monologue
夜明けに向けて
 

命日  




今日9月30日は父方の祖父、山下孫吉の命日。
孫吉は1927年(昭和2年)9月30日に57歳で逝去した。
わたしは滋賀県伊香郡西浅井山門(やまかど)の山下孫吉と山下いとの四男幹雄の長男で孫吉の孫に任(あたる)ので孫吉の才能を受け継いだ。
その年、近江(おうみ)国西浅井(にしあざい)の夏は暑かった。それは、いとの十五の夏だった。近郷で盆踊りがあると聞くと仲間と浮き浮き気分で浴衣姿で出かけた。みんなで屋台巡りを楽しんでいると、のど自慢の若者たちが櫓の上に設(しつらえ)られた舞台に上り次から次へと民謡を披露していた。いとは仲良しと櫓の周りを踊りながら廻った。祭りがたけなわに差し掛かる頃、孫吉という若者が舞台に上って三味線を弾きながら江州(ごうしゅう)音頭を歌い出した。それはそれまでの若者の歌声と全く違う圧倒的な歌声だった。いとはまるで自分のためにだけ歌ってくれているようで魂が震えるような気がして聴き惚れた。櫓を見上げると孫吉が手招きしている。いとはドキドキして自分のことを知っているのかと不審に思いながらもじもじしていると仲間が櫓に上れと押し出した。いとは押されるままに櫓に上っていった。舞台まで昇ると名前を訊かれて「いと」と応えた。孫吉は手を取り「やっと出会えたね、いとちゃん、」という。いとも、なんだかやっと会えたような気がて「うん」と応えた。「さ、その太鼓叩いてごらん」といわれて日頃仲間と遊びで稽古している太鼓のバチを持つと気持ちが落ち着いた。孫吉はいとの太鼓に合わせて三味線を弾きながら歌い始めた。「江州音頭」といっても主人公が旅する各地の民謡を採り入れてある。「大漁唄い込み」では、いとは「エンヤトット、エンヤトット」と掛け声の部分をまわりの人とともに歌った。盆踊りは佳境に入り仲間は楽しく踊り続けている。花笠音頭を歌った後、孫吉は「みんな、聞いてくれ、おれ、この娘(こ)と一緒になる。」と宣言した。仲間たちは跳び上がって喜んでいた。いとも突然のことにびっくりしたけれどうれしかった。「うち、これからこの人と一緒に生きてゆくのや、そうやったんや。」と口の中で呟いた。孫吉は若い頃、日本一の唄い手を目指して歌と三味線の修行に諸国を巡った。山ごもりして声出しの稽古したり瀧に向かって吠えて声を鍛えた。故郷西浅井(にしあざい)山門(やまかど)に帰った頃にはもう三十五になっていたので十五歳のいととは二十歳の開きがあった。ふらふらと腰の定まらない遊び人と見られていた孫吉がやっと落ち着く気になったかと家族は喜んだ。いとは長い間なにかが足らないような15年間を生きてきてこれでやっと探し続けた最後のピースがはまるような気がした。親兄妹親戚に反対する者もなく質素な婚礼が執り行われたが思えば出会いから結婚までなにもかも仕組まれていたようだった。ふたりは10人の子供を設け末っ子の山下幹雄を1923大正十二年三月二十一日に出産した。それは孫吉53歳、いと33歳の時でいわゆる恥かきっ子であった。
そしていとが37歳の年、孫吉は1927年(昭和二年)九月三十日五十七才の秋祭りの日、乞われて上った櫓の上の舞台で踊りながら歌い上げているうちに気分が高揚して足を踏み外し櫓から落下して首の骨が折れて亡くなってしまった。孫吉さん今日は夕食に赤飯を炊いて一緒に食べましょう。合掌…。
fumio

