡力いただいた。
 
 会場入口で顔を合わせたとたん「今日は何?」という。
 わざわざ選んで参加したのにその言い草はなかろうと思ったが、そういえば、友人たちにはあまり積極的に告知していなかったらしく、期待していなかったのだろう。
 
 メールマガジンで頻繁に辺野古のレポートを送ってくれる、それも半端でない内容で実にマメだ。そのマメさが後援会にも現れていて、周到に準備されたA4判20ページのレジュメはそのまま資料になりそうなほどだ。
 
 どうやら彼は、話すよりも文書をまとめる方が得意なようである。
 
 講演内容は、最近になって興味を持ちはじめた人々やあまり沖縄問題に詳しくない人にとって、何を知るべきか、どう考えるかという方向性がよく示されていた。
 講演の後半半分は、『標的の村』のテレビ朝日版が上映された。この映画は一度見ればいい。2度3度は辛すぎる。
 
 沖縄問題は、とても複雑で、本土の人間にはわかりにくい。それが温度差の原因にもなっていると思う。
 普天間飛行場の代替基地として辺野古に新基地が建設されようとしている問題一つとっても、なぜ沖縄の大多数が反対しているのか、本土の人間の多くは理解できていない。
 先日行われた沖縄知事選は、保守革新を超えたオール沖縄で翁長氏が当選したが、推進派の仲井眞氏に投票した県民が26万人もいた。翁長氏が約36万票だから、その差は約10万。僅差ではなく大差であるが、ちょっとしたきっかけで逆転する票数でもある。
 その意味について、毛利さんの考えを聞きたかったのだが、なんとなく逃げられた。
 
 終了後、御茶ノ水駅近くのかつての行きつけで一杯。いちばん前席で毛利お産の話を聞いていた男子学生をともなった。両親が沖縄の出身だそうで、自分を日系沖縄人と言っていた。彼は長谷川宏『初期マルクスを読む』を手にしていて、最近の若者としてはめずらしい。仲間を拡げてくれると良いと思った。

「放送禁止歌」と自粛のこと

2014年11月28日 | ニュース

 
 『東京新聞』(11月28日朝刊)の「こちら特報部」に高倉健さんの大ヒット曲、「網走番外地」が70年代以降放送禁止になっていたのが、復刻されることになったと紹介されていた。同時に、なぜ禁止になったのか、規制にはどんな目的があったのかが解説されている。
 
 まず、「網走番外地」が規制された理由に、ヤクザの隠語とされる歌詞があり、それが「犯罪を肯定し反社会的勢力を助長する」と判断されたらしい。
 思えば、70年代以降、急に規制がきびしくなった。しかもそれは、現在に至るまで時とともに厳しさを増している。
 当時の音楽プロデューサー赤間剛勝氏は当時を振り返り「若者たちが強いものに立ち向かう姿に共感したことが背景にあるのでは」と語った。つまり、50~60年代に起こった全学連・全共闘運動のような、反体制勢力を押さえ込むことが目的であった。
 
 70年といえば、全共闘運動をはじめとした新左翼が挫折した年であった。それ以前、ヤクザ映画とプロダクション製作のポルノ映画(ピンク映画)は全共闘の学生たちに支持され、反体制のシンボルでもあった。
 権力が規制しようとするものに対し、あえてそれを肯定することで反権力のアイデンティティを示したのである。
 高倉健、鶴田浩二らが活躍するヤクザ映画は絶大な支持を受けたし。若松孝二や大和屋竺らの、当時はピンク映画と呼ばれた場末の小さな映画館で上映されピンク映画(大半は観るに耐えないひどいものではあった)を観に、若者たちは足を運んだ。
 
 70年を境にして、新たな社会常識が構築され、それまで映画の多くを占めていたギャング映画やヤクザ映画は次第に影を潜めていき、ピンク映画はアンダーグラウンドならではの自由な表現(それだけに稚拙な作品が多かった)のものから、映倫の意向にそい「性」を美しく描いた日活ロマンポルノが人気になり、中小の映画製作プロダクションは仕事の主流を大手映画会社に奪われていった。
 つまり、「ヤクザ」と「ポルノ」が権力の手の中におさまってしまったのである。ヤクザ映画やポルノ映画の泥絵の具で描かれた看板は急速に街中から姿を消した。
 世の親たちからは、「いかがわしい」ものを子どもたちの目から遠ざける意味で好ましいと評価されたが、なぜそれらが「いかがわしい」のか、きちんと説明できる親はほとんどいなかった。
 
「ヤクザ映画は恐いわよ、子どもがまねしたらどうするの?」
「チャンバラ映画を見て怪我をする子どももいるよ。夫婦喧嘩の方がよっぽど教育に悪いんじゃないの?」
「……」
 
「ポルノなんて淫らで汚らわしい」
「なんでそう思うの? だれでもやってることなのに」
「……」
 
 現在、テレビコードや映倫、紙媒体でも不適切用語などという理由から、実に多くの表現手段が規制の憂き目にあっている。表向きは「犯罪を助長する」であったり「教育上良くない」であったり「特定の人を傷つける」であったりする。
 たしかに、どのような表現であっても、受け取る側の感情に配慮することは重要である。自粛ではなく、受け取る側への配慮だ。つまり問題は、発信する側だけではなく、受け取る側にもあるということだ。何を見せるか、何を見るか、である。
 いずれにしろ、自らの身を守ることを目的に、表現する側が批判を怖れて自粛してしまうことには、賛成できない。
 
 先頃なくなった高倉健さんの映画が放送各局で放映されているが、多くの人が観たいと望んでいるはずの、健さんをスターの座に押し上げたヤクザ映画はない。
 
 CS放送でようやく再放送された日テレの連続ドラマ『失楽園』は、放送当時に非難されたとか規制を受けたという話はなく、ちゃんと最終回まで放送されたし、後に特別編まで製作された。現在なら不倫を肯定するということになるのだろう。性表現ばかりがクローズアップされるが、あのドラマは奥が深い。
 
 違法でもないのにメディア自らが自粛してしまう風潮は、表現の萎縮になり、ひいては権力側が反体制勢力の台頭を牽制することにつながっていると思うのは、考え過ぎであろうか。

三木聡監督『転々』

2014年11月28日 | 映画

 
 『転々』は、藤田宜永の小説が原作。2007年の公開である。
 三木聡は『時効警察』で有名になった放送作家でもある。『亀は意外と速く泳ぐ』や『インスタント沼』をCS放送で見てファンになった。いずれも日常的な風景の中で絶対にあり得ない状況を描く。どれを観てもたいした風刺もメタファもない、なのにクセになるおかしな監督だ。
 
