龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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森鴎外『渋江抽斎』を読んでいる。

2019年01月27日 00時41分46秒 | 大震災の中で
森鴎外の『渋江抽斎』を読み返している。
正確には、若い頃途中で放り出したものを再び拾って読み直しだしたというべきなのだが、ともあれ息子の本棚に残っていた岩波文庫を手にとって、何の気なしにパラパラとめくっている。
石川淳は『森鴎外』という文章で鴎外晩年の史伝物を 「婦女童幼の智能に適さない」とかいっていたそうだが、わたしなどはいわゆるその 「女子供」の典型で、還暦過ぎても知能は高がしれている。
いや、今時は こんなことを書いていると「婦女童幼」をバカにしたカドで石川淳も私も同様に槍玉に挙げられてしまうだろうか。

平たくひっくり返していえば歴史の考証をしていくような 「辛気臭い」文章は流行らない、ということなのだろう。石川淳はその毀誉褒貶の毀と貶に対して(昭和最後の文士的に)開き直ってみせた、と見ておくべきかもしれない。

ともあれ、生意気盛りの二十歳過ぎの頃、石川淳を背伸びして読み続けてはいたものの、石川淳が 「小説」と呼んで絶賛する鴎外晩年の史伝モノの良さは全くピンときていなかった。だから『渋江抽斎』を読んでみても、ただページをめくるだけで何が面白いのかさっぱり勘所が掴めないままだった。
それが、今読んでみるとなにやらとても面白いのだ。
小林秀雄が読めなかったのに橋本治の『小林秀雄の恵み』を読んでからちょっと身近に感じられるようになったのと、ちょっと似ている体験かもしれない。

テキスト自体はなかなか読めないけれど、テキストの海を泳ぎつつ表現しようとしているその営みなら読める。

そういう意味では石川淳がいう〈森鴎外においては史伝こそが 「小説」だ〉
というのは当たっていなくもないのだろうけれど、やっぱりちょっと不親切(そんなことをいうとまた 「女子供扱いされるんだろうが、そう思うのだから仕方がない)だ。

とりあえず、史伝における想像力は、 「できるもんならやってみろ」とこちらを突き放すような厳しいものだ、ということなんだろう、と理解しておく。

なぜ面白いのか。
(史伝物で思い出した。『やちまた』も詠まなくちゃ!)

ただ想像力で何かを想像するというのではなく、歴史において様々な考証(テキスト収集もあるが、人を尋ねて聴き回ることもある)を重ねて、言葉の海から波の波動の痕跡のようなものを見つけ出す 、比喩的にいえば「宇宙物理学」のような作業につきあっているように感じられはじめる感覚があるから、といっていいだろうか。

「あり得べき」ものや人に語らせつつ、あり得べきことをそこから見出して 「想像する」という営みが面白い、といってもいいかもしない。

そこにはもちろん探偵小説的な面白味もあり、史実とどこかでリンクして 「歴史」の基盤を感じさせる手応えもあり、それでいで今までだれも 「映像化」にせいこうしていなかった幕末の医者 「渋江抽斎」を見事に蘇らせているという小説家の 「腕」の見事さもある。

とにかく、二十歳の頃には読めなかったテキストが六十歳なら読める、ということがある。
それを知っただけでも嬉しい(笑)

鴎外自身が医者であり、抽斎もまた医者であった、ということもあるだろうし、鴎外がしだいにその歴史的な人物と鴎外自身のテキストの中で出会っていく様子が 「醍醐味」の一つになっているということもあるのだろう。

だか、そんなことどもはみんな、二十歳の時だって知識としては知っていた。
だから、テキストが読めるというの、私程度の人間にとっては 「知識」の有無の問題ではないのだ、とつくづく思う。
今更鴎外の史伝を読むという行為自体、もはや人生の終わりが近い、ということなのかもしれない、とも思う。
とすれば、これは盆栽とか石磨きをする代わりに 「鴎外磨き」を始めただけのことなのだろうか。そうかもしれない。そうでないのかもしれない。
ともあれ、森鴎外『渋江抽斎』は、メチャメチャ面白い読書体験になっている。

もしかするとテキストを読むということは 「分からなくてもいいんだ」ってことが身体レベルでわかり始めている、のかもしれない。
つまり、テキストを読んでいる間は、テキストの中を生きている、のかもしない、という意味で。
このあたり、もう少し考えてみる意義はありそうだ。

『カササギ殺人事件(上下)』感想(ネタばれになるかなぁ……)

2019年01月10日 00時04分05秒 | メディア日記
2018年後半大評判になった
『カササギ殺人事件』(上・下)
を昨夜読了。
(2018年の)9月いっぱいで仕事を辞めてから意外にも本を読む時間が足りなくなった。この3ヶ月で数えるほどしか読んでいない。

