monologue
夜明けに向けて
 

普及  


、わたしがロサンジェルスで暮らし始めた頃はまだ、日系一世や二世の将棋愛好者が将棋をするために集まる場がなくリトルトーキョーのユニオン教会の地下を借りて将棋大会が細々と行われていたのだが、日米文化会館に羅府棋院という囲碁将棋の場ができてやっと日曜日には好敵手が集まることができるようになったのだった。それでも日本から将棋の普及に田丸昇氏、石田和雄氏、木村義徳氏、武者野勝巳氏、西川慶二氏などプロ棋士が来られることがよくあった。海外初タイトル戦という触れ込みで、第46期棋聖戦五番勝負第2局米長邦雄対勝浦修戦がリトルトーキョーのホテルニューオオタニで催された時、多くのプロ棋士が来米して大山康晴氏、二上達也氏、中村修氏らがウエラーコートという広場に集(つど)っておられた。その時、わたしはロサンジェルスタイムス記者に勝負所の局面の解説を通訳していた。
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 ロサンジェルスの英語学校の昼休みにそこのカフェテラスに頻繁に通ったラ・ブレア・タールピッツ にある美術館博物館群のひとつLAカウンテイ・ミュージアム の現在の姿。その頃まだアメリカには余裕があってそれら公共施設の入場料はタダだった。画学生たちが名作の前で何時間も模倣していた。全展示作品を見るには一日かかった。わたしの目には特にロダンの彫刻がすごかった。
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将棋といえばわたしは高槻の松下電子工業でカラーテレビのブラウン管を作っていた頃、そこの将棋クラブに入って顧問の中井捨吉七段の手ほどきを受けたのだった。その頃盛んだった職域団体戦、京都滋賀大会に松下Bチームで出場して優勝したのだった。それから米国留学した時、ロサンジェルスのリトルトーキョーのユニオン教会の地下で将棋大会が行われたので出場した。将棋大会のたびに出場していると将棋仲間となじみになって回り持ちの会長になったりした。そのうちに日米文化会館という施設ができて囲碁や将棋をできる場が備えられたのだった。
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高槻  


大阪市福島区の関西将棋会館を大阪府高槻市へ移転することが決まったという。とてもうれしい。
わたしが高槻で働いていた頃、関西将棋会館は北畠にあって、高槻市の中井捨吉七段の将棋道場で順位戦が行われたりしていた。近年、藤井聡太二冠(18)や豊島将之二冠(30)らの活躍で関西の将棋にも人気が出て時代が進んでいる。スタジオを作ってプロの将棋をファンがライブで見られるようにするらしい。
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今日2月18日は妻の妹、成本末子の命日。1982年昭和五十七年二月十八日 二十四才で亡くなった。毎年、この日に赤飯を炊いて供えている。合掌。
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今日はなんと43回目の結婚記念日。
ロサンジェルス近郊パロスバーデスの海沿いにあるガラスの教会で結婚式を挙げて以来、とても平穏無事とはいえない山あり谷ありの結婚生活を続けて来た。感謝。
fumio

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クオータービレッジで実体験に基づいた知識の宝庫で師とも呼ぶべき、鈴木敏弘氏がミネソタの卵売りという歌が戦後流行ったとおっしゃったのでネットで調べてみた。面白い唄なので歌ってみると鈴木氏はわたしの歌詞のまちがいを正していっしょに歌ってくださった。鈴木氏との会話はいつも楽しかった。感謝。
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土曜日からの利用契約に来た方がギターをもってきてください、と誘われたのでエレキギターを持ってゆくことにした。アメリカではエレキやベースや、シンセを弾いていたので色々思い出して楽しい。
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感謝  


妻が腰骨を骨折して以来、始まった施設クオータービレッジショートステイでの楽しい学び生活が終わった。万巻の書を読んでも得ることのできない人生の先輩たちの実経験に基づく豊富な知識を与えてもらえた。特にわたしの生まれる前の戦前戦中戦後の話はありがたかった。感謝。
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ロサンジェルス郊外ランチョーパロスバーデスの海沿いに位置する「ガラスの教会」と称されるスエーデン系ウエイファラーズチャペル。
日本になじみの深い建築家フランク・ロイド・ライトが日光東照宮大猶院を模したという。わたしたち夫婦はこのチャペルで学生結婚式をあげた。在米中、毎年結婚記念日に子供を連れて訪れたものだった。
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わたしたち夫婦の母校、ロサンジェルスハイスクールを上空から見下ろすとこんな姿。わたしは授業の間にこのグラウンドで走った。クラスメートはイランからの留学生が多かった。当時は米国と仲の良いパーレビ王の時代で議論好きの生徒たちがいつも体制批判の議論に明け暮れ、わたしに母国での言論弾圧の様子を嘆いていた。そしてしばらくするとイランでホメイニイスラム宗教革命が起こりイラン人留学生はひとりもいなくなったのだった。

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これが妻と出会ったロサンジェルスハイスクールの現在の姿。見かけはあまり変わっていない。
イスラエルの航空兵だったクラスメートが「フミオ、いい日本娘がこのクラスに入ってきたぞ」と教えてくれた。その娘がわたしの席の後ろに座ったのだった。それが始まりだった。
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今日2月6日はヒーリングミュージックの宮下富実夫の命日であり、わたし山下富美雄の誕生日でもある。宮下富実夫は2003年(平成15年)に54才肺癌で逝去した。
わたしたちはロサンジェルスで出会い中島茂男、島健とともにツアー活動した。
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お山の杉の子という1944年(昭和19年)に発表された作詞吉田テフ子補作詞サトウハチロー、作曲佐々木すぐるの大ヒットした唱歌がある。
2番の歌詞の「一(ひい)二(ふう)三(みい)四(よう)五(いい)六(むう)七(なあ)」という部分が饒速日の「ひふみ」の祝言だった。人々はこの歌を歌う時、知らず知らずのうちに「ひふみ」を唱えていた。それが戦後の復興を支える呪文となったのである。
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この自由の女神の左手に携えている銘板には米国独立の記念日「1776年7月4日」が"JULY IV MDCCLXXVI"とローマ数字で刻印されている。
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