 物語は東京の街を、井の頭から霞ヶ関までひたすら歩く。要するにそれだけ。
 竹村文哉(オダギリジョー)は84万円の借金があり、返すあてはまったくない。取り立て屋の福原愛一郎(三浦友和)から暴力的な取り立てを受けていた。
 ある日、竹村は福原からある提案を持ちかけられる。霞ヶ関まで散歩に付き合ってくれたら、100万円やるというのだ。実は福原は、誤って妻を殺害し、自首するために井の頭から桜田門の警視庁まで歩いて出頭したいと告白した。
 そうして二人の長い散歩が始まった。
 

 

 井の頭公園をスタートして、調布の飛行場、阿佐ヶ谷、中野、新宿。最短距離ではなく、根津や浅草(花屋敷)の方にまで足を延ばす不自然な遠回りをしているから、地図上の正確さは最初から無視するつもりだったのだろう。
 

 
 たとえば「愛玉子(オーギョーチイ)」。台湾デザートの店は根津で、中央線沿線からはおよそかけ離れている。
 
 三木聡作品でおなじみのメンバー岩松了、ふせえり、松重豊も登場するが、二人とは直接からまない、殺された福原の妻が勤務する会社の社員として登場する。つむじが臭いだの岸部一徳に街で会うといいことがあるだの、彼らの毒にも薬にもならないくだらない会話が面白いのはなぜだろうか。
 ちょっとすれ違う通行人も商店街の店員も、どこにでもいそうな普通の庶民なのに、三木聡の手にかかるとおかしな連中になってしまうのだ。
 
 一泊のために、昔福原が偽夫婦を演じた麻紀子(小泉今日子)の家に転がり込む。そこに麻紀子の姪、ふふみ(吉高由里子)が突然現れ、しばし模擬家族を演じるのだが、当然のようにこまごまとしたトラブルに襲われる。
 

 
 ふふみは意味不明の歌をうたったり、いきなりおかしな発言をしたり、風呂上がりに裸で居間を突っ切る。吉高ならではのはじけた演技はさすがだ。ただ、裸のシーンは吹き替え。『蛇にピアス』でオールヌードを披露する前でまだNGだったのだろう。
  
 街の看板や居酒屋の品書き、たわいのない台詞の中にさまざまな仕掛けがなされていて、ドラマ「時効警察」のファンを裏切らない。麻紀子が経営するバーの名前が「時効」だったりする。だからなんだと言われればそれまでだが、さまざまな仕掛けを見つけるのも楽しい。
 
 CS放送ではじめて観たとき、最初のうちは横目でなにげなくだったのが、いつのまにか引き込まれていた。カミさんも夕食の支度を忘れて見入ってしまい、その日は遅い晩餐になってしまった。
 それから再放送がなく、結局DVDを買ってしまったのである。

「登録商標」あれこれ

2014年11月27日 | 日記
 東京新聞のコラムに、新聞記者が注意を要する名詞のことが扱われていた。
 ご存知のように、ものの名前が商標として登録されると、他の商品に使用することはできなくなるし、新聞などの記事に用いられると、その商品の宣伝になってしまう。



 たとえば「バンドエイド」。だれもが普通名詞だと思っているだろうけれど、あの絆創膏はジョンソン・エンド・ジョンソンの商標である。一般の人が日常生活で使用する分には何の問題もないが、印刷物やマスメディアで他のメーカーの類似品にこの名前を使用することはできない。(新聞ではガーゼ付絆創膏というそうだ)
 メーカー側からすれば、普通名詞として巷で使われれば、そのネーミングは大成功だ。他の類似品で用が足りるとしても、薬屋で「バンドエイドをください」と言ってもらえるからだ。
 

 
 有名なのは「サインペン」。たいていの人がフェルトペンをサインペンと呼ぶ。しかしこれはぺんてるの登録商標である。
 

 


 それに、ポリバケツは積水科学、セロテープはニチバンの登録商標。いずれも普通名詞だと思われている名称だ。
 しかし、名前が広く一般化されてしまうと、商標として特定することが困難になり、普通名詞になってしまう例も多数ある。
 ホチキスもトランポリンも魔法瓶もかつては登録商標だったが、現在ではだれもが自由に使える。
 普通名詞としておおやけに使用できる名前と、商標登録されている名称の区別。編集者や校正マンは、このような知識も必要なのである。
 
 登録商標ではないが、田中角栄内閣のときに日中国交正常化が実現し、そのときから中華民国という名称はおおやけで使えなくなった。輸入品などにmade in Republic of China(中華民国製)とあった場合、今の日本では「台湾製」と表示しなければならない。
 中国という呼称は中華人民共和国(People's Republic of China)のみを差す。中国との国交を可能にするには、国際的に中国は一つであることを認めることが必要で、つまり台湾は中国の一部ということになる。中国に対するこうした扱いは、日本だけでなく、アメリカも同様だ。
 かつて、スーパーのチラシ製作の担当者がそれに気づかず、チラシ広告で中華民国製と表現してしまったために、中華人民共和国大使館から抗議が来たことがあった。
 国名表示の間違いは意外に多い。オーストリアとオーストラリア、アイスランドとアイルランドなど、よく混同される。知識の薄い担当者のせいで、販売促進部長はその度にそれぞれの大使館に頭を下げに行った。
 いっとき球団のオーナーでもあった大手スーパーの販売促進部での話だ。
 しかし、今の校正マンや編集者が、そんな初歩的な間違いをすることはめったにない……はずだ。
 

 
 ついでにもう一つ。
 今のようにカメラの主流がデジタルになる前、「使い捨てカメラ」というのがあった。その名前が環境保護の点で不適切ということから、「レンズ付フィルム」と呼ぶようになった。(フィルム付カメラではない、あくまでもフィルムなのだ)
 実際、「使い捨てカメラ」は「使い捨て」ではなかった。撮影済みのカメラは、現像所にまわされフィルムが引き抜かれた後、レンズもパッケージも、そのほとんどが再使用された。
 
 カメラだけでなく、さまざまなものが使い捨てにされたバブルが崩壊し、資源の再利用の声が高まるとともに、肌着や食器類など「使い捨て」を売りにする商品は次第に少なくなっていった。

1963年の映画「真白き富士の嶺」

2014年11月26日 | 映画


 リアルタイムのサユリストなのだ。彼女の方が半年ほど年上である。そのころはまだ、「アイドル」という言葉はなく、「少女スター」という呼ばれ方をしていた。日活映画は裕次郎や小林旭などの活劇ものが人気に翳りを見せ始め、吉永小百合、和泉雅子、浜田光夫、山内賢らの青春映画に路線を変更しはじめていた。日活映画全盛の時代であった。
 このころ、浦山桐郎監督が自らの名声とともに、「キューポラのある街」(1962年)で吉永小百合を、「非行少女」(1963年)で和泉雅子を押しも押されぬ大スターに押し上げた。二人ともすでに人気女優であったが、この2作品は、彼女たちにとっても代表作になった。
 