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わたしの最も親しかったケイオン仲間川井鶏造(ケーゾー)が手紙で、カリフォルニアにやってくるにあたってなにかおみやげを持っていきたいけれどなにがいい?と尋ねる。なにがいいか考えた結果アメリカでは手に入らないものをと思って1983年当時、日本で発売されたばかりの「 YAMAHA MUSIC COMPUTERヤマハミュージック・コンピューター 「CX5」定価59,800円を頼んだ。アメリカでは発売されていないので興味があったけれどわたしの手にはとても入らなかった。久しぶりに会ったケーゾーから直接「CX5」の箱を手渡された時は本当にありがたくうれしかった。今にして思えばそれがわたしにとって大きなモニュメントだった。コンピューターの勉強になってまだDTM(デスクトップミュージック)ということばもない時代だったけれど「CX5」はその後のわたしの音楽作りの中心機器として大活躍することになる。水面に書いた物語シリーズの多くの曲はこのコンピューターに音源をつないで作ったものである。感謝。
ケーゾーとは日本でも縁があって近畿放送テレビ「山崎弘士のお昼は天国」に呼ばれて出演した時もケーゾーを途中で拾ってスタジオに車で行ったのだった。ケーゾーはスタジオでわたしが歌う姿を見ていてくれた。そして番組が終わるとテレビ放送を録画しておいたからとVHSビデオカセットテープを渡してくれたのだった。ずいぶんあれこれ世話になった。感謝…。
fumio

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「ウエザーリポート ライヴ・アンダー・ザ・スカイ'83」」に超人気天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスを見に来たわたしのケイオン仲間、川井鶏造(ケーゾー)は高校生時代、京都市立桃山高校の軽音(ケイオン)部のソウルファンクバンド「ブルー・マウンテン・ブルース・バンド」のメンバーとしてベースを弾いていた。かれ自身は他の全日性の普通高校の生徒だったが桃山高校定時制の授業が6時に終わってクラブ活動が始まる時間を見計らって毎日ケイオンクラブが練習するクラスにやってきた。わたしも桃山高校の生徒ではなくすでに社会人だったが「ブルー・マウンテン・ブルース・バンド」のメンバーたちと洋楽ライブ喫茶店で知り合ってケイオンクラブの練習に誘われて参加することにした。それで有名な曲よりリアルリアルラヴなどオリジナルナンバーを作って「ブルー・マウンテン・ブルース・バンド」のメンバーたちと練習するために毎日わたしも練習時間に桃山高校に定時制の生徒のふりをして自転車で通った。ケーゾーは一緒に練習して親しくなるとわたしの家によくやってきてそのたびに餃子を焼いて一緒に食べるようになった。それからかれは真剣にむづかしいジャズコードプログレッションなどを書物で勉強してワタナベプロでプロのベーシストになったのだった。それでわたしが生活しているカリフォルニアへ相棒ドラムプレーヤーと一緒にジャズフェスを見に来たのだ。カリフォルニアでもやっぱりわたしは日本のようにかれに餃子を焼いて一緒に食べたのだった。それがお互いにわかる一番のもてなしだった。
fumio

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jaco  


かつてジャコパストリアスという天才ベースプレーヤーがいた。かれのベースの奏法がジャズ界の噂になってすごい人気になった頃「ウエザーリポート ライヴ・アンダー・ザ・スカイ'83」」というカリフォルニアで開かれるジャズのフェスティバルにジャコが出演するというのでそのパフォーマンスを現地で見るために桃山高ケイオン仲間のベース弾き川井鶏造(ケーゾー)が1983年に日本からやってきたことがある。しかしそのジャコ・パストリアスは「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店で警備員リュック・ヘイヴァンに投げ飛ばされ脳挫傷による意識不明の植物状態となって親族の決定により人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、35才の若さでこの世を去って伝説と化してしまったのである。ジャコの命日である9月21日には今もかれの死を悼んでかれジャコに関する記事にアクセスする人々が多い。
fumio

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水面に書いた物語プロジェクトの一曲
しあわせになれる 
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<しあわせになれる>
                詞、曲、山下富美雄

1.  look, あの日の空 look 見あげていた
    ふたつの夢を結ぶ 虹がうすれたの

    say ただひとこと say 口にできず
    ふたりの小指つなぐ 糸がほつれたの

    若さとひきかえに 見つけたしあわせを
    護りもできずになぜになぜになぜに
    生きてゆけるの ohhh

2.  try ぼくとの日々 try 忘れ去れば
     いつかはきみもきっと しあわせになれる
     しあわせになれる

     いのちを削っても 誓ったこの愛に
     さよなら告げる日 なぜになぜになぜに
     やってきたのかunnn

     shine 涙の粒 shine 風に散れば
     いつかは きみもきっと しあわせになれる

     しあわせになれる しあわせになれる
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fumio

 

