monologue
夜明けに向けて
 





吉田等が今度は「季節風」のアルバムのB面1曲目「君さえいれば」をリクエストしてきた。この曲もロックなのでかれがリードヴォーカルをとっているようだ。ただカラオケで歌謡曲を歌うだけと思われたままなのは心外らしい。人は死んでもプライドを持ち続けるというのは興味深い。
fumiohttp://fumio.music.coocan.jp

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吉田等が「季節風」のアルバムのA面3曲目そこを行くのはをリクエストしてきた。どの曲もだれがリードヴォーカルとは書かれていないので断言はできないがどうやらこの曲はロック風の曲なのでかれがリードヴォーカルをとっているらしい。敬愛するポール・ロジャースに迫れているだろうか。
fumio

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吉田君、きみはフリーのポール・ロジャースについて教えてくれたね。フリーはバッドカンパニーと名前を変えて進化を遂げてあのタイトなビートのロックでファンだけでなくプロをも魅了した。きみはエルトン・ジョンとポール・ロジャースは歌うたいとしての特別な声を持っていると言っていた。きみもそんな声を目指していたんだね。きみの高音はやっぱりフォークや歌謡曲では活かせないしロックを歌うべきだったね。わたしたちとのたった一度のセッションが歌謡曲だったのはちょっと残念だったかもしれない。それでもわたしはベースを弾きながら。バックボーカルで「あああ」、と歌ったり歌の内容に笑ってあの夜は楽しかったよ。きみにもその楽しかった記憶が残っていてアップロードしてほしかったんだね。それじゃあ、またね。
fumio

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彼岸と此岸が重なった今、吉田等がSFと共演している歌声をわたしにアップロードしてほしくてまたアクセスしてきた。


その日、わたしはいつものように相棒中島茂雄を芸術家集団がシェアする家に迎えに行った。
そしてハリウッド地区にある日系人クラブ「蝶」に到着してエンターティナーとして仕事を始めた。その頃、わたしたちは「アルバム「プロセス」の曲作りをしていて仕事で演奏しながらアレンジや演奏法を変えて煮詰めていた。客には迷惑だったかもしれない。延々と続くわけのわからないまだ曲と呼べないフレーズの繰り返しを酒の肴として聴くのだから。

そこにさっきかれらの家で挨拶した画家吉田等と庭師本間氏、大阪出身の写真家堀山氏がどやどやとやってきて客として席についた。
なんか変な感じだった。仲間たちが客として目の前に座るというのは…。かれらはピンクフロイドの「us and them」やわたしたちのオリジナルをリクエストしてしばらく遊んでいたが吉田が思いついたようにこの歌を歌いだした。堀山氏は大阪出身だしギターを弾くのは広島出身の中島だしひらめいたのだろう。あとにも先にも吉田がわたしたちSFの伴奏で歌を歌ったのはこの夜だけであった。その時のかれの歌を20数年を経た今隔り世のかれ自身のリクエストで多くの人々が耳にするというのは実に奇妙だ。こんなことがありうるのだ。
fumio 

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吉田君、きみは死んでから一週間も放置されていたんだね。どうしてこんなところに自分がずっと寝ているのかと思ったことだろう。

シゲさんの返信によると、お母さんの話ではきみの免許の住所がお母さんのところになっていたのでLAPD(ロス市警)から電話があった時、「吉田はそこに住んでいるか?」と訊かれて、息子がなにか事件を起こして警察に追われているのかと思ってかばおうとして「いいえ」とこたえてしまったそうなんだ。
親心が身元の判明を遅らせてしまったんだね。それでLAPDが直接パトカーでお母さんのところにやってきた時検死に行ってきみの死を確認したらしい。
その時のお母さんのショックは想像するにあまりあるよ。

きみがこの世と隔り世の間でさまよっているあいだに起きたことはきみも知らなかっただろう。
やっときみの死について、
ストリートバイオレンスや酒場でメキシカンに袋叩きにあったという噂にとどまらず、実際に起きた事実に近いことが浮かび上がってきた。よかったね。
それじゃあ、また!
fumio