 森永健次郎監督の「真白き富士の嶺」は、すでにスターの座を獲得して日活の看板女優になった吉永小百合の映画としては、マイナーな部類に入るので、観たという人は熱心なサユリストだと思う。
 江ノ島のボート事故を歌った「真白き富士の嶺」という曲がバックに流れるが、物語はまったく異なる。
 
 この映画での吉永小百合は、まるでガラス細工のように華奢である。今にも粉々に壊れてしまいそうな、それでいて神秘的で輝くような美しさだ。彼女は白血病で、残された時間はもうほとんどない。
 梓(吉永)は小康を得て退院した。喜ぶ梓だったが、父修平(宮口精二)や姉の梢(芦川いづみ)の表情は暗かった。退院を前にして院長から「出来るだけいたわってあげてください」と、もうあまり先がないことを伝えられていたからだ。
 家族は梓のために、環境の良い逗子に引っ越してきていた。
 ある朝、梓は庭に水撒きをしていて、垣根の外を行く高校生に水をかけてしまった。振りむいた高校生に梓は胸に何かが入り込むのを感じた。
 高校生は逗子高校のヨット部員富田一夫(浜田光夫)であった。
 あるとき、姉の梢は梓にあてられた多くのラブレターを発見し驚いた。封筒にはM・Tのイニシャルがあった。そして、枕元に一冊の文庫本。
「あの子、こんな本を読んでいるのケッセルの『昼顔』よ」
 姉の梢は、妹の梓が恋愛に興味こそあれ、実際に交際する相手などまったく思い当たらない。そんな時、一夫に誘われてヨットで海に出た梓は、誤って海に落ちてしまった。それがもとで、病気を悪化するなど、梓はまったく気づいていなかった。
 それから数日後、梓のもとにM・Tから絶縁状が届いた。不治の病と知って交際を絶ちたいという。残酷だと怒る姉をよそに、梓は意外な告白をした。M・Tは仮空の人物だと言う。「私は思いきり恋をしたかった! 死にたくない!」梓は自らの気持ちをうち明けて慟哭した。
 梓は富田一夫とマフラーを交換して死んだ。一夫は梓のマフラーを首に巻き、激しい嵐の夜にヨットを海に出した。自分がヨットに誘いさえしなければと思いつめた末の行動だった。
 
 長編と長編のあいだに挟まった、読み切りの短編小説のような映画である。吉永小百合を出しておけば、とりあえず客が入るからと、手軽に作ったオールロケの低予算映画とおぼしき作品だが、僕にとってはなぜか強く印象に残っている。
 この映画を観終わった後、映画に出ていたのと同じ新潮文庫の『昼顔』を買って帰り、すぐに読んだのだが、高校生の自分にはよく理解できなかった。その本は今でも持っている。
 退院の翌朝、「早起きは三文の徳よ」と鏡に語りかけるシーンが、強く印象に残った。

公開誌上討論「南京大虐殺」

2014年11月24日 | 昭和史

 
 『週刊金曜日』は定期購読しているわけではなく、興味深い記事が掲載されている号のみ書店で買うことにしている。このところ3週間ばかり購読していなかったところ、『東京新聞』に毎週日曜日掲載されているコラム、「週刊誌を読む」に「週刊文春VS週刊金曜日』と題し、「新しい歴史教科書をつくる会」の創設者藤岡信勝氏と、『週刊金曜日』編集委員の本多勝一氏が、南京大虐殺についての論争を誌上で展開していると紹介されていた。
 急いで、最新号も含め3週分のバックナンバーを購入した。1回1200字以内で両者の意見が見開きで掲載されている。現在3信までが掲載されていて、以降も継続し5信まで予定されている。
 
 何か新しい情報があるのではないか、という期待もあって読んだが、それぞれが持論を展開するだけで、ことさら未知の情報はなかった。とくに藤岡氏の論理は、「南京事件まぼろし派」が以前から言い続けてきていて、都留文科大学の笠十九司教授等によってとうの昔に論破された内容のものだ。
 中国のいう犠牲者30万人説に信憑性がないから、大虐殺はなかったとか、写真に偽装が見つかったからすべて偽物だとか、まいどまいどいい加減にしろと言いたくなる。『朝日新聞』が間違えた、だから「従軍慰安婦」は存在しなかった、という屁理屈と同じだ。
 論理の蒸し返しに『金曜日』の記者が「うんざりだ」といったら藤岡氏は逆切れした。南京大虐殺は「国民党軍が外国向けに記者に作らせたプロパガンダ」にいたっては、「妄想もいい加減にしろ」と言いたくなる。南京大虐殺がまぎれもない事実であることは、前述の笠原教授のほか、洞富雄氏、藤原彰氏等多数の学者によって証明されている。
 ちなみに、公開討論を申し入れたのは、本多氏個人ではなく『週刊金曜日』の編集部である。誌面を読むかぎり、本多勝一氏こそ「うんざり」しているのだろう、ほとんど記者にしゃべらせて自分は相づちを打つだけ。だからこれは、藤原信勝VS週刊金曜日であると言った方が正しい。それも藤原氏は気に入らないようだ。
 
 今後どういう展開になるかわからないが、どうも闘う土俵が違う気がする。どこまで行っても平行線で、最後まで交わることはないだろう。ウサギを見て「あれはネズミだ」と言い張る人間に、ウサギであることを証明するのは難しい。
 しかし、このところ南京事件は話題に上らず、人々の記憶から薄れかけているので、論理をまとめるための材料としては大変役に立つ。

燐光群「8分間」を観る

2014年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム


 燐光群公演「8分間」をご招待いただいて、座・高円寺で観た。
 これまで観た燐光群の芝居はシリアスなものが多かったのだが、今回はコメディータッチで終盤は60~70年代の小劇団風の演出で懐かしかった。かつて劇団三十人会というのがあって、演出の故秋浜悟史は群衆処理の名手と言われていたが、坂手演出は一瞬それを思い出させてくれた。
 
 舞台は駅のホーム。架空の駅ということだが、モデルはたぶん、井の頭線の浜田山駅。坂手氏は東京都杉並区の住人。杉並区内で人気の駅、鈍行しか止まらない、隣の駅(たぶん西永福)が見える、上下線のあいだに造られた狭い島式ホーム。ラッシュ時を除いて昼間の時刻表ではほぼ8分間隔で電車が来る。それらから推測すると、そうなる。
 
 その8分のあいだに同じシチュエーションが繰り返し起きる、タイムスパイラル。
 一人の女性が電車とホームのあいだに足を挟まれて自力で抜くことができなくなっている。それを乗客たちが救出しようと力を合わせさまざまな工夫をする。その間に起きる痴漢さわぎや自殺未遂さわぎ。
 何度もくり返されながら、少しずつプロセスや結果が異なっている。
 はじめのうちはこれが延々と繰り返されるのかと思っていると、いつのまにかさまざまな人間関係ができていって、ハッピーエンドでまとめられていた。
 足を挟まれた女性も、痴漢を疑われる男も、また、それを写メする女子高生も、坂手作品らしい風刺とメタファになっているのだから目が離せない。
 大変面白かった。
 
