ゾウさんと暮らす

78歳の 夫ゾウさんと 暮らす 
75歳の 妻が  それなり の 
元気を 綴っています。

3 歌枕を 訊ねる 旅は 今も

2017年12月13日 00時05分12秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

松山行き 3 (ついで)

2017・10月25日(水)  まだ日が高い。

松山城からの 通り道 

芭蕉が 見たかったという (奥の細道)の

緒絶橋に 寄る行くことにした。

小路を 行き過ぎてしまった。ぐるり 回って 戻った。

駐車場を探して 彷徨していたら 役所めいたところ

に 着いてしまった。

なんとなく 方向は わかるが、一応 誰かに

聞いてから、と 思って 建物を 見たら 市役所だった。

大崎市役所 本庁舎の前の 松の木のわきに 

「旧 古川代官所跡地」の 標柱を 見た。

旧古川代官所の建物は 昭和31年まで この地にあった。

祇園八坂神社に移築された が、昭和60年に解体された、と。

xxxxxxxx  車を 置かせてもらって

宮城県大崎市古川・南町 緒絶橋 (おだえばし)まで 歩く。

緒絶橋のたもとに立っている 歌碑には、

後拾遺和歌集・左京太夫道雅の歌が 刻まれている、

と 聞いていたが。。。 下の写真・ 左手の 石碑だろうか。

文字 読むことが できなかった。

右の 長方形のは 松尾芭蕉の 句碑。(あとで書く) 

 みちのくの をだえの橋や 是ならん 

  ふみみふまずみ こころまどはす

緒絶橋と呼ばれることになった 由来は

平安時代に 嵯峨天皇に 寵愛された女性『おだえ姫』

都を 追われて、 悲観した 姫は 

この川に 身を投じた、という。

『玉の緒(=いのち)』が 絶えた川、

それで 緒絶川と呼ばれて

平安の時代から 悲しい恋の 歌枕として

使われるようになった、とか。

xx再度xx 

             右手の石碑  ↑ が 

松尾芭蕉の 句 らしい。 芭蕉と曾良は 平泉に向かう途中に、

歌枕として有名な あねはの松(私も 探し出している)

や 緒だえの橋などが あるというので、近くまできた。 

だが 下記 理由で 見つけることは できなかった。(原文)

  十二日、平和泉と心ざし、姉歯の松・緒だえの橋など聞伝て、

  人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、

  終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。

勿論「奥の細道」は 虚構も あるというから

本当は 来ているのかもしれない。

句は 残っていない。

隣の小さな石碑には、

初雪や 雪かかりたる 橋の上

芭蕉が 深川大橋で詠んだ

初雪や かけかかりたる 橋の上 からとったらしい。

なんで 句が 変えられたのか、

一応 知ることはできた、でも ここには 書かない。 

xxxxxxxx

ここには 江合川の本流が 流れていた、と。

川は 東側に進路を変えて、川筋だけが 残った。

それで 古川 なのらしい。

松尾芭蕉が 見つけることが できなかった(らしい)

