龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

12/3から放送される、100分de名著『エチカ』スピノザを観るべし。

2018年11月24日 17時30分57秒 | 大震災の中で
NHKの月曜日午後10時25分~放送されている
100分de名著の12月では、なんと
スピノザの主著『エチカ』を取り上げます。
講師は國分功一郎さん。

今日テキストが届いたので早速読みました。

こ、こ、これは……(>_<)


びっくりするほど分かりやすいではありませんか!!

みなさん、悪いことは言いません。
このテキストは買っておきましょう。これ一冊でスピノザの基本理解はほぼOK。

これ以上分かりやすい解説はない!……と國分さんも断言してました(笑)

12/3(月)10:25分からの放送です。
再放送は(水)の朝5時30分~
と、同じく
(水)の午後0時から。



5カ月レヴォーグ1.6Lと付き合って

2018年11月06日 13時28分20秒 | 観光

レヴォーグ1.6リッターGT-S(D型)に乗って5カ月が経った。
もう来年にも新型が発表されそうだから、新車情報としては重要ではないと思うが、中古で購入していく人もあと6,7年はいるだろうし、記録=記憶として感想を書き留めておく。

①エンジンについて
・1.6リッターエンジンで十分。

これについては2.0リッター300馬力を必要としている人と、それほどエンジンパワーが無くても良い人は最初から結構キッパリ分かれているだろうから、必要なモノを選べばよいのだろうが、とてつもなく速いクルマを求めるのでなければ、1.6ターボは日常の運転の範囲でいうと十分速い。
ステータスを求めるなら別のブランドがオススメです。2.0リッターエンジンがほしい人はじっさいにそのパワーを必要としている人だけ、でしょう。
1.6でもいいかもしれないけれど「せっかく」レヴォーグだから2.0も考えよう…………というなら、別のクルマも選択肢に入れた方が後悔しないと思います。
しょうじき、CVTで300馬力って、どうなんだろう、と個人的には思います。

・ターボの効かない走り出しは、やはり非力。

これはレヴォーグを買った後、対応に時間がかかったポイント。
1.6リッターの 「素」で動かねばならない停止状態からの始動時は、やはり力は足りない。

ここはSモードにしておいてかつタイムラグがあることを念頭においてアクセルを調整すれば、常識の範囲内では十分速く動くことができる。ただ 「踏めば出る」のが良ければ2.0がいいのは当然だが、繰り返しになるけれどそのために倍近いトルクや馬力が必要か、というと、要らないんじゃないかと思う。繰り返しになりますが 「最高のSUBARUレヴォーグでなければならない」という人は別です(^_^)。

②安全装備について

・高速道路(具体的には磐越道郡山→いわき)はほぼ車線認識でハンドルを切ってくれる。

試しに(手放しはてきないので)軽くハンドルに触れる状態を保って、磐越道(郡山→いわき)の山道を走ったが、ロストは一回もなく、はみ出し注意がなったのはのは人間がぼーっとしてハンドルを握ってしまった時のみだった。
わたしのD型は15秒程度ハンドルに力が加わっていないと 「ハンドル操作をしてください」とアラートが鳴るが、今の型は30秒ぐらい頑張ってくれるという噂もある。高速を走る人にはもはや必須機能じゃないかな。
アダプティブクルーズコントロールと組み合わせれば、自動運転とは違うヵかなり近づいてきている。
このためにレヴォーグを購入するのもあり、だと感じる優秀さだ。
とにかく、技術がこなれている。安心できる。

ただし車線介入に限って言えばドイツ車の方がずっと明確なサポートをしてくれる。
VWのシステムがトータルでちゃんとしてきたらそっちもありなんだろうね。

ちなみに現状ではベンツのA型の新型(2018年後期)が最高らしいけど、乗ってないので不明。

③乗り心地

デビュー当時のレヴォーグは、 「硬い、硬すぎる」
というのが足まわりの感想だった。だが、このD型(2017年改良)のGT-Sは、全くそういうことを感じさせない、普通のユーザーてある私にとって満足のいく乗り心地になっている。
これなら十分なしなやかさだと思う。10,000キロ走ってさらに落ち着いてきた感がある。
初期の 「硬さ」ゆえに二の足を踏んでいた人は、このD型からならオススメできる。

④タイヤについて

・18インチが装着されているが、17インチも履ける。そして、17インチにすると乗り心地もさらに落ち着き、燃費もいい。
(あくまで)普通に乗るのなら、17インチアルミホイール(世の中標準の114.3になったので中古も報復!)にレグノとか履くのもありかも、と思った。
この辺りになるとSUBARUのレヴォーグファンは首肯しないかもしれませんね。 「ならレヴォーグじゃなくて、いいじゃん!」
という意見も出てくるかもしません。あくまで可能性、選択肢の一つとして。