 この劇団に所属する俳優たちは、それぞれ一定以上の演技力を持っているので、いつもまとまった芝居に仕上がっていて、はずれがない。しかし時々感じるのだが、登場人物が多い芝居では、飛び抜けて上手い俳優がいないために芯がぼやけているのだ。足を挟まれている女性とタイムスパオラルを最初に体験する男性などには、外部から呼んででもそれなりに実力のある俳優を使えば(劇団員の彼らが下手というわけではない、存在感の問題だ)かなりいいドラマになる気がする。
 実現できればの話だが、配役に気を使った映画やドラマにすれば、けっこうヒットするのではないだろうか。たとえば、足を挟まれる女性は中谷美紀、男性は松山ケンイチ、かな? 彩りに、写メする女子高校生はAKBの川栄李奈(けっこうはじける)あたりを使ったりして。
 

 
 先日、我が家で鮭パーティーをやったときに参加してくれたSさんが偶然招待券をもらっていて、同伴した。帰りに高円寺駅界隈の古本屋をめぐり、2冊ばかり購入した。戸村一作(とむら いっさく 1979年歿。成田空港建設反対運動のリーダー)の『闘いに生きる──三里塚闘争』はわずか100円。これは掘り出し物だった。もう一冊、Sさんが新谷行『アイヌ民族抵抗史』の三一新書版を見つけてくれて購入。彼はすでに文庫版を購入していた。
 
 そのあとは、沖縄料理の「抱瓶」で一杯。久しぶりの泡盛に帰りは千鳥足で帰宅した。
 

 
 奥武島の炙りトビイカ、香ばしくて歯ごたえあり、旨かった。

市川崑『黒い十人の女』

2014年11月22日 | 映画

 
 思い立って、録画しておいた古い映画を見た。1961年公開の白黒シネスコサイズ映画である。
 『黒い十人の黒木瞳』というオムニバスドラマがあったが、この映画のタイトルを借りたものだ。
 テレビ局プロデューサーの風松吉(船越英二)は妻(山本富士子)のほかに9人の愛人がいる。美男で優しい性格の松吉は、出会った女性を百発百中簡単に口説き落とす。雨の日にテレビ局の前の喫茶店まで濡れながら走っているところに、傘を差しかけられた女性とその日のうちにベッドインするという。そんな調子で数十人の女性と関係を持つうち、レギュラーの愛人はいつのまにか9人になっていた。つまり、妻を含めて10人の女性と関係を続けていたのである。
 そんな状態で波乱が起きないわけがない。
 愛人たちはおたがいの存在をそれとなく知っており、妻も夫の浮気を重々承知しているのだが、愛人たちはだれも松吉と別れられないでいる。
 性格的に気の小さい松吉は、愛人たちが自分を殺そうとしていると思い込み、よりによって妻に相談する。妻は9人の愛人たちを一か所に集め、それぞれの言い分を聞こうとする。
 松吉はどこから手に入れたのか実弾入りのピストルを妻に渡し、愛人たちが集まった場で自分を撃つふりをさせようとするのだが、なんと妻は、銃口をまともに松吉に向けるのだった。
 
 タイトルからはドロドロの愛憎劇を想像するが、コメディータッチのサスペンスあり、愛人同士の連帯があったり、現在でも十分通用するスリリングな面白い作品に仕上がっている。さすが市川崑。
 女優陣は実に豪華だ。妻の山本富士子は、当時の映画界ではトップクラスの美人女優。愛人たちをリードするのは、女優役の岸恵子。ご存知『君の名は』で氏家真知子を演じ、真智子巻で一世を風靡した。ほかに、まだ二十代で幼さを感じさせる中村玉緒をはじめ、岸田今日子、宮城まり子ら、人気女優をずらりと揃えている。山本富士子も岸恵子も今では80歳を超えているが、このころはまだアラサーであった。
 
 冒頭のタイトルバックを含め、斬新な映像で彼女たちの年令を考えなければあまり古さは感じない。秀逸の出来である。

『失楽園』というパラレルワールド

2014年11月21日 | テレビ番組


 渡辺淳一の大ヒット作『失楽園』のドラマ版がDVD解禁され、宝島社から発売された。CS放送の日テレプラスでも、24日から放送される予定だ。
 理由はわからないがこのドラマ、何度かDVD化が発表されては立ち消えになっていた。
 R指定のない地上波連ドラで、濃密なシーンをたっぷり含んでいれば、今の放送倫理規定にはそぐわないのかもしれない。R指定の後付は聞いたことがないから、放送も販売もどうすべきか判断に苦しんだのだろう。ただし、視聴者が限定されるCS放送であれば、法に触れない範囲で放送可能ということなのだ。
 過去のテレビドラマはヌードシーンやベッドシーンは当たり前で、ほとんど問題になったことはなかった。それがいつのまにか規制がきびしくなり、地上波の放送で女性のバスとトップさえ自粛するようになってしまった。写真集などを紹介するときに、司会者が一部を手で隠したり修正をかけたりするのはかえって不自然だと思うのだが。
 しかし、ドラマ版『失楽園』が、長くDVD化されなかった本当の理由はわからない。
 
 それにしても、現在のテレビ界の規制は異常だ。障害者を扱ったドラマも、かなり台詞や映像に注意して作らなければならないと聞く。それでも、「どうしてそんなことが」と思われるような当たり障りのない言葉がクレームの対象になったりするそうで、その度にプロデューサーやディレクターが始末書を書かされるそうだから、たまったものではないだろう。
 もっとも、障害者問題でクレームをつけてくる大半は、障害者本人ではなく健常者だというから、それもまたふしぎなことである。
 
 渡辺淳一という作家は、エロチシズムをテーマにしていながら、女性のファンが非常に多い。いや、この発言は差別的だ。エロスを好むのが男性ばかりと思うのは女性に対する偏見である。
 評判になった役所広司、黒木瞳主演の映画『失楽園』には、女性ファンが殺到したと聴く。
 

 
 で、映画の『失楽園』はずっと前に見たことがあって、噂ほどではないと感じた。売り物のベッドシーンは薄暗くてよく見えず口ほどでもないし、ストーリーに至っては上映時間に合わせるためにかなりはしょっていて、脚本が無理をしている印象だった。
 ドラマ版の『失楽園』はリアルタイムでは観ていない。今回DVDではじめて観た。放送当時、だれだったか女性評論家のような人物が「川島なお美の安い裸」などと評していたのは覚えている。
 それが先頃、ホームドラマチャンネルで2時間に再編集した特別版を見ることができた。これはただ単にドラマを短縮しただけでなく、イタリアロケなどのオリジナルシーンを多く含んでいるものだ。そこに出てくる川島なお美が、「安い裸」どころか超一級品であることに驚いた。雰囲気も演技(このドラマに関してだけだが)も観賞素材としての肉体も実に見事だ。人により好みはあるだろうが、客観的に観て黒木瞳を凌駕していると感じた。僕自身はどちらのファンでもない。
 そこで、これは一度ドラマ本編を見ておきたいと思っていたら、運良く発売されたというわけだ。しかも非常に安価。(そう言った意味では安い裸だった=冗談である)
 
