龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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中止告知。第14回エチカ福島を開催中止とします。

2020年02月29日 09時42分29秒 | 大震災の中で
エチカ福島のHPにも書きましたが

諸般の事情により、2020年3 月14日(土)に実施を予定していた第14回エチカ福島を中止とします。


当日、大西監督を招いてのイベントは中止になりますが、映画『水になった村』そのものは(2/29日現在)フォーラム福島での上映が予定されています。

3/14(土)も通常の上映となりますのでご了承ください。


なお、実際の上映期間、上映時間についてはフォーラム福島のHPでご確認くださいますようお願いします。


エチカ福島14回目で初めての中止は大変残念です。しかし、映画上映に止まらず長時間に渡る限定空間での総合トークイベントとなるため、参加を予定されていた方には大変申し訳ありませんが、今回は実施を見合わせることとなりました。ご了承ください。

(以上)



歌舞伎『風の谷のナウシカ』前編を観てきた。

2020年02月18日 07時30分21秒 | メディア日記
2019年の末に新橋演舞場で上演された歌舞伎『風の谷のナウシカ』(前編)をディレイビューイングで観てきた。
全部で7時間ほどになるのだろう、その前半部分にあたる(後半は二週間後に上演)。

映画版ナウシカではなくマンガ版(確か雑誌『アニメージュ』に連載されていたもの)全7巻を通し狂言にしたてるというのだから、むちゃというか振るっているというか。
とにかく不思議な面白さだった。

歌舞伎をあまり知らない者が「ケレン味たっぷり」といったところで、ある意味では当たり前の話にしかならないのかもしれないが、とにかくあれだけの物語を、(例えば忠臣蔵とか義経の話とかのように)「名場面集」として観客に強く印象づけることに成功しているのだから、歌舞伎らしいすぐれた編集感覚と誇張表現を駆使した「ケレン味」とやはり言っておくべきなのだろうと思う。
歌舞伎のことはよく分からないけれど、ナウシカ愛に溢れた観客の一人としては、名場面集として永く伝えられたらいいな、と思える作品になっていた。

なかでも格好良かったのは七之助のクシャナだ。無論ナウシカは主筋を担う人物なのだが、前編の華はクシャナにある。もう一方の悪の華はミラルパだ。

これはいかにも歌舞伎の荒事に相応しい配置だ。
それに比して、前半戦の世界=自然=王蟲と交感するナウシカは、宮崎アニメの真骨頂であって、明らかに映画版ナウシカの方が馴染み深い。この歌舞伎版ナウシカは、明らかに「少年」だ。ワンピースなら十分オッケーなんだけどなあ、という印象。ま、それはそれでいいのかな。
ことによると、物語前半の「少女」ナウシカは、歌舞伎の様式美に馴染まないところがあるのかもしれない。

後半、巨神兵が登場してからのナウシカに期待しつつ。

ともあれ、この暴挙というか快挙というか、歌舞伎版『風の谷のナウシカ』は、歌舞伎の力を存分に感じることのできる「場面」に満ちていて、何でも飲み込んで「歌舞伎」に消化=昇華してしまう楽しさが満載でした。

後半が楽しみです。

ケン・ローチ監督作品『家族を想うとき』観るべし。

2020年02月15日 13時38分12秒 | メディア日記
たまたま単館上映系の映画館が地元に一つ(2スクリーンのみ)が残っている。
2スクリーンのみとはいえ今晩の地方小都市の経済状況では存続してくれるだけでありがたいというしかないのだが、たまたまスケジュールが合ったので、
を観てきた。
切なかった。

お話は、世界の経済状況の急変で仕事も家も失い、夫は借金を重ねてでもなんとかもう一度家族のために家を買い直したいと思うが、選んだ宅配便の仕事は、1日休むと無休どころか100£ものペナルティーを課される過酷な「自営業」であった。身体も痛めつけられ、家庭を顧みることもできず、次第に家族の間にも亀裂が……というストーリー。

一度宅配の自営業主の方と話をしたことがありますが、どこの国(映画はイギリス)でも本当に過酷な状況がありますね。コンビニの時短問題も同質の課題がありそう。
フランチャイズゆえに「上司と部下」の雇用関係ではなくあくまで「契約」だから、リスクを背負わずに人を雇えるという、持てる者に好都合なシステムは、いたるところに蔓延っていて、実質的には「労働者」であるにもかかわらず、実質的には選択の余地もない「追い詰められた自営業主」として働きづめになるしかない。