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吉田等の件で本間さんの線が切れたのでSFの相棒中島茂雄(シゲさん)にメールしてみると今朝返信がきていた。


もう、ロスに住んでいたご両親も亡くなりお母さんは、吉田の死から3〜4年後になくなった記憶があるという。

吉田の死因は、、当時付き合っていた女性の知り合いのパーティに行き、酒癖の悪い相手と、喧嘩になって刃物で刺され入院先の病院で一日ぐらいして亡くなったということである。

その彼女が現場から消えて、死んだ吉田の身元は、免許の住所と現住所が違っていたので、1週間近くほって置かれ結局1週間後に母親のところにパトカーで警官が直接やってきて、判明したという。
葬式は、福井葬儀社で100人くらい集まって、盛大に行われた、ということである。

そうだったのだ。吉田君、
あいまいだったきみの死のあたりのことがすこしはっきりした。酒場で揉めて殺されたわけではなかったのだ。無縁仏になったのではなくちゃんと葬られていて良かった。
fumio

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吉田等とアパートをシェアしていた本間さんは将棋が好きで初めて会った頃からよく指した。わたしの顔を見ると将棋を挑んできたものだった。

1998年にSFのアルバム「プロセス」を日本でCD化する話が出た時、米国にいるSFの相棒、中島茂雄の電話番号がわからないので6月24日に本間さんに電話すると留守番電話だったのでこちらの電話番号を入れておくと電話してきてくれた。それで、中島茂雄の仕事場や立ち回り先の電話番号を訊いてやっと連絡が取れて、それから長野の宮下富実夫にも連絡してCD化が実現したのだった。

あれからもう13年ほどになる。昨日、吉田等のことなど近況を訊こうとひさしぶりに本間さんに電話してみた。
ところが何度かけてもその番号は現在使用されていませんという英語のメッセージが流れるだけだった。移転したのか、前の番号は終わっていた。
fumio

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吉田君、「季節風」のアルバムの録音は1977年5月から6月ということだね。あの頃もうこんなプロジェクトに関わっていたのか。

わたしはその年の4月に妻と出会って一緒に住み始めたんだ。そして1978年にひょんなことから中島茂雄(シゲさん)と二人で音楽ユニットの仕事を始めた。そのシゲさんの芸術家集団仲間のひとりにきみがいたのだったね 。それでみんなで1979年の息子の誕生日に来てくれたのだった。ありがとう。
「季節風」のアルバムを聴き直してきみはフォークではなくロックのアルバムを作りたかったのだろうと思ったよ。それじゃ、また。
fumio

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この「季節風」のアルバムのカバーデザインを吉田等が担当しているのでスキャンしてお目にかける。ブログの横幅からはみ出て見にくいけれど白黒で色使いにおけるかれの個性が感ぜられない。
このアルバムはTOSHI BANDOがプロデュースして500枚だけ自費で制作して友達に配ったらしい。TOSHI BANDOが全曲作曲している和製フォークの曲ばかりなので日本で作ったものと思いこんでいた。






この中島茂雄のアルバム「DR.SHIGEO&PREMISE」も吉田がカバーデザインを担当して自分の作品を下敷きにして子供の姿だけをトリムして使用している。
fumio



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昨日、レコードをアルファベット順に整理していると吉田等がTOSHI BANDOという人と作った「季節風」のアルバムが見つかったのでひさしぶりに聴いてみた。日本ではなくサンタモニカで制作していた。

そしてSFの相棒中島茂雄が「DR.SHIGEO&PREMISE」というバンド名で作ったアルバムも見つかってそのジャケットに吉田等のこの絵が使われていることを発見した。なるほど、そうだったのだ。吉田君、わかったよ、前に書いたきみについての記事で記憶が定かではなかったところを書き直したよ。ありがとう。それじゃ、また。
fumio


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94/06/04 解かれた封印から赤い色を頼りに、隔り世から鬼が来る…


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2011年は再出発の年でそのために境界の封印は解かれた。

 隔り世とこの世との境が通りやすくなり鬼たちがアクセスしやすくなったのだ。
吉田等だけではなくこの世の行く末に関心をもつ魂たちがわたしたちとともにこの星のより良き未来を開こうとしている。
吉田等はそのことを報せにやってきたのだろう。
fumio