 テレビドラマは、合計で約10時間ほどあり、詳細な人間関係や両方の家族内のさまざまな問題などがよく描かれている。2時間程度でおさめなければならない劇場映画では不可能だ。
 川島なお美演じる松原凛子の夫春彦(国広富之)は、ことあるごとに社会倫理や勤務する病院での立場を口にする。凛子の母親をはじめとした周囲の人間たちの口からは、「ふしだら」とか「汚らわしい」といった言葉が連発される。僕が最も嫌う人間たちだ。既存の常識や周囲の評判に振り回される人間は、軽蔑に値する。
 
 原作は読んでいないからわからないが、ドラマを観て感じることは、久木と凛子のやっていることが、「ふしだら」とか「汚らわしい」というののしり言葉で安易に非難すべきでないということだ。既婚者同士がそれぞれ別の男女と恋愛することは、今の社会では「不倫」と言われ、社会的に非難される。しかしそれでも、「不倫」をする男女は後を絶たない。いったいなぜなのか。
 それはただの遊びの場合もあるだろうし、本気の場合もあるだろう。理由もきっかけもさまざまであるに違いない。それを「不倫」という言葉で一括りにし、社会秩序から外れているとか、ふしだらなどという理由で非難するのは、いったい誰のため、何のためだろうか。
 
 人間は永遠に変わらない生き物ではない。当初はうまくいっていた関係が、時とともに変化してどうにも修復できない状態になる場合も当然ある。問題は、一方がそう感じていながらもう一方は現在の関係に固執している状況だ。『失楽園』での久木と凛子はまさにそれである。
 男女の関係は、両方が納得しなければうまくいかない。未婚の男女なら何の問題もないが、不幸なのは夫婦同士の片思いである。紙切れ一枚で法律で夫婦と定められると、愛情が冷めてしまっても容易に別れることができなくなる。無理に別れれば必ずといっていいほどしっぺ返しが来る。
 だれが決めたかわからない規則や社会常識がまかり通る世の中では、離婚は社会的立場を悪くする原因になるのだ。また、離婚した女性、とくに専業主婦は、離婚した瞬間から経済が成り立たなくなる。日本のような男性中心社会ではとくにそうだ。こうした理由で、愛情が冷めたにもかかわらず表面的には夫婦を演じている「仮面夫婦」がけっこう多いと聞く。
 長い人生を我慢し続けて生きなければならないとすると、それは男女ともに不幸なことではないだろうか。
 
『失楽園』はパラレルワールドである。最後は社会のしがらみを突破できずに死を選んでしまうのだが、二人は結局もとに戻ることはなかった。戻ることは不幸の巻き戻しでしかないからだ。だが、二人が生き続けるには、あまりにも世間の風当たりは冷たかったのだ。
 それでも、久木と凛子の二人をうらやましいと感じた男女は、決して少なくはなかったのではなかろうか。結婚外での恋愛の多くは、結局あきらめて別れることになり、やがてただの浮気で片付けられる。それが現実であり、パラレルワールドの第一層だ。そして第二層が久木と凛子の世界である。もしその上の第三層に二人が生きたなら、関わるすべての人も含めて新たな幸福を得ているのではないだろうか。
 第三層はあくまで自由であり、社会が取り決めた不合理な道徳や秩序に縛られることはない。そういう世界は全人類の意識が変化しないかぎり不可能なのかもしれない。
 パラレルワールドなるものが存在するのであればの話だ。
 
 以前、若松孝二監督が某女性国会議員から「あなたが作った不潔でふしだらな映画を、私は決して観ません」といわれ、「不潔でふしだらなことを、あなたは決してしないのですね」と切り返したというエピソードを聞いたことがある。真実かどうかは定かでないが、本当なら実に見事だ。

沖縄知事選の勝利をうけて

2014年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
◆「大勝」だが「圧勝」ではなかった
 16日投開票の沖縄県知事選挙で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移転に反対する、全那覇市長で新人の翁長雄志(おなが・たけし)氏が、移設推進派の現職、仲井真弘多(なかいま・ひろかず)氏ら3人を大差で破り、当選した。
 選挙前、早い時期には翁長氏がダブルスコアの圧勝で当選すると噂されていたが、選挙戦終盤になって仲井真氏が巻き返し、接戦になるかもしれないと巷では予想されていたものである。
 結果、翁長氏360.820票、仲井真氏261,076票(下地幹郎氏69,447、喜納昌吉氏7,821)。差は約10万票である。確かに大差ではあるが、圧勝であるかといえば微妙な数字だ。
 翁長氏が勝利することは疑いなかった。しかし、「国共合作」とまでいわれ、共産、社民、社会大衆党、さらに自民党を除名になった国会議員や、自主投票の公明党まで加えたオール沖縄の選挙戦でダブルスコアをとれなかったことは、今後の反基地運動の戦略を慎重に進めて行く必要がある。県民の三分の一強が基地推進派であると考えれば、この比率がわずかなきっかけで逆転することもあり得るからだ。
 この数字で、「民意は基地反対」と訴えるのは、戦術的には必要だが戦略的には慎重でなければならないと思うのだ。
 
沖縄の基地経済依存は過去の話
 本土には、「沖縄は基地がなくなったら立ち行かなくなる」といまだに信じている人がけっこう多い。確かに、1972年の返還期頃の沖縄経済は、約15パーセントを基地からの収益に依存していた。しかし、現在は観光収入を中心に経済発展し、基地の経済依存度はわずか5パーセントに過ぎない。さらに、沖縄にある米軍基地のすべてが返還され、その土地を有効活用すれば、基地からの収益の約6倍が得られると試算する学者もいる。
 基地をショッピングモールなどの観光施設に転換して成功した例が海外には数多く見られ、沖縄では、牛や豚などの酪農を拡大できる。
 すなわち、沖縄経済を締め付けているのは、在日米軍基地に他ならない。
 
◆在日米軍施設の74パーセントが沖縄に集中
 沖縄県の面積は、日本全土の0.6パーセントしかない。そこに在日米軍施設の74パーセントが集中している。
 本島南部の那覇空港から北部の「美ら海水族館」に向かう国道には、嘉手納基地を過ぎたあたりまでずっと基地のフェンスが続き、それを過ぎても視界から基地の施設が消えることはない。頭上には米軍の輸送機やヘリが爆音を発しながら飛び交う。
 たまに観光で訪れるならば、こうした異常な環境も一過性のものとしか感じないだろうが、それが365日の日常だとしたら、本土の人間は耐えられるだろうか。
 
