monologue
夜明けに向けて
 

食料  


知恵伊豆は1月11日に一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせて一揆軍を精神的に愕然とさせてから、食料の供給の般入を断ち兵糧攻めに持ち込んだことが功を奏した。そのため2月下旬には原城内の兵糧はほぼ尽きてしまう。
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mikata  


安吾によれば、戦死した板倉重昌に代つた松平伊豆守は石火矢台というものを築かせて大砲をすえた。正月十日、オランダ船に海上から砲撃させた。そして二十八日にオランダ船から大砲を借りうけて、石火矢台にすえて射撃した。味方であるべきオランダが大砲を撃って来たことで一揆軍に大きな動揺が起こって戦況が変化したのだった。
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小説家坂口安吾によれば、天草島原の乱においてリーダーとなった天草四郎の父益田甚兵衛がプロデュースした一揆軍は原城に十二月朔日(ついたち)から籠城にかかって、十二月廿日(はつか)に戦争が始まり、正月朔日(ついたち)に幕府方の総大将板倉重昌が鉄砲に乳の下を射抜かれて戦死したので知恵伊豆と呼ばれる松平伊豆守が代わって出陣している。それが大きな転機となったのである。
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島原天草の乱の一揆は一向に治まる気配がなかった。幕府の鎮圧隊が四郎のカリスマに魅了されて見とれてしまって攻撃をせずいつまでも埒があかない。オランダ帰りの参謀森宗意軒は妖術使いと呼ばれるほどにわけのわからない秘術によって鎮圧隊の戦意を殺いでしまう。南蛮絵師山田右衛門作は文筆にも優れていて幕府と様々な裏取引を持ちかけて騙して翻弄していた。その山田右衛門作はただひとり最後の最後まで生き残る。
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その時、剣豪武蔵は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、美しい艶やかな衣装を身に着けて妖しいオーラを発する四郎少年と対峙して大小の剣をふりかざし構えながら、見とれた。するとなぜか身動きできない。困った武蔵は有馬家の当主有馬直純への手紙で「拙者も石にあたり すねたちかね申故 御目見得にも祗候(しこう)仕(つかまつ)らず候猶重(なほかさねて) 可得尊意候(そんいをうべくそうろう)恐惶謹言」と述べて脛が立ちかねて歩くこともできないがどうしましょうと弱音を吐いている。なにもないのに動けなかったというのは不自然なので投石に当たったことにしているが実は四郎のカリスマ性にはまってしまったのだった。
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西暦1638~1640年(寛永15年~ 17年)の 島原の乱において原城に立てこもって投石作戦で抵抗する天草四郎ら一揆軍の鎮圧に当たった有馬家の客分として剣豪宮本武蔵が養子伊織とともに出陣して有馬軍から「やあ、やあ、われこそは作州牢人、二天一流 宮本武蔵 玄信 有馬殿の助勢に参った。尋常に勝負せよ」と呼ばわった。当時武蔵の名は佐々木小次郎との試合で有名になっていたので一揆軍内で動揺が起こったがオランダ帰りや海外の知識を持つ進歩的切支丹参謀たちの協議がすぐに終わると美しい16歳の少年が「ラヴアンド・セイ アイオオ サクティシム・サクラメント」Love and say I,oh SẨCTISSIM・ SACRAMENTO (最も貴い秘蹟を愛おしみ唱える)、と歌いながら出てきたのだった。武蔵は思わず息を呑んだ。
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重税  