歌枕の地 この緒絶橋 を 私は 

以前に なにかの ツアーできて ちらりと眺めた 記憶がある。

芭蕉は ここに 来なかったのだから

たずねる 必要は ないのかもしれないが

それでも、いつか 来てみたい、と 思ってはいた。

20年かけた 細道 追跡は 終わったことにした

が、それでも 文章にあるところは 気になる。まだ

ぽつんぽつん と 残っている ところは いくらか ある。

塩竃から 松島への海路は 現在の 航路では 本当ではない、

が、船を チャーター する方法はあると、松島で聞いた。

1万円 かかる と。

最上川は 川の淵の 道を なぞっただけ。。。。。

だから 厳密にいえば 

残念ながら、残っているのだ。

もう 年だから……。あきらめなさい~~~。

緒絶え館 は 休みだった。

写真 右手 藤棚が ある方に 行ってみた。

藤の花が 咲くころを 想像して きた。

松山城 散策のおかげで 古川も 見たことになる。 

良かった。


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2  松山の 遠 藤 氏の お城

2017年12月12日 00時11分14秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

松山行き 2 

10月25日(水)午後

大崎市松山の「ふるさと歴史館」博物館をでる。 

御本丸公園へと 続く道を 行く。

松山城 またの名を 千石城。

三ノ丸のすぐ下に 駐車場がある、と 書かれていた が

今日は 水道工事があって 徒歩でしか

入ることが できない。

この 写真の 前の 大きな駐車場から 歩くことに……。

警備員さんは 公園まで 15分ぐらいです、と。

徒歩15分。 私は 30分をみればよいだろう。

 

千石城は 北へ伸びた丘陵に 築かれている。

 

ひろい道なので、ゆっくりした 気分で登ることができる。

途中に トイレがあった。

今度、が あるかどうか わからない が 

桜の木に 花が咲くさまを 想像して 歩く。

御本丸公園として 整備され 

コスモスを 育てている、というが


10月下旬だから コスモスは 当然 終わっていた。

坂を登る前に  警備員さんが 言った

15分は 過ぎていた。

これが (下) 松山人車軌道。

この レールは 祭りの日だけ 使われる そうな。

博物館の 入口に ↓ 展示されてあった人車が 走るのだ、な。

ここに 置いてある訳も 説明されて あった。

 

千石城は 南端頂部の 本丸から

北へ向かって 二ノ丸・三ノ丸と続く縄張だ、というが

良くわからない。 

三ノ丸一帯は 公園として 大きく 変えられたそうなので、

仕方ない ナ。

土塁状の地形が 巡っている。

櫓台のような 高い地形もある。

三ノ丸から 南へ遊歩道があり、

二ノ丸から 本丸へ。

ここに  城主 が いた。 

遠藤氏 から 石川氏~ 吉内氏~ 茂庭氏 と。

千石城を 有名にした 「大崎合戦」

その合戦のときは 遠藤 高康。

伊達氏の 軍勢は この松山城に 集結したのだ。  

天正十六年(1588)は 430年ほど前になる。 

どんな 作戦を たてていたのだろう。


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1 松山城 と 遠藤氏

2017年12月09日 00時13分27秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

佐沼城より 先に 行ったのに

情報が足らず、 記事 遅れてしまった。やっと。

xxxxxxx 松山行き 1 xxxxxxxx

仙台城へ 行ったとき

 伊達政宗公 生誕450年記念事業

「 政宗と 遠藤氏 

と いう チラシを 見つけていた が 

いろいろ あって 遅れた。。

宮城県 大崎市 松山町 「ふるさと 歴史館」へ 

向かったのは 10月25日(水)のこと。

歴史館の 駐車場は 混んでいたので 体育館 ↑ の 

方へ 止めた。

 

日本レコード大賞の フランク永井展示室? なんで ?

 フランク永井は ここの 生まれだった。

松山地域出身なのだそうな。 中には

・レコ―ド ・愛用品 ・トロフィーなどが あった。 

ゾウさんは 真面目に 眺めていた。

「おまえに」は 歌うことができる。

xxxxxxxxxxxxxx 

特別展 「政宗と 遠藤氏 」は 

写真を 撮ることはできない、ので 

調べたこと を 貼る。

遠藤氏のことは

遠江の 藤原 で 遠い 藤 …… 遠 藤 

と 言うことしか知らなかった。

なんで 仙台藩と 関わりあるのだろう。

ここの 松山城は、文覚館・千石館の 異名がある。

これも 不思議。 

xxxxxxxxxx

築城年代は 定かではない。

鎌倉時代頃に 遠藤氏によって築かれた、伝わっている。

遠藤氏は 藤原南家の流れを汲む 文覚上人(遠藤盛遠)の 後裔。

遠藤盛継が 鎌倉公方 足利満兼から

志田郡・玉造郡・加美郡の郡奉行に任ぜられて

応永8(1401)に 陸奥国へ 下向した。

天文5(1536) 大崎氏の内訌に 際して、

15代 遠藤光定が 伊達稙宗に従って

大崎氏の 古川城攻めに 参陣。

天正16(1588)の 大崎合戦のときは 遠藤高康。

伊達氏の軍勢は この松山城に 集結した。

大崎氏の 中新井田城攻めの 軍議。

天正18(1590) 