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わたしが出場したNBCテレビのヒット番組、「ゴングショー」のプロデユーサー兼人気ホストだったチャックバリスがウイキペディアを検索すると2017年3月21日に87才で亡くなっていた。デートゲーム、新婚さんショー、ゴングショーなど視聴者参加の数々のヒット番組を企画してすごく楽しいキャラクターで視聴者にも出演者にも親しまれていた。感謝と合掌…。
fumio

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その頃、米国NBCテレビの人気バラエテイ番組「ゴングショー」は新人芸能人の登竜門として人気で運のいい出場者はレコードデビューしてビルボードhot100に入ったりしていた。歌、ダンス、ジョーク漫談など審査員の前で様々な芸を披露して競う。パフォーマンスが良くないと途中で判断されるとその時点でゴングを鳴らされて打ち切られる。その時の出場者の愕然とする反応がなんとも面白くて人気があったのだ。最後までゴングが鳴らされないと4人の審査員たちがおもむろに点数札を上げてその点数の合計で優勝者が決まる。わたしの通ったLA HIGH(ロサンジェルス高校)英語教育プログラムの同級生たちはみんなゴングショーのファンで、フミオも出演しろ、と勧める。わたしがテレビでゴングを鳴らされてがっかりするところを見たかったのかも。わたしが応募した日のサンセット通りのNBCのオーディション会場にはスターを夢見る夥しい応募者がやってきて控え室はごった返して殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りの稽古していた。そのオーデイションの空気は神経質でピリピリしていた。集まったシンガー達はさすがにみんな感心するほど歌がうまかった。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて師と仰ぐレイ・チャールズのジョージア・オン・マイ・マインドを歌った。第1次選考は通って数日後、第2次選考に喚ばれて行くと今度は人が少なく、歌ってみせるとキーボード奏者が音合わせしてどういうふうにギターを弾くかとかオーケストラのキーの打ち合わせなどをしてOKが出て誓約書を渡された。本番の時、オーディションと同じ服装をして出ることなど、こまごまとあってバラエテイなのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。本番で「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌う時「フミオ・フロム・トーキョー」と紹介されて、京都出身なので「キョートなのに」と思った。日本といえばトーキョーと言わなければ雰囲気が出ないらしかった。
歌っている途中、司会も兼ねていた名プロデューサー、Chuck Barris(チャック・バリス)が女性と踊り、最後までゴングは鳴らされなかった。点数は審査員全員8点の札を上げて「ナイスバラード」というコメントだった。言葉の訛りで途中で打ち切られなくてホッとした。
fumio


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わたしはしばらくして私立なので授業料が高いアソシエイテッドテクニカルカレッジから政府の方針で授業料をほとんどかからなくするために高校の教室を利用するLA HGH(ロサンジェルス・ハイスクール)の外国人英語学習プログラムへ転校した。なんと半年50セントという格安授業料だった。その年その年で優先的に受け入れる国が変わりその年はイランのパーレビ政権と仲が良かったのでイラン人留学生が最多だった。国境が接しているメキシコ移民の若者もかなりいてみんなで冗談を言い合っていた。わたしを見ると近づいて来てわからないと思って「yo ジョ・soyソイ・locoロコ」と言えと迫る。その時はなんのことかわからなかったけれどあとでロコはスペイン語でクレージーということがわかった。「わたしは狂っています」ということらしかった。ろくでもないことを言わせてみんなではやそうとしているようだった。毎日、そんな他愛のない冗談でわいわいがやがやと過ごしていた。わたしが英語でなにかしゃべるとジャパニーズアクセント(日本訛り)といってバカにする。それなら当時みんなが見ていたNBC放送の人気テレビ「ゴングショー」に出演して英語の歌を歌ってみようと思った。訛りがひどければオーディションで落とされるはず。
fumio

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あなたにもこの鐘の音が聞こえるだろうか。夜明けの鐘が鳴る
fumio