◆本土の住民にとって、沖縄は人ごと
 だいぶ前のことだが、新宿の居酒屋で、若いサラリーマンたちのとんでもない会話を耳にしたことがある。
「横須賀(米軍基地)も横田(基地)も全部沖縄に持っていってさあ、沖縄はもう基地の島にしちゃえばいいんだよ」
「俺たちが遊びにいく場所だけ確保してもらってな、ハハハ」
 いっていい冗談と悪い冗談がある。殴り込みにいこうかと腰を浮かせたが、店に迷惑がかかるからと同席した友人に止められた。
 この温度差は、本土の人間が沖縄の人々を下に見ている、構造的差別があるから来るものだ。18日付の東京新聞は「こちら特報部」で県知事選挙の結果を受けて衆議院選挙でも基地問題を争点にすべきという特集が組まれていた。その最後のデスクメモに、次のような文章があった。
 
「こちら特報部」は、沖縄の基地問題を積極的に取り上げているものの、読者の反応はいまひとつだ。私たちの力不足もあるだろう。そこは猛省したい。だが、閣僚の不祥事などと比べると、やはりいまひとつなのだ。いささか意地悪く言えば、本土にとっては、どこまで行っても人ごとなのかもしれない。
 
◆沖縄は日本の縮図である
 しかし、見方を変えれば沖縄問題は人ごとでない。日本という国がアメリカとその傀儡である安倍政権によって、国民をないがしろにし、一部の人間だけが莫大な利益をもたらすような仕組みへと変えられていっている。
 たとえば、日本お税制は本来、米国とは違って所得税は累進課税方式である。高所得者に多く課税し、低所得者の課税額を提言している。しかし、消費税はこの仕組みが昨日しなくする。高所得者も低所得者も同じ比率で課税されるからだ。これは貧富の格差を拡大させることになる。
 集団的自衛権の行使は、アメリカに媚を売るため以外の何ものでもない。在日米軍基地だけでなく、全国の自衛隊駐屯地も前線基地になりかねない。つまり、日本全国総沖縄化である。
 そうしたことからも日本は、アメリカから構造的差別を受けていることがわかる。
 本土政府と沖縄の関係はまさに、アメリカと日本の関係である。
 大手マスコミは政府や大資本に牛耳られて、自由な意見が言えない状態になっている。都合の悪い記事が出れば即刻、広告出稿停止などという恫喝によって、新聞も電波媒体もたちまち経営が悪化するのだ。そのために国民は、最も知らなければならない現実が隠されたままなのだ。
 現在はインターネットという便利なものがあり、大手マスコミが報道しない地方新聞の記事やさまざまな活動をしている人々の情報を得ることができる。そうしたツールを活用しながら、真実を見極めていきたいと思う。
 沖縄のニュースは、
 「沖縄タイムス」
 http://www.okinawatimes.co.jp/ 
 「琉球新報」
 http://ryukyushimpo.jp/ 
 で閲覧できる。

沖縄県知事に翁長氏

2014年11月17日 | ニュース

 
 16日投開票で、普天間飛行場の辺野古移転に反対する翁長雄志氏の当選が確実になった(17日午前1時現在)。
 選挙前の予想で、翁長氏が圧勝するという予想が高かったが、沖縄の選挙に関しては、「やってみるまでわからない」と僕は言い続けてきた。
 大勢が翁長氏であるだけに、沖縄県民は他の候補者を支持しているとは言いにくい。まして裏切り者の仲井眞を指示しているなど、村八分になりかねないから言えないだろう。だから、出口調査や街頭アンケートは当てにできないからだ。
 
 でも、それは杞憂だった。確定がまだ出ていないから圧勝かどうかわからないが、しかし、この選挙は圧勝でなければならない。僅差では辺野古移設推進派が住民の半数近くいることになる。それでは政府に対する圧力が弱い。
 
 さて、次はたぶん総選挙だが、安倍首相はまだ解散とは言っていない。総選挙を実施すれば、自民党は勝つだろうけれど(現在の状況で自民党に投票するやつの気が知れないが)。確実に議席は減る。沖縄知事選の結果次第で、総選挙の闘い方が違ってくることは間違いないし、解散総選挙も実際どうなるかわからない。
 
 ところで選挙前、僕の周りの多くの人が、保守である翁長氏を支持することは国共合作だと言っていた。中国の抗日戦線における国共合作をたとえてのことだ。しかし、中国の国共合作とはぜんぜん違うと思う。中国の国共合作は、日本という明確な敵があった。しかし、沖縄で国共合作を行うならば、その敵は日本政府であり、日本政府を打倒した結果は琉球独立だと思う(これについては意見が分かれるが)。現時点では、「国共合作」の目的が辺野古移設問題であって、その根源である日米関係について翁長氏がどう考えているのか、日本政府打倒を目標としないかぎりは本当の意味での国共合作ではない。
 それを達成したうえではじめて、沖縄・琉球をどこに向かわせるか保守と革新の闘いができる。
 何が言いたいのかと言えば、辺野古移設阻止については考えが一致しているが、翁長氏は保守である。沖縄県民が継続して監視し続ける必要があるということだ。

吉永小百合プロディユース『ふしぎな岬の物語』

2014年11月15日 | 映画

 
 先月公開されてからなかなか時間がとれなくて、ようやく観に行った。
 1か月を過ぎるとさすがに客席はガラガラだった。
 吉永さんがプロデュースした映画がどんな作品に仕上がっているのか、多いに興味があった。
 原作を読んでいないのでわからないが、観た直後の印象は『カモメ食堂』のような部類に属すると感じた。
 
 柏木悦子(吉永小百合)は千葉県の房総半島にある岬で、喫茶店「岬カフェ」を一人で営んでいる。物語は、その喫茶店に訪れる人々によって引き起こされる、さまざまな出来事によって展開していく。
 すぐ近くのバラックには、問題児の甥、柏木浩二(阿部寛)が住んでいた。彼は何でも屋を営み、頼まれたことはプロレスラーの代理までやる男だが、悦子を守ることが自分の使命だと信じている。悦子に想いを寄せる不動産屋のタニさん(笑福亭鶴瓶)、漁師の竜崎徳三郎(笹野高史)は末期がん、徳三郎の娘で出戻りの竜崎みどり(竹内結子)等々、さまざまな人間たちが出入りし、事件を引き起こす。
 
 悦子は毎朝、海に向かって「ふしぎな時間」をすごしている。それは亡くなった夫と対話するためだ。岬カフェ壁には画家であった夫の遺作「虹」が飾られてあり、悦子は死んだ夫をいつまでも手放せないでいた。そのためなかなか前に進めず、だれもがお似合いと認め、甥の浩二が提灯持ちまでした不動産会社に勤めるタニさんのプロポーズを受けることができない。
 タニさんは、会社から大阪への転勤を命じられ、これが最後のチャンスと大阪に一緒に行ってほしいと伝えようとするのだが。
 