秀吉の 奥州仕置きにより 大崎氏や 葛西氏は 改易となる。

大崎葛西一揆を 経て 伊達氏の所領再編により、

遠藤氏は 陸奥国登米郡 石森へ 移封となった。

xxxxxxxxxxx まあ こんなところでしょう。

博物館の 玄関に、

岩手でも 舞われる 金津流の 鹿踊りの 装束があった。

同じ 仙台領 だから ?


xxxxxxxxx 追 加  xxxxxxxxx

西麓には 遠藤氏所縁の寺院・桃源院がある、と。

遠藤氏の 居館が あった所らしい。

供養塔も ある、と。 xxxxxxxxxx

次回は 松山城へ 


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5 侍500余、百姓など2000余人の首壇

2017年12月02日 00時11分47秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

城をぐるりと かこんでいた 陣地あとを 知る。

この 場所を いままで 知らなかったので

これが 今回の もうけもの。

調べているうちに 伊達軍の 宿舎も 見つけた。

佐沼中学校 500メートルほど 北西方向に あった、と。

次、、、、首壇に 向かう。

             ↓ この木のあたり

伊達軍は  1591年7月、

佐沼城に立て籠もった一揆勢を 討伐した。

政宗文書によれば 

落城させたあと、

「屈強の侍500余人、その他百姓など 2000余人」

を 撫で斬り(要するに皆殺し)にした。

2500人ほどの 首級を埋葬した塚が 

これ、首壇と 呼ばれている。

尖っている ↓  石碑があるところである。 

塚へ登る前に  解説者が      (上の写真)

この木の下で「たもの木 だとか ハルニレ だとか……」

言い出したので 耳を 澄ませた。

「…… 言われているが そうではないようです」に 収まった。

2年前 博物館で知り合ったひとに 頼まれた のが

この木の 名前だった。

植物ブログを出している ゾウさん、分からなかった。

この木が 首壇と どうかかわっているのだろう。 

さて

 (2年前)

今回は わたしだけ 左手の 墓地の方向から入った。

話は かすかに 聞こえただけ。

残念だが 仕方ない。

先に 登れば 皆さまの邪魔になる。

後ろから ついて行けば 

その壇は、狭いから 

結局 話を 聞く場所には いられない。

それで 以前に知っていた 墓の方向から 入ったのだ。

xxxxxxxxx

解説の 人は 何やってるんだろう、と 思った だろうな。

帰りは 歩くだけだから、ますます 私は 遅れる。

せめて ゾウさんだけでも みんなと

行ってくれれば いいのだが 写真とりで 忙しい。

(2年前)

まあ とにかく 無事に 博物館に 着いたのだから

良しにしよう。

館内で、知り合った方と おしゃべりしていたら

ゾウさんは こっくりを はじめた。

疲れたのだろう。

これから 伊豆沼に行くのだから ちょうど良い。

xxxx

2年前来た時も 怪我(2010年)をした後だった 

の だ が    まだ 元気があった。

みんなと 一緒というのは 無理かもしれない ~~。 


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4 佐沼城を ぐるりと 囲んだ 陣地 

2017年12月01日 00時19分53秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

昨日の 続き

葛西一揆(天正18年~天正19年)の 佐沼合戦での 

政宗本陣のあったところ。

この写真は 2015年 10月 27日に

ゾウさんと 来たとき、ゆっくりと登ったときのもの。

本日は 皆さんと一緒だから 迷惑をかけないように

下で待っていた。 次は

伊達藤五郎 成実の陣地へ行くために 

佐沼中学校の敷地内に 入った。

日曜日だから 人影はない。

標柱には 史跡 伊達藤五郎成実の陣地跡

標柱 案内人のいる 方向に

説明が かいてある。 

天正19年(1591)夏

葛西大崎一揆の戦いで 伊達政宗の軍勢が

佐沼城を包囲したとき、政宗の従兄弟で 

勇猛な武将として名高い成実が

陣地を構えたところである。( …… 他)