島原天草の乱の一揆プロデューサー益田甚兵衛好次はオランダ帰りの森宗意軒、南蛮絵師山田右衛門作など海外の先進知識を持つ人々を参謀として妻(洗礼名:マルタ)との間に設けた長男・四郎(ジェロニモ、フランシスコ)、福(洗礼名:レシイナ)、萬(洗礼名:マルイナ)の三人の子とともに決起した。
  1637年(寛永14年)10月7日、大矢野本島の宮津に天草四郎の拠点として礼拝堂(宮津教会)を設けた時、、甚兵衛は「お前は、今日からわが子ではなく天草島原の救世主だ」と言い含めたのだった。原城に籠もった四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、美しい艶やかな衣装を身に着けて妖しいオーラを発して見る人々を魅了して、森宗意軒ら参謀の指導によって鎮圧に当たった幕府の松平伊豆守に当てた矢文には「近代、長門守殿内検地詰存外の上、あまつさへ高免の仰付けられ、四五年の間、牛馬書子令文状、他を恨み身を恨み、落涙袖を漫し、納所仕まつると雖も、早勘定切果て――」と書いて領主松倉長門の課す重税の非道を訴えている。
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島原天草の乱は熊本県大矢野中越の浦1383番地で生まれた益田甚兵衛好次(洗礼名:ペイトロ)によってプロデュースされた民衆一揆だった。
キリスト教弾圧時代、ママコフ神父が、「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」と予言してマカオに追放されたことから、その実現を喧伝して
森宗意軒(もりそういけん)山田右衛門作などと共に蜂起したのだった。
森宗意軒は朝鮮へと渡航途中に船が難破し南蛮船に助けられ南蛮(オランダ)へと向かい西洋の知識を学んだ先進的進歩人だった。山田右衛門作は当時の人々が見たことのない西洋画の絵師として一揆の旗には合唱して唱えるために異国の文字を描き一揆衆を鼓舞したのである。
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島原藩はキリシタン大名と呼ばれた旧主有馬晴信(ドン・ジュアン・プロタジオ)時代には日本カトリックの一大中心地であったが、キリスト教禁止令が出された1613年時点には島原藩は有馬晴信からその子直純が家督を継いで藩主となっていた。その有馬直純はキリスト教禁止令が出されるとただちに棄教して領民にもキリスト教の放棄を迫り棄教を拒んだ三人の重臣とその家族を火あぶりにかける。
西暦1637年寛永十四年十月二十五日ごろ、島原南部の有馬地方で妊婦を殺した代官を農民が殺害したことを契機として領民の一斉蜂起が起こった。つぎつぎに寺社を焼き、二十七日には城下に放火して島原城を襲い、天草藩(現在の熊本県天草郡を領有した藩)でも十月二十七日ごろから益田四郎の出身地大矢野島を中心に蜂起し、応援の島原勢と合流した。それで一揆は全藩域に拡大したのである。
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天草四郎本名益田四郎時貞はキリシタン大名小西行長の家臣の切支丹益田甚兵衛の子として1621年生誕。
1613年にキリスト教禁止令が出されてキリスト教が禁止された時、マルコス宣教師が「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した。
そしてその25年後寛永十四(1637)年 六月頃
島原領内で天変地異現象が頻繁に見られたので元小西行長の家臣であった大矢野松右衛門ら が、25 年前国外追放されたマルコス宣教師の予言が実現してきたことを触れ回りキリシタン信仰の復興を勧めた。
そうするうち十月25日、圧政に耐えかねた有馬村の村人が代官を殺害したことがきっかけとなって天草四郎をリーダーとする一揆が始まったのだった。
fumio

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舞台  


16歳の美少年天草四郎時貞は薄化粧して美しい艶やかな衣装を身に着けて、原城を舞台として踊った。キリストを讃美する言葉 LOVVAD・SEIAOを反乱軍みんなで「ラヴアンド・セイ アイオオ サクティシム・サクラメント」Love and say I,oh SẨCTISSIM・ SACRAMENTO (最も貴い秘蹟を愛おしみ唱える)、と歌った。一揆衆たちはその言葉をみんなで唱和した。どんどん声が重なってコーラスになった。四郎の踊りに合わせて踊るとだんだんなにがなにかわからなくなってくる。
幕府の鎮圧部隊は攻めることを忘れて一揆衆のパフォーマンスにただ見とれた。自分たちもわけがわからないながらも一揆衆の言葉に似た言葉を唱えて身振り手振りを真似してみた。すると自分たちもまたわけのわからない高揚感に包まれた。四郎の放つ妖しいオーラがカリスマ性を持って見る人々を魅了したのだった。

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感謝  


白人女性教師ミセス・イエーツに「デイサピア」と言われて英語教育プログラムから追い出されたような形でアメリカでのミュージシャン生活が始まったのだが
リトルトーキョーの栄菊というクラブでアルバイトしているクラスメイトの女性が栄菊でエンターテイナーを探していると教えてくれた。
それで栄菊にアプライしてオーナー、ロイさんの前でギターを抱えて「マイウエイ」を歌うと店のエンターテイナーとして雇われた。それがわたしのアメリカでの最初の仕事だった。
すぐに噂が広まって色々な店のオーナーたちが次々に見に来た。自分の店で演奏してくれと引き抜きが始まり、沖縄出身のクラブ「アシビ」のオーナーがどうしてもと強く要請するので
移籍した。それからハリウッド、中華飯店、クレンショー地区、ロサンジェルス全体のクラブを掛け持ちしたのだった。それがレコード制作やバンド活動のためにすごく役立った。
「デイサピア」と言ってくれた白人女性教師ミセス・イエーツに感謝…。
fumio

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米国留学中、米国公共英語教育プログラムの半年ごとの延長要請に行くと白人女性教師ミセス・イエーツが「フミオ、もう、あなた、これ以上英語クラスに残ることないわ。デイサピア!」という。デイサピアとは、消えろ、ということで、米国社会に解けて見えなくなってなにか仕事をしたらと勧めている意味。米国で生活するために必要な英語は身に着けたからと言って期限延長してくれなかった。それで学校に行かず、ギターを抱えてクラブのエンターテイナーとして働くことにしたのだった。それが米国でのミュージシャン生活のきっかけだった。
fumio


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その時、夜の目をした真珠の子供は「時」を知るだろう
アーリオーン ハローメッセージより
このメッセージの「その時」がきた。
fumio



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助言  


埼玉県の東川口病院で駐車料をとるようになった。そんな庶民を裏切るような行為はしてはいけないと助言されなかったのかも…。病気で困っている人が払うのはかわいそう。   立派な先生たちがいるのに、
なぜ?
fumio

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