とても意外だった。

仕事をしていたときには空き時間を探して読んでいたせいか、仕事をしていた割には本も読んでいたような気がする。図書館に常駐していたこと、根本的にヒマな窓際の最期だったこと、と理由は沢山あるに違いない。それにしても仕事を辞めて家事(孫の世話とかいった育児類似行為はなし!)に専念したというのに、この本の読めなかさはいったいどうしたことか。

もしかすると、家事の合間に本を読むにはそれなりのスキルが要るということなのかもしれない。
「仕事」は突き詰めていえば 「自分の」仕事ではない。どれほど内面化していようと他者によって与えられ課された 「仕事」だ。
それに対して家事は自分の仕事だ。特に私のように仕事をそこで中断して家族のために家事をやることを選択した場合、家族の世話をするという意味では 「他者」からの依頼というか要請というか必要によってやることになっている仕事だ。
他方、それは自分のための面倒な 「雑事」ではなく、病気の家族を支える 「ミッション 」でもある。
そういう意味ではお給料のために行う仕事よりも内面化の度合いは強いともいえるかもしれない。

だが根本的な問題として言えば、本を読むという自分の楽しみ、趣味と比べて、端的に 「家事が楽しい」ということがあるような気がする。

ミッションとして家族のために新しい仕事を覚えていく楽しさは、新婚の 「妻」もしくは 「夫」の快楽についてそれは幾分か似ている、といえるだろうか。

そういうこともあるかもしれない。

だが、それだけでもなさそうなのだ。繰り返しになるが、 「家事それ自体」が持つ楽しさ、というものの魅力に心がとりさらわれているのではないか、という疑念(特段それ自体としては悪いことではないが)が兆している。

振り返ってみると、本を読む行為のは長らく外部(社会)との軋轢から身を退避するために有効な手段だった。本を読む行為自体の楽しみ(たとえば意外な物語の筋にカタルシスを感じるとか、逆におなじみの物語の筋に身を委ねて安心して時を過ごすとか、あるいは自分では言葉にできないでいるもどかしさを言語化してくれることによって 「それ!」と指さされて構造化がなされる快感や、目を逸らしている何かに別のところから形を与えられ手瞳をそらせなくなる異和を味わうとか、テキストの織物が次第にずれていって、物語の、水準ではなく表現の水準での逸脱を味わわせてくれるとか、もしくは単純に未知の世界観で頭をガツンとやられるとか、気がついたら引き返せないところまで誘われていて途方に暮れる……etc.)ももちろんある。それなしには生きていけないものになっている、ときってもいい。

それなのに、 もしかすると短期的には「家事」の方が楽しいかも?

これはしじっくり考えてみる必要がありそうだ。

さて、それはさておき。
そんな中で読み始めた
『カササギ殺人事件』
は、評判に違わず家事の魅力に抗ってでも夜中に読み続けさせるパワーがあった。
翻訳本格ミステリーが好きな人は、直ちにアマゾンクリックすべきだ。よしんば期待とは違っていたとしても、ミステリ好きならこれは読まなければならない種類の本といって差し支えあるまい。

もちろん、読み終えた後の不満というか、寂しさはある。それはこの本を読み終えてしまった、という寂しさだ。ミステリーにはつきもののそこはかとないさみしさ。それはある種のノスタルジックな気分と無縁ではないのかもしれない。
私がもし忙しく仕事をしていたときにこの本を読んだとしたらどうだっただろう?
そんなことを考えさせるのは、この本の力なのか?はたまた個人的な環境の変化ゆえなのか?

しかしとにかく腰巻き惹句の
「全制覇(4冠)・第1位」
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このミステリーがすごい!
週刊文春ミステリーベスト10
2019本格ミステリ・ベスト10
ミステリが読みたい!
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はダテではない。

上巻は第二次大戦後のイギリスの田舎町で起こる事件を解決しようとするドイツ生まれの探偵。彼は末期ガンに侵され、これが最後の事件になることを自覚している。
アガサ・クリスティに対するオマージュに、満ちたレトロな本格ミステリの趣だ。
ところが下巻ではその作品が全く別の意味を持ち始める。
作中作ばかりではなく、作品の読み手である編集者の側にも「事件」が起こり、後半は作品内作品とその外側の作品とが呼応しつつ、怒涛の結末になだれ込んでいく……。

とにかく読んでください。
面白くなければぜひご意見を(^_^)




このブログ(カンガルーのふて寝)、面白い。

2019年01月08日 11時56分44秒 | メディア日記
「ブリキの馬」 : カンガルーの不貞寝


「カンガルーの不貞寝」というブログ、外国の小説で何を読もうかな、と思ったときに参照するとたよりになる。 このブログ子 に出会わなければ、例えば『ハイファに戻って』を読むこともなかった。
『ブリキの馬』をアマゾンで見たら、安かったので即クリック。
お正月明けの一冊はこれかな。
まだ昨年話題だった『カササギ殺人事件(上下)』が残ってる。
大沢在昌と貴志祐介の1ブックオフ100円~200円本が終わったらリズムを整えて 「読む」生活を再開したいな。
本当は書く方もしなきゃならないんだけど……。