そういう「相対的な貧困」の負のスパイラルを丁寧に描いています。
『パラサイト』のようなエンタテイメントに振ったつくりではなく、いわゆる社会派の人生切ない系ですが、席を立つことは許されない感じで(笑)観ていました。

『パラサイト』の家族も、普通に暮らせていたはずの「元中流」の匂いがしますね。
子どもたちも能力はある。
『家族を想うとき』の子ども二人も成績は優秀。
しかし、もはや子どもの才能は、階層維持や階層上昇のいわゆる「メリットクラシー」(能力中心主義)の幻想を持つ要素になり得ておらず、むしろ「絶望」への傾斜を強めるファクターですらあるかもしれない……。

希望は映画のかにはありません。しかし、映画を作って届けるその人々の姿勢の中には希望が宿っている。
監督も制作の人々も、役者さんも、映画館の経営をする人も。

では僕らはどうする?
いつもそこに戻ってくる。

2020年3月14日(土)は、
第14回エチカ福島『水になった村』をフォーラム福島で開催中・上映します。

よろしかったらぜひ!


熊本県の夏みかん「きばる」で作ったマーマレードが美味しすぎる。

2020年02月15日 12時36分30秒 | 大震災の中で


熊本県の水俣、芦北、御所浦で夏みかんを生産するグループ「きばる」(サイトはここをクリック)から取り寄せた甘夏から自分ちで作ったマーマレードがびっくりするほど美味しすぎる、という件について書きます。

手作りマーマレードがおいしいのは当然。

そして

皮まで食べられることにこだわって作ってくれている生産者の「きばる」の甘夏だから美味しいのも道理。

でも、この季節に、この「きばる」の甘夏で、しかも「自前でつくる」マーマレードの味は、生まれて初めてでした。

透き通った、遠くまで届くあくまでも爽やかなマーマレードになりました。

「きばる」の甘夏、この時期本当にお薦めです。
皮まで食べることを前提に栽培されているから安心、安全。見た目がいまいちなのが入っているのもそれゆえ。

私の人生史上最高の甘夏マーマレードになりました。
たとえて言うなら、冬場に採れたワタたっぷりのイカを自分で捌いて一晩水を切り、ワタを開いた中にイカの身を切り込みにし、さっと塩を振って食べる塩辛の美味しさしか、比肩出来るものを思いつきません。
甘党と辛党の違いはあれど、旬の恵みを自分の手で食べ物にしていく恵みは、他のモノに代え難い力を持っていると改めて実感。


他にもこんなレシピが。

去年の夏、「きばる」の高倉さん弟妹を福島にお呼びする縁に恵まれたのですが、その時紹介されて買ってみたらびびびびっくり。おいしかったです。

福島県立ふたば未来学園の研究発表がおもしろかった。

2020年02月14日 10時45分31秒 | 大震災の中で
書こうか書くまいかちょっと迷ったので遅くなってしまったが、備忘録的な意味でアップしておく。

ふたば未来学園高校のSGH研究発表会に行ってきた。

1,はじめに

2020年2月4日に実施された福島県立ふたば未来学園高校の研究発表会を見てきた。
とてもおもしろかった。

資料詳細はこちらを。

https://futabamiraigakuen-h.fcs.ed.jp/blogs/blog_entries/view/111/18fa56de30489ff7c88909f0fad8d892?frame_id=29


福島県立ふたば未来学園という学校は設立経緯が普通の県立高校とは異なり、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の被害・避難を受けて、地元の町の要望と国の政策との両面を受けて立ち上げられた、「政治的」な高校だ。

加えて今年度から中学校も出来、原発事故地域周辺に作られた初めての中高連携の学校ということになる。

予め確認しておくと、設立当初は地元住民の子どもたちの受け入れという役割も大きかったが、次第に地域の人の師弟の割合は減っていき、現在新しく始まった中学一年生においては、地元地域子弟の割合は2割台まで減っていると説明された。