続きは 意味が分かりにくかった ので

説明を聞いたときの メモにあるものを 加えて 記す。

現在、校庭となっている場所の 大半が 

西の洞( 西の堂 と なっている 資料がある )

と 称する沼で、城の防衛に役立っていた。……

成実の 陣地は

ここより 東へ50メートル 行った 場所、だと。

城に 近いところ、ということか。

西の洞沼と 迫川の 向こう岸にも 陣地。

現在の 鹿が城大橋を渡って 整骨院、右手に 塾 

さらに 入って 西側にも 陣地があった。

小さな 城を ぐるりと 囲んだのだ。

xxxx 今日は ここまで

 


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3 佐沼合戦の城 ~~~

2017年11月30日 00時04分27秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

③ 昨日の 続き。本題に入る。

佐沼城跡へ 登って 学芸員さん? の 説明を受ける。

 (城跡・東方向)

佐沼城 台地の部分は それほど 広くない。

ここへ 籠って の 戦さを 想像してみる。 

狭い が 機能的だった のか ? 

こんなことを 考えながら 

解説者の 話を聞く。

おぼえが 悪くなったから

知らなかったことは メモしておかねば 忘れる。

メモをしていると みなさんより 遅れてしまう。

写真も 撮りたい が 1枚ぐらいで 我慢して

なんとか ついて行く。

次は 西舘  

政宗本陣は ここから 見えるはず だが

今日は 草が濡れていて 歩きにくい。 我慢。

  ↑ 本陣の 標柱が見えてきた。


政宗本陣は この 写真の中央 石碑があるところ。

佐沼中学校 正面門の方向に行くと 急な 階段がみえる。

私は 登らない、で 待った。(以前に 登っている)

ここは 佐沼城の西の丘陵・砂子山。

小さな 山というより 丘。 

葛西一揆(天正18年~天正19年)の 佐沼合戦での 政宗本陣。

xxxxx

今日は ここまで


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2 大崎一揆は 「独眼竜の忍び」に 詳しい 

2017年11月29日 00時22分59秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

平泉の 道の駅に 行ったときに

ポスター「政宗と 登米地方」を みてしまった。

佐沼城本丸祉の 脇に 建物がある 登米市歴史博物館

で 佐沼を 歩く、がある、となっている。

佐沼の 戦跡の 場所は 自分で探して 歩いている が

解説を 聞きたい、と 思った。

 城 跡

大崎一揆は いろんな本で 読んでいる。

小説では 平谷美樹 著 

「伊達藩黒脛巾組・独眼竜の忍び」 上下巻を よんだ。

小説だから セリフが 多く、分かりやすい。 内容

天正18年、

豊臣秀吉から 減封処分を受けた伊達政宗を陥れようと、

徳川家康は 伊賀忍者を奥州へと差し向けた。

家康の動きを察知した政宗は、

精鋭忍者部隊・黒脛巾組に 企ての阻止を命じる。

奥州忍者戦争、ここに開幕!