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わたしが渡米した1976年のアソシエイテッド・テクニカル・カレッジのスピークイージーランゲージセンターでわたしはほとんど英語が話せない生徒を集めた最低のクラス、Cクラスに入っていたが突然、クリスマスパーテイでのライヴ演奏を依頼されて、まず歌詞を見なくてもギターを抱えて弾き語りできるレパートリー「思い出のグリーングラス」「マイウエイ」「プラウドメアリー」「ウーマンウーマン」などを演奏してからそれではとばかりに当時のヒットパレードの曲の演奏に移った。ウオリックスミュージックシテイ楽器店で店員の目を盗んで譜面から歌詞を書き写した
6位のスタンド・トール」を感極まって泣きそうになるのをこらえながら吼えるように歌ってそれから気分を落ち着けてしみじみと9位のSORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORDを心を込めて歌った。それですこし疲れたと感じて一息入れていると会場の若い女性教師たちが不満そうにしている。みんなが1位の曲を聴きたがっているのはわかっている。けれど大ヒット中のTONIGHT’S THE NIGHT はギター弾きが女性を誘惑しようとしている歌で教育上あまりよろしくないのでそんな歌をパーテイとはいえ学校という教育施設で歌っていいものかと危惧してすこしひるんだ。それでもみんなが望んでいることだからまあいいかと心を決めて「ステイ・アウエイ・フロム・マイ・ウインドウ」と歌いだすと会場が待っていましたとばかりにどっとどよめいた。だれもが知っているので一気に盛り上がる。大喜びで身体をゆすり手拍子が始まり、「トウナイツ・ザ・ナイト」とみんなでコーラスして大騒ぎになった。普段真面目そうに見えた女教師たちが日ごろの仮面を脱いで大はしゃぎしていた。歌を聴いていているばかりでは物足りず自分たちも弾けたかったのだろう。
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DECEMBER 18, 1976
1位TONIGHT’S THE NIGHT Rod Stewart
2位YOU MAKE ME FEEL LIKE DANCING  Leo Sayer
3位THE RUBBERBAND MAN Spinners
4位YOU DON’T HAVE TO BE A STAR Marilyn McCoo & Billy Davis, Jr.
5位LOVE SO RIGHT Bee Gees
6位STAND TALL Burton Cummings
7位MUSKRAT LOVE Captain & Tennille
8位AFTER THE LOVIN’ Engelbert Humperdinck
9位SORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORD Elton John
10位NIGHTS ARE FOREVER WITHOUT YOU England Dan & John Ford Coley
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fumio


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今日はゴーマン美智子(Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子)さんの命日。
2016年9月19日に80歳でカナダで亡くなっている。ボストンマラソン、ニューヨークシティマラソンで2回ずつ優勝してその活躍が「走れ、ミキ」という本やドラマになって現在の女性アスリートブームの草分けになった。わたしはかの女が羅府第二学園という日本語学校で先生をしている時に息子がお世話になっていたのでお会いした。ゴーマンさんが脚本を書いてわたしが音楽を担当した一寸法師という劇を息子が一寸法師を演じて公演して回ったことが楽しい記憶として残っている。合掌…。
fumio

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my  


わたしのサイトにおいていつも高いアクセス数をほこっている一曲マイ スイートライフ
こんな奥深い感性を多くの人々がもっているようだ。感心する。
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 <マイ・スィート・ライフ> 詞 曲 山下富美雄

1.スィート・ラヴ、どれほど離れても
スィート・ラヴ、想いは届くはず
スィート・ラヴ、北の浜辺のシクラメンも白い蕾をつけました

思い出すことはすてきなことばかり知らず知らずにもほほえみが浮かぶ
子猫相手にタロット並べ今日も占ってる 
あなたあなた あなた あなた帰りくる その日
マイ・スィート・ライフ

2.スィート・ラヴ、あんなにひき止めた
スィート・ラヴ、あの日の胸騒ぎ
スィート・ラヴ、信じられない報せ聞いて
時は軋んで止まったの
見えるものすべて鮮やか色にかえ
触れるものすべて命を吹き込んだ
あなたのために紅茶を掩れてじっと写真見つめて
あれもこれもあれもこれもおしゃべりつづけてる
マイ・スィート・デイ

なにもかもすべてあの日のままにして
命あるかぎりひたすら待ちわびる
あなたの側のベッドのくぼみ そっとからだ沈めて
いつもいつもいつもいつも あなたを感じてる
マイ・スィート・ライフ
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fumio