だから、生徒の実質からいえば、必ずしも
「東日本大震災の被害を直接に受けた地元地域の子弟による学校」
というわけではない。
 そうはいっても一方、一般に理解されている前述の成立の経緯から言えば、善し悪しは別として「国策学校」、政治的な意義に裏打ちされた予算や政策の「意味」を持たされている学校でもある。

元公立学校の教員だった者(私)から言わせれもらうならば、正直なところ、本当に「難しい」舵取りを強いられる「仕事」だろうな、という印象をもつ。

校長先生や(副校長さんは国からの人だから確信犯なんだけどね)
先生方、生徒たちは色々大変なんじゃないかなあ、と推察。

ともあれ、設立から5年の節目に当たる今年度(SGIの研究発表とはいいながら)、設立5年目の現況報告といった意味で受け止め、参加させてもらった。



2,興味深かったのは3点

①おもしろポイントその1
校長の説明と質疑

 広島県から視察にきた方(わざわざ遠方からきてそれどうなんだろうかと個人的には思うけれど、真面目な人なんだろうね、きっと)が、この総合学習三年間8単位で、

「(受験に)間に合うんでしょうか?」

という質問をした。それに対する校長の応答がふるっている。

「さあ、どうなんでしょうねえ」

「もしかすると足りないかもしれませんね」
だった。やるな、校長先生。

総合学科的な研究発表で、総合科目をやって受験に間に合うのか、というのはそれ自体場違いな質問だろう。

だが、現実に総合学科に在籍していても大学進学したい生徒はいる。そうすると範囲が終わらなかったり、頻出の知識事項にふれないまま受験を迎えることになるのは確かに心配だ。

それもまあ分かる。

間に合いますよとも間に合いませんよとも言わず、あたかも他人事のように応接する校長にエールを送りたくなった。

つまりさ、決定的に手間がかかるわけよね。総合的な学習とか、プロジェクト型の授業って。だから、単位の奪い合いという発想をしている限り、
「総合の学習なんてじゃまだ」
という発想はなくならない。

そしてそれは総合学科だから間に合わなくてもかまわないという話でもなくて、そういう中身をやりつつ、個別に進路対応をしていくということでもある。

実際、校長は補足の説明で、必要な場合は個別対応になりますね、とも付け加えている。

校長の話でもう一つおもしろかったのは、5年間の感想として、「生徒たちがいい子すぎる」と言ったのが印象的だった。「権力(のあり方)についてももう少し考えてもいいのに」とも。

県の方では、最初この学校の設置に必ずしも前向きな意見ばかりではなかったとも聞く。中学校の併設にも慎重な意見があったとも。

結果、「地域の要望」&「国策」として原発事故被災地域に作られた学校なのに、現実には地元の子どもは減る一方。

そんな中で運営される豪華な施設と充実したカリキュラム。力を入れた人事交流(この学校を勤務すれば、出身地域以外2地区10年以上回らなければならないルールの適応外になる)によって、成果も求められる。

とてもまともな神経ではやっていられない状況なのではなかったかなあ、と想像する。

だから、校長が「いい子すぎる」とつぶやいたのは、生徒に対する評言に止まらないのではないか、とも思えた(考えすぎかな?)。教員の人たちも、もうちょっと緩くやってもいいかも……っていうのはよけいなお世話か(笑)。


②おもしろポイントその2

公開授業中、教室の入り口でネイルの手入れをしていた二人の女子生徒

校長の概要説明が終わると、授業公開の時間になった。豪華な校舎は廊下に人がいるとすぐ分かる病院=監獄の形式ではなく、三角形が組み合わされた棟ごとに角度のついた作りになっていて、見通しが悪い(それ自体はいいことなんですが、場所がわかりにくい)

いたるところにオープンスペースもあり、吹き抜けもあり、普通の学校とは違う、いい感じだ。

そんな中、高校2年の教室でグループごとに今後のプロジェクト(発表?)の作業計画をたてる授業を見学したところ、入り口の女子生徒二人が、爪に液体を塗って、ネイルの手入れをしていた。

つい教員根性を発揮して「君たち何をしてるの?」ととがめたくなる光景だ。

全国規模の発表会で、視察にきている大勢の教育関係者の前で爪を塗っているんだから、けっこう肝が据わっているものと見えた(笑)