とある。

上下巻を 読んだころ、

博物館で 知り合っていた人に「佐沼城」と

関わりある「首壇」

の 調べものを 頼まれたことも あって、

資料集めも 兼ねて、佐沼城に 来たことがある。

2015年 10月 27日。

現地 2度め だから 概要を 知った気になっていた。

xxxxxxxx

本を読む かなり 前

大崎一揆のことなど ちっとも 知らなかったころ。

何かの勉強会で 佐沼ツアーが 組まれてあって、

良くわからずに 参加したことが あるのだ。

xxx もちろん 680年の 歴史も 知らない。

佐沼城主は 照井氏の後、

西氏、大崎氏、津田氏、亘理氏へと 変わる。

明治4年(1871) 廃藩置県で なくなるまで 続いた、と。

今日は ここまで。


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1 鹿が 生き埋めされた 城

2017年11月28日 20時06分53秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

余談 …… 捜しもの ばかりしている。

何をさがしに 行ったか まで 忘れる。

冬が来るまえに やっておかねば ならないこと、も ある。

メモには 風呂修理 コード 移配 川柳の本

物置き 裏の小路 湯たんぽの台 

など かいてある。

こうしておけば 何をするのか、が わかる。

忘れものばかりしているくせに

言葉の 断片で 物を さがすこと、仕事は できる。

機能 すべてが 衰えたわけではない、こと を

喜ぶことにしよう。

xxxxxxxxxxxxxxxx 

  (佐沼城址)

さて

11月26日(日)

宮城県の 登米市歴史博物館へ 行ってきた。

今年は 伊達政宗生誕450年記念の 年にあたるので

宮城県各地での 記念行事が 多い。

その中の 登米市歴史博物館「政宗と 登米地方」 

史跡巡り ~ 葛西大崎一揆の激戦地・佐沼を 歩く 

に 参加したのだ。 

余 談   ……  来年は 戊辰戦争 150年のはず。

その記念の行事、取り組まれているの だろう か。

xxxxxxxxxxxx

佐沼城は、

平安末期の文治年間、平泉の藤原秀衡の家臣、

照井太郎 高直(たかなお)によって 築かれたと 伝えられている。

平泉の近くに住んでいるものは 妙に 反応してしまう。

佐沼城の 概略。

築城の際、鎮護のために 鹿を生き埋めにした、という言い伝えから

別名を 「鹿ヶ城(ししがじょう)」と いう そうな。

この 埋められた 鹿の数を 「佐沼を歩く」、に 

参加していた 女性に 10頭、と 言ってから

あれ 100頭、 かな と 言い換えてしまった。

「歩く」前に 読んだ 資料で 知った、と 思って

読み直しした が、「ない」。証拠が消えた。

帰宅してからも ネット検索を してみたが 

やはりない。 

今日(火曜日)、冬囲い や 裏の小路の 整備をしてから

また ネット 検索をした。

見つからない、

と いうことは 記憶ちがい って ことだろう。

ボ ケ たのだ。

ここ 2年 ボケを しっかりと 自覚するようになった。

認めたくない が、 認めざるを 得ない。

佐沼を 歩く、の 続きは また。 


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赤沼に 住んでいた 義経

2017年09月13日 18時44分56秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

義経北行? ツアー どうですか、

えさし郷土館で 勉強している人からすすめられた。

なんと タイムリー と 思い

詳細も見ないで 申し込んでしまっ。

帰宅後、よく読んだら

すべて ゾウさんと 散策ずみの場所だった。

紫波町 を 訪ねたのは 

樋爪館周辺は 2008・11月

赤沼は 2009年 3月

「蓮華寺の月」九郎義経・赤沼逗留記も 読んでいる。

写真 ピクチャ に 保存されて あった。

文章 おもいだすまま 書いておく。

xxxxxxxxx

樋爪館(ひづめのたち) 五郎沼

 

わたしたちが 五郎沼 周辺を 廻ったのは 

   2008・11月12日  ↓

 