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名曲  


これがわたしが渡米した1976年のクリスマス前の頃のキャッシュボックス誌のベストテンだった。
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DECEMBER 18, 1976
1位TONIGHT’S THE NIGHT Rod Stewart
2位YOU MAKE ME FEEL LIKE DANCING  Leo Sayer
3位THE RUBBERBAND MAN Spinners
4位YOU DON’T HAVE TO BE A STAR Marilyn McCoo & Billy Davis, Jr.
5位LOVE SO RIGHT Bee Gees
6位STAND TALL Burton Cummings
7位MUSKRAT LOVE Captain & Tennille
8位AFTER THE LOVIN’ Engelbert Humperdinck
9位SORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORD Elton John
10位NIGHTS ARE FOREVER WITHOUT YOU England Dan & John Ford Coley
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わたしは 6位STAND TALLと9位SORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORDが好きで歌詞を書き取って歌っていた。とてもいい練習になった。記憶に強く残っている。今も心を込めて歌うたびに自分で感動する名曲だ。
fumio

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水面に書いた物語シリーズの一曲

ステイ・ウイズ・ミー


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       <Staywith me>詞 曲 山下富美雄


1.  Why?星のまたたきも 波のきらめきも
    あなたの瞳に にじんで fade away
    冗談まじりに 愛は 溜息まじりに 愛は
    はかないものねと 風がつぶやく
    
    なんでもないよに ドアにもたれてほほえみ
    不意に 顔をおおって “Stay with me!”

    
2.  Why?霧の街角に ひとりのこされて
    見送る背中に 最後のgood bye
    
    一日過ぎれば 愛は 一日分だけ 愛は
    さめてゆくよと 風がささやく

    なんでもないよに 窓に 息を吐きかけ
    そっと 指で書いてる“Stay with me!”

     ***************
   
     一月過ぎれば 愛は 一月分だけ 愛は
     涸れててゆくよと 風がささやく 
     
     なんでもないよに 襟を  立てて振り向き 
     道にとび出し叫んだ“Stay with me!” 
    “Stay with me!”“Stay with me!” 

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fumio   

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fz1  


その頃、ロックギタリストはいかに迫力を出すかに凌ぎを削っていた。
ヴォーカルが必死で咆哮して喚き歌っているのに美しい音色で伴奏するだけでは的外れでバンドの一体感が出ない。わたしの憧れたキンクスの名ギタリスト、ディヴ・ディヴィスは「ユー・リアリー・ガット・ミー」などのキンキー(ひねくれもの)サウンドと呼ばれる一連のヒットソングで迫力を出そうとしてスピーカーを破るという過激な手段で音を歪ませようとした。それでも思うようには音が割れてくれなかった。
そして1965年、高校3年18才で社会に出る頃のわたしはローリングストーンズの新曲「サティスファクション」のイントロのリフに衝撃を受けた。その音に驚愕した。どうしたらあんな歪んだ音が出るのかとギターをいろいろいじっても似た音も出ない。学園祭でローリングストーンズのコピーバンドが「サティスファクション」だけを延々と演奏していたけれどイントロのリフの雰囲気が出ないのでショボくて残念ながら盛り上がれなかった。その頃はエフェクターなどだれも知らなくてわたしも知識がまったくなかったがただ迫力のある音を出したいとだけ思っていたギターキッドのわたしがなんとアメリカでローリングストーンズのイアン・スチュアートが入ったその楽器店に入り浸って伝説化したエフェクターGibson/Maestro FUZZ-TONE FZ-1という名のファズを実際に目にすることになろうとは想像もできなかった。
その店はわたしが英語学校スピークイージーランゲージセンターの帰りに降りるサンセット通りとヴァイン通りの角のバス停の前にあるWallichs Music City楽器店で店内にはGibson/Maestro FUZZ-TONE FZ-1が最初のエフェクターとして誇らしくガラスケースの中に置いてあった。
わたしはこれが高校時代に夢見たファズボックスかとなんとなく思ったが時代が進んでアメリカはエフェクターが花盛りでわたしも様々なエフェクターを組み合わせて使ってギターと思えない音を出してプロのミュージシャンとして生活していたので別にそれほどの感動はなくFZ-1そのものを購入する気にならなかった。買うならギターシンセとかいろいろな選択肢があって迷ったのだ。
fumio


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