他方、研究発表会だからという大人の事情で体裁だけ整えてもしょうがない、という「大人側」の姿勢もちょっと見て取れる。

生徒にたいして「規律訓練型」の教育を生徒にさせるタイプの「教員向け規律訓練」を有形無形に受けたわたしのような
教師なら、お尻がむずむずしてくる光景だ。

だが、教師も生徒も、そんなことに動じる気配はみじんもない。

私にはコレが爽快だった。
「だよな」
って感じがした。
おそらく、それも含めて見てもらいましょうってことなんだろうなと思う。

ちなみに、同行してもらっていた大学院生(現職マスター)はさすがだった。
丁寧に、
「きみたち何をしているの?」

と聞いたところ、
「お年寄りにお化粧とかネイルとかしてあげるととても喜ぶという経験をして……」
という説明が返ってきた。

まあ計画の時間だからその練習ってこともないのだろうが。

校長の言葉が、彼女たちの姿と少し重なって見えた。「いい子たちばかり」が不安だとしたら、この子たちのパワーを使うようなタイプの授業者を集めればいいんじゃないかな、とも思った。

もし、そういうことにエネルギーを割く時間が不足しているのであれば、校舎に下りるお金の数十分の一でいいから人的資源に投入したらいいのに、とも。

確かに、放課後の協働スペースでは、NPOカタリバの人たちが常駐しながら生徒たちとふれ合っている。個別進路の対応や、授業・プロジェクトにうまく参加できない子たちのフォローもしてもらえそうだ。

でも、そこ「ななめの関係」(南郷副校長)とかいって済ませてていいのかしらん、と、入り口のネイル少女たちを見ていて思ったのも事実。

授業規律・規範の面から言っているんじゃなくて、彼女たちのパワーの方が実は大きくて、今のところ負のパワーかもしれないけれど、それとどう向き合うかが原発事故と災害とどう向き合うか、にも(教員のたちの姿勢としては)つながるんじゃないかな、という感想を持った。無責任に言うことでもないのですが。

③おもしろポイントその3
生徒発表

SGHと探求学習の成果といえば、やはりこの生徒代表の発表だろう。

発表は二つあって、一つは木戸川の鮭を使ったフレークの商品化で、もう一つは地域交換留学というプロジェクトだった。
(詳細は資料を参照のこと)

これは発表もさることながら、それに対する質問がおもしろかった。
前者に対する質問は、

「鮭の獲れる時期」が限られていると分かったときにどうやって諦めずに商品化までこぎつけたのか、そのときの諦めなかった理由をききたいというもので、

発表者はそれに対して「諦めるのは悔しいから」、といった返答をしていた。かみ合っているようないないような微妙なやりとりだったけれど、それがおもしろかった。

この探求学習は一種のプロジェクト学習でもある。特にこういう商品の企画を考えるときには、とにもかくにもプロジェクトを実現する事が重要だ。

今までやったことのない企画だから困難が出てくるのは当然だし、過半は「困難」を解決する仕事、ともいえる。

諦めるのは悔しい、私たちにも冷凍保存鮭の「分け前を」

といった市場参入への「欲望」は、きわめて適切な(笑)姿勢ではなかっただろうか。

他方、それを語る彼女の語り口は、質問者の求める「なぜ」というプロットの問題ではなく、(この高校生にとってはむしろ)「物語」(こうしたらこうなった)という水準の「語り」なのかもしれない、とも思った。

そう言う意味でおもしろかった。


最後の発表は、原子力防災探究ゼミ「地域交換留学生」についての発表だった。

全国の高校生と双葉郡の高校生をつなぐ交換留学生のプログラムを実施することで、他人事ではなく「自分事」としてこの災害を受け止めてもらう、というものだった。

それに対するフロアからの質問がまたふるっていて

「どうやったらその交換留学生が自分事として受け止めたと分かるのですか」

というものだった。

すると発表者は
「行動ですね」
と間髪を入れずに応える。
「具体的には、最初のアンケートでは一行しか書いてもらえなかったが、最後のアンケートでは、詳細かつ具体的に書いてもらえるようになった」