⑤CVTについて
心配なのは正直CVTです。
運転フィーリングは十分自然ですからそれはいいのですが、果たして最後まで元気でいてくれるのかどうか。これはある種の賭かもしれません。故障がでたら考えましょう。
この前に乗っていたレガシィは19万キロ付近でお迎えがきました。
まあ、10万キロ以内の走行なら問題ないでしょうが。

⑥燃費について

燃費は一万キロ走って11.1km/l。
まあ、こんなモノだろう。高速をクルーズコントロール任せで走ると
13 km/l~15km/l
ぐらいの数字はでる。
一方、街中では10km/lを切る時もあります。

満タン計測で
最高は15.7km/l
最低は9.4km/l

性能から言えば、妥当なところでしょうか。
欲を言えば街乗りで11km/lぐらいだと乗りやすいんですがねえ
(^_^;)

⑦総合的な感想。

満足してます。
だんだん好きになるっていうのをSUBARU車オーナーになってから体験するようになりました。


一目惚れならロードスター。

あるいは出たばかりのヴィッツやファンカーゴ。

素性・設計の魅力でFF初代のファミリア

エンジンの吹けでホンダ(civicとaccord)

ディーゼルターボのトルクに魅了されたエスティマエミーナ(ただしかなり油は漏れた)。

レヴォーグはいいクルマだと思います。
ただ、1000キロ単位でロングツーリングをするなら前に乗っていたレガシィの方がいいし、ハンドルを握ったファントゥドライブ性ならロードスターの方がいい。
一台で済ますなら、これということかな(^_^;)

ただし、それを中途半端とは言わなくていいでしょう。きちんと役割を果たしてくれています。AWDの安心感もあるしね。
誰にでも勧められるクルマ……ではないかもしれません。でも、このクルマにしかない守備範囲はまちがいなくある。

SUVの車高は不要。
荷物は積みたい。
ミニバンは勘弁。
走りもある程度切れ味がある。
スポーツ、とまではいかないが遅いクルマはイヤ。
安全性能は高く。
AWDはやっぱりほしい。
インプレッサじゃ当たり前すぎて個性が……。

以上の項目に当てはまる(つまりは私のような)方なら、バッチリ幸せになれます。


追伸
それにしてもSUBARUのWebサイトは重くて、表示に時間がかかる。どうにかならないものでしょうか。

追・追伸

リコールはドンドンやればいい。昔のトヨタはリコールしないでサービスの中で交換してた印象があるけど、そういう時代じゃない。

ただ、コやっぱりンプライアンスに対する意識が低いというイメージはある。加えて後から後からでてくると、印象も悪い。
コストカットをして、結果むしろリコール費用に苦しむというのはメーカーにとってもユーザーにとっても不幸だ。
これを奇貨として、いいメーカーになった、と言われるようになってほしい。間違ってもトヨタに合併・吸収とか、私がクルマを乗っている間はそうなりませんように!!

10年付き合ったロードスター(NC-VS)を手放しました。

2018年11月05日 16時15分41秒 | クルマ
新車購入から10年半付き合ってきたNCロードスターを手放しました。



12万キロぐらい乗りました。
これでブログ冒頭の写真の阿蘇山にも行ったし(往復4000キロ)、高千穂にも佐渡にも津軽にも房総にも富士山にも道後にも出雲にも伊勢にも行った。

夫婦二人でどこへでもオープンで旅行した記憶は生きている限り消えません。
でも二人とも退職して経済的なことや体力的なことも考え、軽自動車に代替することになりました。

50代の初めにこのロードスターと出会ったことは、人生にとって大きな意味があったとつくづく思います。
スピノザやアーレントに出会ったぐらいの意義はありそうですね。

今後はレヴォーグ1.6とミライース(正確にはプレオプラス)になります。

幸い友人が面倒を見てくれることになったので、どうしても乗りたいときには借りにいきます!

いや、実にオープンカーは気持ちが良かったです。
レヴォークも現行販売車種だし、開発時期もかなり後だから、カーブの限界速度とか加速とか、決してロードスターと比較しても悪くはありません。

でも、ライトウェイトFRオープンスポーツとしてのロードスターは日本人にとって最高の乗り物です。
また機会があったらオープンスポーツに乗りたいと思いつつ、今は我がNCロードスターとの別れを惜しんでおきます。


ハンナ・アーレント『精神の生活(下)』P45~P46が面白い!