 ある日、陶芸家を名乗る男(井浦新)が幼い娘に導かれてやってくる。娘はふしぎな感覚を持っていて、喫茶店の壁に虹の絵があるはずだから観に行きたいと、父親をともなってやって来たのだ。
 その親子が二度目に現れたとき、娘は幻想の中で会ったことのない悦子の夫が、絵を返してほしいと言っていると伝える。夫の写真を見せて間違いないことを確認した悦子は、親子に絵を託す。
 もう、自分にしばられるなという夫のメッセージだと、悦子は気づく。
 
 心のよりどころであった夫への想いを手放し、呆然とていると、厨房の火がそばの布巾に燃え移り、岬カフェは全焼してしまう。
 何もかも失い、ひとりぼっちになった悦子は絶望のために目標を見失うが、浩二に慰められ、自分は一人ではないと気づく。そして近所の人々の助けを得、喫茶店を再建して新しい道を歩み始める。
 
 ドラマはごく日常的でたいして刺激的な出来事はない。唯一、阿部寛のコミカルな演技が退屈になりがちなこの映画の救いになっている。
 村の結婚式の場面と、岬カフェ再建のシーンでは、ブラザース5という超豪華なバンドが登場する。杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山巌、因幡晃。花を添えたつもりなのだろうが、はたして必要だったのだろうか。浮き上がっていて必要ないキャストだと思う。
 超豪華な俳優人も、吉永小百合プロデュースということで集まったのだろうが、それぞれのキャラが立ち過ぎて、まるで4番バッターばかり集めたプロ野球のオールスターゲームのようだ。
 小さな出来事をオムニバス形式でつなぎ、悦子の心の変化によって全体の進行をつかさどっているのだが、はっきりしたテーマが見えてこず、メッセージ性もない。「吉永小百合プロデュース」という話題性が勝ち過ぎた映画だ。期待していただけに、ちょっと残念。

泥憲和『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!』

2014年11月13日 | 本と雑誌

 
 かもがわ出版の新刊、『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!』が届けられ、さっそく読んだ。
 著者の泥憲和氏は元自衛官である。反戦自衛官と呼ばれる人は、有名な小西誠さんをはじめとして、以降何人も現れているが、小西さん以外出版物は少ない。それに、日本をめぐる防衛環境は、小西さんの時代とはまったく違っている。集団的自衛権の行使が閣議決定され、当時と比較にならないくらい戦争の足音が近づいていることもその一つだ。
 そう言った意味で、近頃の自衛隊員たちの本音(に近い)、そして自衛隊員という立場から集団的自衛権をどう見ているのか、大変興味深い本である。
 
 著者が語っていることは非常に明解だ。彼の考え方のエッセンスが冒頭のプロローグにある。
 
 神戸、三宮の駅前で数人の青年たちが集団的自衛権に抗議していた。著者はネットでそれを知り、青年たちの行動を手伝うために神戸までやってきていた。
 彼らは道行く人々にビラを配り、マイクで懸命に訴えているのだが、言葉が難しく理解しにくい。そこで彼らからマイクを取り上げ、思うままにしゃべった言葉が、この本のプロローグである。
 
 尖閣問題とか北朝鮮のミサイルとかは自衛隊がしっかり守ります。
 しかし、集団的自衛権とは日本を守る話ではないんです。売られたケンカに正当防衛で対抗するのではなく、売られてもいない他人のケンカにこっちから飛び込んでいこうというんです。
 自衛隊の仕事は日本を守ることで、身も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事ではありません。
 安倍首相は、外国で戦争が起きて避難してくる日本人を乗せたアメリカの船を守らなければならないのに、今はできないからおかしいと言いました。まったくのデタラメです。日本人を米軍が守って避難させるなんてことは絶対にありません。(抜粋要約)

 
 安倍首相は、集団的自衛権を行使すると言っても、基本的に後方支援であり、攻撃を受けたら撤退するので戦闘行為には至らないと言っているが、元自衛隊員として戦略的に考えれば、それはまったく机上の空論であって、現実的にそれはできないという。相手国からは補給も戦闘行為と見なされる。補給ができなければ前線での戦闘はできないわけだから、敵は防御の手薄な補強部隊を真っ先に狙う。
 元自衛隊員の著者は、自分ならそうすると。
 しかも、反撃してくる補給部隊と攻撃を受けたら撤退する部隊では、どちらが攻撃しやすいかと言えば、それは後者だとも。
 
 また安倍首相は、尖閣列島や北朝鮮をめぐって戦争になったとき、米軍に支援してもらうために、集団的自衛権を行使して恩を売っておきたいらしいが、それは確証できないことであるという。
 アメリカはあくまで「国益」で動く。尖閣列島を守ることが国益にかなうなら支援するだろうけれど、かえって米中関係の悪化を招くようなら、日本側の自己責任として手を出さないだろう。
 
 本書では、安倍首相が国会で述べた数々の発言を検証し、集団的自衛権を行使することを目的とした詭弁を、ことごとく論破する。
 集団的自衛権の行使が、平和を守るどころかかえって日本を危険に陥れることを、ものの見事に戦術的・戦略的に解説している。
 現場の自衛官たちは、領海侵犯してくる外国船と、武力衝突しないように万全の注意を払っているという。それなのに、安倍首相はケンカ腰の外交を行っている。
 著者は、某映画の名言を使ってこう言い放った。

「戦争は国会で起きているんじゃない、現場で起きているんだ」
 
 各章の終りに、「アベジョークズ」として、安倍首相のデタラメ発言集が掲載されている。国民をだますために、いかにいい加減な発言を繰り返しているかがわかる。

『アジア記者クラブ通信』267

2014年11月12日 | 国際・政治

 
 今月の『アジア記者クラブ通信』は去る9月25日に行われた定例会のレポートに注目したい。
 講師は元NHKのディレクターで、現在「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館(wam)」館長を務める池田恵理子氏。
 朝日新聞が吉田清治氏の証言記事を撤回したことから、右派メディアによる猛烈な朝日新聞攻撃が行われている。度々このブログでも語っているが、「従軍『慰安婦』問題」と「南京大虐殺」そして沖縄の「集団自決」は右派が神経を尖らせる三大事件である。過去の日本軍による戦争を正当化し、日本を戦争のできる国に導くために、これらの出来事を歴史から抹殺しなければならないからだ。
 まるで朝日新聞が「従軍慰安婦」を捏造したかのように語られているが、記事が掲載される以前から、旧日本軍が侵攻する各地で女性たちを集め、慰安所を設置していたことは周知の事実だったことは、実証されている。
 当時の流行作家石川達三や火野葦平等が従軍作家として軍に帯同し、慰安所や「慰安婦」を取材した事実などを含め、仮に吉田証言の確認がとれていなくても、歴史的な事実は変わらないことを、わかりやすく述べている。
 