考え方が変わるということでは必ずしもなく、同じところに戻っていくのであっても、その過程があるということが大切、との指摘もしていた。

資金のことについても、補助金を求めたり、クラウドファンディングをしたり、といった状況をきちんと説明していた。よくできました、という発表だったと思う。ある意味痛快でした。

3,最後に

この高校は繰り返しスタッフも指摘しているように、他地区から意欲ある生徒が応募してきて真剣に学校を利用しながら成果を出している生徒、スポーツ環境に魅力を感じ世界を目指している生徒、行き場所・生きる場所が見いだせずにとりあえずこの学校に入学はしたものの自分を出せずポジティブに活動できない生徒、と多様な生徒が併存している学校だ。

小学校や中学校のように、時間事に生徒の活動について、包摂を前提に授業経営をしていくのは難しい側面がある。

もし私がこの学校の教員だったなら、一体ここで何ができるのか、どうしたらいいのか、を自分の頭の中で考えていくと、簡単に解は出てきそうもない。

ただ、こんなにお金をかけて、こんなに研究を背負って、こんなに地域を背負って、国の政策まで担って、学校というものは経営しなければならないものなのか、という疑問はどうしても残る。

もっと貧乏で規模が小さくて、いろんな大人がいて、大人たちが新しい「包摂性」「公共性」を備えたスタッフとして活動できる、そんな学校を作る(できなければ誘致でもよい)方がなんぼかいいんじゃないか?

そう思う。

解の一つは、たとえばたまたま1月25日に訪ねた
南アルプス子どもの村
にある。ふたば未来に投入されたお金があれば、子どもの村規模の運営なら数十年可能じゃないかしらん。あるいは寮費の補助をしてもよい。

ふたば未来学園は、原発をベースロード電源として維持する方針の現政権にあっては、むしろ「オルタナティブ」な政策側面を持っている。あまり政治に関心のない人にとってもそれは自明のことだろう。

安倍政権に押し込められながらも、教育の自立性をまあまあなんとか保とうとしている文科省教育行政の予算獲得の旗印の一つなのかもしれない。
だがこのやり方は、原発行政の「ドーピング」政策に他人のそら似程度には似ているという気もしてくる。

つまり、教育って当たり前だけど、内発的な志向をのばしていくのがその自由にとっては大切で、それは子どもたちが互いに互いの近傍に立って、その複数性を前提として彼らたちがプロジェクトについて公共的に議論しながら深めて行く必要があるわけで、それが総合的学習の理想型であるとするならば、もはや国策と地域復興みたいなところはより少なくして、貧乏になりながらも腕に覚えのある、ということは哲学のある教師を全国から集めてくる方がいいのではないか?という思いが湧いてくるということだ。

今年から入った中学生に道徳じゃなくて哲学対話の授業をはじめた、と校長の話にあった。

すばらしいと思う。

でも、重要なのは生徒に哲学対話させるにしても、教員たち自身がまずはゆっくり彼ら自身の「哲学」を問い直してみることの方が大切なんじゃないかな。

スタッフの給料を上げたり、あるいは昇進させてあげたりするより、むしろやりたい教育ができるって方が魅力的だと思うけどな。ここだけ20人学級とか(教員の3倍加配とか)。楽させていいから、成果を、みたいなね。
忙しくしないで。

お金を投入するとエビデンスとかうるさいからなあ、今時は。

以上、勝手な感想でした。


先週の土曜日『パラサイト』を観てきた。

2020年02月12日 17時59分12秒 | メディア日記
観に行ったのは土曜日のレイトショー。
シニアだから1,200円。助かります。
そのときはアカデミー賞受賞前たったのに、女性が2人、3人と友達連れで来ていて、ここ最近観た映画(いずれもレイトショー)でへ一番の入りだった。
映画の中身はもう十分評判になっているからいいとして、舞台となっている二つの家のロケーションがとても魅力的だったことをメモしておきたい。

貧乏な家族が住んでいるのは街の半地下。家賃も安いのだろうが、Wi-Fiが入らないし、トイレは吸い込みの高さの都合か、家の中で一番高いところにあるのが目を引いた。
狭いところ、しかも酔漢がたち小便をするともろにかぶるような半地下の匂いの立ちこめるような家に住む四人家族。建物のセットはその生活を象徴的に表現している。

