ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

⑧ 藩士のみならず 家族まで抑留された

2017年03月10日 00時04分44秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

(戊辰戦争を描いた 「峠」の主人公)河井継之助は、

江戸時代末期の武士。越後長岡藩 牧野家の家臣。 

「継之助」は 幼名 そして 通称。

つぎのすけ と読む。 (つぐのすけ だと思っていた)

その 長岡藩の  戦後処理 の はなし。

「越後・長岡藩士および家族の 大原・猿沢の抑留記録の紹介」

という 長い 長い 題の 冊子 ? がある。

3年くらい前、 著者から いただいて 一読していた。

それを も一度 読もうと 我が図書室へ、入った。 

A4判 だが  薄い冊子だから 見つけにくい。 

これまで 「戊辰」に それほどの 興味がなかったので

図書室に 「戊辰戦争」の コーナーは なかった。

読了のあと あまり考えずにポイと 置いてしまった。

そのうち 出てくるだろう から

自分の 図書室からさがすのは あきらめた。

xxxxxxxx

地元の 図書館へ 借りにいった。

その本があるはずの 図書館は 休館日だった。

少し離れた 図書館に 移った。

同じ本では ないが あの本の 最初に 投稿した

東磐史学 「第38号」を 見ればよい。

「越後・長岡藩士および家族の 大原・猿沢の抑留記録の紹介」

は あった。 題も 内容も 変わっていないようだ。  

xxxxxxxxxxxxx 

東磐史学・ 第38号 (平成25年)発刊。

この 話は 「峠」の 続き のようなもの。

新政府に 降伏したあと

生き残った 長岡藩士、と その家族は 

どうなったかの はなし。 つまり 戊辰戦争 後始末。

新潟県長岡藩の家臣(家族及び郎党を含む)のみならず 

同盟藩のものも 含めての 700余名が、

仙台藩に お預けになった。 そのうちの

藩主や ご家中 100名ほどは 仙台に。

他 600名ほどが 

岩手県一関市 ( 合併前は 東磐井と言われたところ)の

大原・猿沢へ 抑留された。

磐井郡 東山に着いたのは 9月26日。

それからの 41日間  ここで 暮らした。

大原など地元の人々は 自分の生活が 大変にもかかわらず

 

生活用品を 集めて 避難者に 与えたという。

 

  、

  

太い線 が 行くとき・・・  点々が 戻る とき 

 

ここに 住んでいたのが、なぜ、40日ぐらい だったのか。

それだけで なぜ、 長岡へ 帰ることになったのか、

移動したのか、させられたのか が わからない。 

肝心のことだから「もう1度」調べる。

xxxx この本 には

長岡藩の 家臣 などは

「領土が確定するまで、敗残兵として、

 米沢藩を経て 仙台領に 預けられた」

とある。  領土が確定するまで、の 

暫定処理だったということか。

それから なぜ 東磐井 だった のか。

戊辰戦争の戦場になった 場所から 

離れていたことが 理由のひとつ。

それから、

仙台藩家老の 但木土佐の(先祖?)の 采地が 大原。 

坂 英力、そして 

三好監物 も 黄海を 采地としてる

こともあるだろう と している。

xxxxxxxxxx 。 

このような 論文は、常体で書かれることが 多いのだが

この著者は 

「同盟藩の 忠臣として お世話をしたと思います」など

敬体で 優しく 書いている。

-------------

 東磐史学 第38号には

 ほかに 二人 戊辰戦争を 論じている。

こっち は 東磐井への 移動について、

xxxxx  長岡藩士たちは

「5月 落城帰藩 困難と流浪しながら 

北へとあてのない逃走に旅立ち、

行き着いた長岡藩兵が 仙台に 六百人も駐留していた。

このまま降伏したが、俄か仕立ての仙台藩の事務局は、

厄介払いに 北方行きを 許可し、

東磐井に 逃れるように 計らった」となっている。

どっちが 史実なのか。

どっちでも 同じようでもあるが

家族も 移動したのを 考えると

先の方が 正しいように 思われる。

xxxxx

いつか また 調べて みましょ。

今日は これで 2017・3月10日(金) 記 


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