 ちなみに、産經新聞や週刊文春、週刊新潮などに掲載された右派論客の記事こそが歴史を歪曲した捏造であることの大量のの資料が、僕の手元にもある。国際的にも旧日本軍の戦争犯罪は事実として認知されており、日本政府の誠意ある対応が求められている。
 
 このほか、本号の内容は以下の通り。
 
 
 
【11月・12月定例会】
 合併号発行の関係で、2か月分同時告知である。
 
11月定例会
香港情勢を討議するシンポジウム
民主化運動と「一国二制度」の現状を検証する

パネラー/倉田徹さん(立教大学准教授)
     倉田明子さん(立教大学非常勤講師)
     和仁廉夫さん(ジャーナリスト)
11月21日(金) 18時30分~21時
明治大学リバティタワー11階(1116教室)

■12月定例会
被爆70年 日米同盟を見つめ直す
「核の傘」への執着とフクシマ

ゲスト/大田昌克さん(共同通信編集委員)
12月18日(木) 18時45分~21時
明治大学リバティタワー8階(1083教室)
 
◆参加費/ビジター1500円 
     会員・学生・年金生活者1000円
     予約不要
◆主催/明治大学軍縮平和研究所 アジア記者クラブ

詳細は http://apc.cup.com
問合せはE-mailで apc@cup.com

佐々涼子『紙つなげ! 彼らが本の紙を造ってる』

2014年11月10日 | 本と雑誌

 東日本大震災で壊滅的な被害を被った日本製紙石巻工場の復興ストーリーである。
 実は恥ずかしながら、書籍用紙の大半をここで作っていることを、この本を読むまで知らなかった。
 
 震災の直後、取引先の出版社が、紙の供給が止まって予定どおり出版できないかもしれないと言っていた。また、印刷会社の営業が、石巻がやられたから困っていると伝えてきたことがある。
 印刷用紙は使用目的によってさまざまだ。チラシなどの紙と書籍用紙が異なるのは当然で、書籍に使われる紙であっても対象とする読者や原稿内容、さらには発効部数や予算等によって異なる。
 だが、自分が手がけている本は少部数の本が多いので、思いのほか順調に発行されていた。それはたぶん、石巻工場で作っている紙の多くが、大部数の文庫本、漫画本用と雑誌用が主流で、単行本に使われる紙はベストセラーが予想される大部数印刷のためだったからだろう。
 この本の主役である8号抄紙機は必要に応じてさまざまな書籍用紙を製造し、発行前からベストセラーが予想された村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にも使われたという。
 つまり、大部数で発行する大手出版社のための用紙ということだ。たとえば、人気漫画の『ワンピース』などは、初版250万部(推定)と聞いたことがあり、印刷製本は何社かにわけて印刷されるが、紙だけはわけることができない。なぜなら、同じ製紙会社であっても工場が違ったり機械が違えば同じ紙にならないからだ。購入する書店によって厚さや手触りが異なってしまい、商品としては欠陥品になる。(同じ大日本製紙の工場でも、富士工場で石巻工場と同じ紙を作ることはできないという)
 
 感動的な物語に水をさすつもりはないが、石巻工場の8号抄紙機で作られるオペラクリームという紙は、個人的にはあまり好きではない。『多崎つくる……』をあらためて開いてみると、腰がなさすぎて頼りない。本が安っぽく感じる。
 ここに紹介する本『紙つなげ……』に使われている用紙は『多崎つくる……』よりもいくぶん斤量が上で厚みがある分腰の強さを感じるのだが、それでも共通して、なんとなく湿ったようなヘナヘナした感じがする。
 
 しかし、腰の弱いのには意図があるそうだ。子どもが柔らかな手でページを繰っても手を切らない。そして、ページ数が少なくても本に厚み(専門用語で「ツカ」という)が出て背表紙がきちんとデザインでき、かつ軽いということだそうだ。
 
 余談だが、僕が好んで指定するのは北越紀州製紙のクリームキンマリ。多くの専門書などに使われていて、高級感のある紙だ。だがいくぶん高いので、この出版不況ではなかなか使わせてもらえない。
 
 本の多くは初版だけで、再版されることはめったにない。そうした中にも何年にもわたって重版を重ね続ける、ロングセラーと呼ばれる本がある。そんな場合、継続して安定した供給が必要で、どうしても大手製紙会社の紙になる。
 だが、僕が作っているような少部数の本のための用紙の供給には、あまり影響がなかった。もちろん、各製紙会社が努力してくれたおかげだ。
 
 以上のように、大変だったのは漫画、文庫、雑誌の出版社だ。言ってみれば、大手出版社と大手製紙会社の問題と言えなくもない。
 
 大日本製紙石巻工場では、従業員の犠牲者は一人も出なかったそうだ。それはすごいことである。中には家族を失った従業員もいて、本心は紙どころではなかっただろう。それにも関わらず、日本の出版文化を終わらせないために一丸となり、不眠不休で不可能に近い復興をやり遂げたのだ。
 震災直後、休刊になった雑誌や発行が延期された漫画本、文庫がいくつもあった。その状態を長引かせれば、日本の出版は終わってしまう、彼らはそう考えた。
 
 大日本製紙石巻工場の主力は、広告などの一般紙を作る主力機「N6マシン」で、1台で小さな製紙会社の全生産量に匹敵する。設備投資費が630億円というから、東京スカイツリーの建設費650億円に近い額だ。
 書籍用紙を作る「8号抄紙機」も二百数十メートルある巨大な機械だが、稼働してすでに40年が経ち、責任者の佐藤憲昭は、すぐにすねて調子が悪くなるこの機械を「姫」と呼んでご機嫌を取りながら稼働させている。
 
 津波が襲った直後の石巻工場は瓦礫の山で、製紙機械も水に浸かってしまった。当初は復興は不可能で、工場は閉鎖するとまで言われていた。しかし、出版社からの要望に加え、「この工場が死んだら、日本の出版は終わる」という従業員たちの気概が、わずか6か月で「8号抄紙機」の復活を成し遂げる。
 
 このドキュメントは、テレビ東京でドラマ化され、昨日(9日)放送された。わずか50分枠で、内容はひじょうに感動的に作られてはいるものの、テレビ東京らしい会社寄りの作品で、家族や周囲の人間の描写が薄い。目立った女優は佐藤憲昭(寺脇康文)の妻(藤田朋子)だけで、他の従業員の家族は登場しない。
 工場が復興するにあたっては、家族を失った従業員の心のゆらぎや、家族の支えなどがもっと詳細に描かれてよいはずなのだが、50分枠にまとめたのはいささか乱暴だ。
 
 長年出版に携わっていながら、紙のことは二の次になっていて、本を読んで初めて知ったことがたくさんあった。電子出版よりも紙の本だなどと言っておきながら、何たる不調法。反省する。