他方、著名な建築家が建てて、それを新興IT会社のオーナーが買い取った家は、いかにもセレブ感に溢れた素敵なおうちだ。前庭の芝生ではガーデンパーテイーが出来る広さがあり、地下室も食料や庭用のテーブル&椅子が収納されている。半地下の貧乏家族の家とは何から何まで正反対だ。

その家の対比がやるせなくも鮮明で、(乗っ取った後のセレブ邸宅の散らかし具合も含めて)、魅せられた。

さらにその地下室もただの倉庫ではなく……。

主役の一つは間違いなく二つの家だった。
後半、貧乏家族の家が被る洪水による浸水は、安い半地下ゆえの悲哀も感じられ、いろいろうまくできている。
「雨」、「立ち小便」、「嵐」「洪水」など、みずみずしい「水」のイメージも映画を支えている感じだった。

このあとケン・ローチ監督の『家族を想うとき』
という映画も観に行くことになるのだが、貧富の格差が広がるグローバルな「リアル」をヒシヒシと感じさせられた。
もちろん「名匠」ケン・ローチと違ってコメディ・ホラー・コンゲーム・社会派と様々な要素を見事に案分したエンタテインメント性の高さには、韓国映画(文化)のパワーを感じさせられた。
今から行くと混んでるでしょうが、お薦めの映画です。




演劇「わたしの人生の物語、つづく。」川前編(劇団ごきげんよう)を観てきた。

2020年02月02日 16時56分19秒 | メディア日記
今日は朝から演劇を。

リージョナル・シアター2019
劇団ごきげんよう
「わたしの人生の物語、つづく。」川前編を観に来た。

九州を拠点に活動する劇作家・演出家の永山智行さんと、「劇団ごきげんよう」が受け取った、地域と人の物語、とのこと。
これから観てきます。
川前は夏井川渓谷にある町。小中学校は廃校になっていて、その元校舎(今は多目的ホール?)での上演です。

その土地で演じられるその地域の演劇、、ということかな?
感想は後で!

……というわけで観てきました。
ステキなお芝居でした。

友人に送ったメールを再録しておきます。

演劇、よかったよー。
九州の都城の演出家が来ていて、いわき市の田舎(周辺部)で聴き取りをじっくりやって、地元の人の語りを沢山採集した上で台本を書いて、それを芝居にして地元の観客に届けるってスタイルの芝居でした。
キャストは全部いわきの
ひとで公演母胎は「劇団ごきげんよう」。老舗のいわき小劇場
からの客演も複数。
アリオスも一枚噛んだ企画かな。
もう4,5年なってるしいよ。
引用開始
2015年から活動し、これまで豊間編・田人編(2015年度)、内郷編・遠野編(2016~2017年度)、久之浜・大久編(2018年度)として地域の方の「人生の物語」を、演劇を通してお届けしてきた「劇団ごきげんよう」。
引用終了
(下記のアリオスページより引用
https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01906&F=pagetype%3Ar%E2%80%BERYugRYQLKcvWFgfG%3B&O=STIME%3AD)

今回は川前でということでした。
でね、土基本地の人の物語なわけね。
もちろん地元の素人の人は自分自身の物語とか聴かれても最初は口ごもるんだろうけど、劇団員が地域のイベントに参加して、一緒に酒のんで、それから4カ月かけてゆっくり聞いていくと、最初は
「おれのはなしなんがきいだってしょあんめ」
って感じだったた人も、だんだん話し出てくれるんだって。
その時必ず聞くのは
「子どもの頃の遊びは?」
これは盛り上がるらしい。
それからさいごに
「一番幸せだったのは?」
を聞いて終わるんだって。

そうやって聴き集めたお話を元に、父親の訃報を聞いて都会から帰ってきた息子がみんなの話を聴いていく……ってフレーム。
あと、いろいろしかけはあるんだけど、基本は現地の人たちの物語を現地で演じるお芝居なんだね。
たから観客は
「ああ、誰々のはなしかなー」なんて分かっちゃったりもするし、そうでなくても
「んだんだ!」
ってその小さな物語に共鳴してくれる……。
そんなステキな「小さいお芝居」でした。
生きる元気の出る演劇だったなあ。