2018年11月05日 08時28分28秒 | 大震災の中で
2018年11月3日(土)
佐藤和夫さんとハンナ・アーレントの『精神の生活(下)』を読む読書会に参加してきた。
佐藤さんは最近『<政治>の危機とアーレント』を刊行されており、『精神の生活』翻訳者でもある。
第5回になるこの読書会に、4回目から参加させてもらっている。

今回読んだのは第1章の第5節「思考することと意志することとの衝突=精神活動の調性」。

調性とは元来音楽用語で、

広義には、音楽において、あるひとつの音(主音)を中心に他の音が秩序づけられ従属的な関係をもつこと。狭義には、西洋近代音楽の長・短二種の調からなる和声的な調体系をいう。(大辞林第2版-Weblioより)

トーナリティと呼ぶ。曲の全体あるいは一部に、その曲の基となる音や音階が感じられるもの。(yamaha music media coporation)

とのことだそうだ。

大辞林の意味でいうと、「主音」があるということになる。
ここでは思考が主音という比喩になるのかそれとも意志が主音という比喩になるのかという疑問が湧いてくるがそれはまた別のこととして、忘れないようにメモしておきたいのは、P45の次の部分だ。

(引用開始)
いっさいの意志の働きは、たしかに精神活動ではあるが、投企が現実化される現象界に関係する。思考とはまったく対照的に、いかなる意志もそれ自身のために生じることはないし、その行為自体において自ら充足することはない。

いっさいの意志の働きは、<何かを意志すること>がこの<何かを為すこと>へと変化してしまうと、たんに個別的なことに係わっているばかりでなく-そしてこの点が重要なのだが-、自ら自身の終わりも予期しているのである。

言いかえると、意志する自我の通常の様態は、落ち着かなく、不安で、憂慮(Sorge)しているものなのだが、その理由は、たんに魂が恐怖と希望に満ちた未来に反応するという点にあるだけではなく、けっして保証付きというわけではない<私ができる>を意志の行う投企が前提としている点にもある。意志が憂慮しているという不安は、<私ができ、しかも私が為す>によってのみ、すなわち意志独自の活動と中断と意志の支配からの精神の解放によってのみしずめられるのである。

(引用終了)

改行を入れて3つの部分に分けたが、実際には一つの段落の後半部分である。


(投企とはとりあえず未来に向かって開かれている可能性のことだ、みたいに考えておくと)意志とは、まだ起こっておらずこれから起こる未来の可能性にむかっていて、それ自身のためには存在せず、行為においても充足せず、実際の行動(為す)が起こってしまうと、「不安と共にある」意志も「終わる」、と書いてるように読める。

アーレントの意志は、かなり「微分的」なものに見えてくるではないか。
あるいは、存在しない場所に息づくベクトル、もしくは志向性が内包するものといってもいい。

読書会の参加者(学者の方)から、
「この部分、何をいっているのか分からない」
「アレントは意志を否定しているように読める」
というコメントが出てくるのも納得できる。

佐藤さんからは、この精神の生活の下巻の中心となる関心が意志であることはまず間違いないのであって、アーレントが意志を否定しているとは考えられない、との応答があった。

もう一人のアーレント研究者の方からは
アーレントに意志があるかどうかは微妙だが、あるとすれば「許し」と「約束」においてだろう
という補足があった。

日本語の国語教師から感想を言わせてもらうと(つまり哲学的とか政治学的な意味はよく分からないまま、ということです)、アーレントはかなり「レトリカル」な文章を書く。だから、アーレントがいいたいことをあられもなくガツンと書くと言う感じではない。一読したところ

①古代から連綿と続いてきた哲学における「思考」の優位を現実からの引きこもりとして捉え、
②ここで読み始めているヘーゲル&マルクスをそれに対置しつつニーチェとスコトゥスの主意的な思想にふれ
③なおもアーレント的な「意志」をその関門をくぐり抜けさせることによって
④結果として「救いだそう」としている

ように見える。

國分功一郎氏の『中動態の世界』におけるアーレントの意志論批判から始まった私にとっての「アーレントへの旅」は、ちょっと今面白い局面を迎えつつあるという印象だ。

國分氏が「中動態」概念を適用した方が理解できるとして挙げている例が「謝罪」や「依存からの回復」であり、この読書会で話題の中心になっている「意志」は、「許し」と「約束」という場所に立ち現れるのだとすれば、これらはどちらも

思考と行為の間(裂け目)に瞳が向けられているという感触を私は押さえることができない。

國分氏はアーレントの意志論を批判し、読書会ではアーレントの意志論の記述が「意志の否定」として「読まれたり」、あるいは「読めない」テキストとして指し示されたりする。

単に「ダメ」な論の展開というのではないのは確かで、そこには確実にアレント的テキストの欲望が指し示すアレント的「意志」があたかも幽霊のように立ち現れてきている。

そこが面白い。

境界線の近傍に立ち現れる幽霊のようなオブセッションに形を与えるということを、けっこうみんなやろうとしているのかもしれない、と自分の狭く小さい主題の中に取り込みつつ、感動しながら読書会を「経験」していた。

最近、自分で感じたこと考えたことをあまりにもたやすく忘れてしまうので、誰か他の人に観てもらうということをちょっとだけ意識しつつ、メモしておく。