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TONY YOSHIDAすなわち吉田等は1989年に壁画を完成してすぐ路上暴力によって死したという。かれが深酒をして前後不覚の状態で喧嘩になって殴り殺されたのならその時かれは肉体を離れても自分が死んだとは気づかなかっただろう。さまよいながら49日かかって隔り世に入り自分の死を受け入れるのに時間がかかったことだろう。そして2011年の今年死後22年も経過してやっと動けるようになったのだ。今回は転生を選ばずわたしたちとともに未来の子供たちのために地球存続を目指すのだろう。とはいっても霊が現世に直接に手を下すことは禁止されているのでサジェストするなりなんなりでそれとなく守護する形をとりそうだ。
fumio

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わたしのホームページやブログの読者に、あなたはなにものですか。というメールをもらうことがある。

宗教家でも霊能者でもない。ただの歌うたいだけど世俗的な欲望が少ないので神霊がアクセスして利用しやすいらしい。
利用するために首の骨を折ったり、脳内出血を起こしていらない部分を削ったのだろう。

人は死ねば終わりと思っているがそうでもないらしい。吉田等のように死んでからも友達に自分の作品を自慢したいという欲望があったのは面白い。

かれの遺作である壁画「FLIGHT OF ANGEL」は東西を代表する子供たちが日本風の襖を開いて光の世界に飛び立とうとしている構図だがそれはわたしの歌「わかりあえる日まで」と同じコンセプトである。この世界を良くしたいという願望があるようだ。そう、かれもまたこれからともに夜明けのために働く同志なのだ。

そうだね。吉田君。一緒にがんばろう。
fumio

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吉田等がまだなにか求めているようなので働いていたブルックスから検索するとロサンジェルス市の壁画サイトがヒットした。

するとトニー・ヨシダという名前の人がこんな壁画を描いていた。そういえばかれはヒトシはアメリカ人が呼びにくいのでトニーと名乗っていたということを思い出した。
この壁画の名前は“Flight of the Angel”でShozo Katagiri, Michael Clemente, Gaijin Fujita, Marcel Menard and David Salamonという人々に手伝ってもらって1989年に完成している。
縦550cm横 1066cmの大きさのアクリル壁画で場所はリトルトーキョーの3番街の現代ビルのクロッカーストリートに面した壁。日々リトルトーキョーを訪れる人々はかれの作品と対面しているのだ。なるほどこれが吉田等の代表作なのだ。
そしてTONY YOSHIDAをクリックすると
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Biographical Information

Born in Japan, Yoshida was a set designer as well as a muralist. He died shortly after completing his SPARC mural, a victim of street violence.

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という略歴が出てきた。かれは日本生まれの壁画デザイナーで壁画を完成してすぐ路上暴力によって死したということである。
吉田君わかったよ、この壁画を見てほしかったんだね。自慢の作品だったんだ。こんな立派な仕事を遺していたんだね。
きみの作風がよくでているいい作品だよ。ありがとう、教えてくれて…。じゃあ、また。
fumio


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昨日の吉田等の写真は1979年7月4日の時点のもので口髭を生やし髪を後ろで束ねていた。
その頃は梁山伯のような芸術家集団仲間とともに暮らしていた。そこで各種のドラッグ類を使用して絵を描いていたのだが、ある時、かれはアパートに転居した。わたしたち夫婦を招(よ)んで壁に飾った多くの曼荼羅画を見せてくれた。そして次に会った時にはデザイン会社に入社したと言っていた。ある絵画コンテストで優勝してブルックスというデパートのアートデザイン部門に雇われたのだ。その時はかれも髪を切り口髭も剃っていた。さっぱりした会社員という風情だった。ドラッグ類も絶って仕事に打ち込んでいるようだった。芸術家はやるべきことが終わると未練なく夭折してしまうけれどかれの場合はやるべきことが終わっていなかったように思われる。あのまま生きながらえていればきっと立派な仕事を遺したことだろう。合掌。
fumio

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