12世紀ごろ 志和郡を治めた樋爪氏の居館跡。

始祖は 清衡の4男清綱といわれている。

その子 俊衡が志和郡を治めることとなったときに

姓を 樋爪とした。

文治5年(1189)頼朝の奥州攻めにあった。 

俊衡 みずから 館に 火を放った、と。

xxxxxxxxxx  次は 赤沼地区。

散策した日は 2009・3月20日。

小説「蓮華寺の月」を 買いに行った ついで。

写真 …… 正面の山も 史蹟だった はず。


白 山 神 社

赤沢地区の 白山神社。 ここは

延暦22年(803)坂上田村麻呂が 建立したらしい。

神社の麓には 鎌倉時代末期に建てられた石碑が 並んでいる。

そこを みて 登ったのだった、ような。

 

藤原経清は 前九年の合戦で

安倍頼時の娘婿として 朝廷側と戦い 敗れて 処刑された。

甥の 遠山師重が 経清の母と 赤沢へ 落ち延びた

 ←(私を消す方法、忘れてしまって)

藤原経清の母の墓と 伝えられている石碑。

ここ 赤沢で亡くなった、その証拠 ?

たぶん これだ、と 思う。 確認してこよう。

私より 大きい 石碑に 驚いたのだった、ナ。


判官堂(義経神社) 紫波町 赤沢

源義経が 神として祀られているなんて……。

平家から逃れて 平泉にやってきた義経が

ひそかに 馬や弓の鍛錬をして暮らしていた、

と 書いてあったような。

水を飲むために立ち寄った井戸で

知り合った娘との間に 子が できた、と。

その ご子孫、現在も 

義経神社(判官堂)を 所有する家に住んでいるという。

義経が利用した井戸は 今でも水がわいている。(上の写真)

義経が使ったとされる弓なども、その家には残されている

それらに まつわる話を 描いている

小説「蓮華寺の月」。 再読しなくては。

書いた方は たしか 地元の 女性。

xxxxxxxxxxxxx

申し込んでしまったツアーは 

2017年 9月15日。日帰りツアー。

解説付き だろうから それに 期待しよう。

今日 はがき が 届いていた。

すすめてくださった方から 業務連絡 ? 

主催者の方 50枚ほどの 資料を 準備された、と

も 書いてある。 さ あ 大 変 !!


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奈良時代の 水洗トイレ

2017年09月12日 13時56分34秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

小物の 片付けは 時間がかかる。疲れた。

ちょい と テレビ タイム。

軽いノリの 「歴史もの」? を やっている。

27時間テレビ ?。 なんだろう。

(24時間テレビというのでは 募金や マラソンを やっている、が)

ビートたけし さんが いる。

70歳前後のはず。 頑張っている んだなぁ。

さて 本題。 xxxxxxxxxxx

「奈良時代の 水洗トイレ」 と 言っている。

久保田城址 のことだろう。  先月 知人に

「縄文時代」と 話してしまっている。時代は 奈良 でした。 

訂正して「お詫び」もうしあげなくて は。

秋田(久保田) 城址 に 行ったのは 2006年だった。

冊子には 2006年10月「真澄を学ぶ」と 題が付いている。

これは 角館 神明社

左に 「菅江真澄終焉の地」碑が ある。

   (終焉の地には 諸説ある)

冊子には 64歳の私も いる

怪我をしていない頃だから まだ? 若々しい。

xxxxxxx

問題の写真・・・ 冊子には 2枚だけ 載っていた。

広々とした ゆるい 崖。「古代水洗厠舎跡」の 簡易標識 

  2006年

想像図が 拡大された のも 載せてあった。

 2006年

テレビで みたような 復元した 建物 は まだ なかった。

次 ネット 検索をしたものを 簡単に 載せる。 

秋田(久保田)城址の 水洗トイレ  

 秋田城跡歴史資料館-史跡公園案内 - 秋田市

で 検索した。(ほかにも あった)

最初に 地図が 出てきた。

トイレの位置は 地図の東側に。

秋田城で 発見された古代水洗トイレは、

沼地の付近に 復元された、とある。

鵜ノ木地区の 付属寺院の 北東隅。  

排泄物は 沈殿槽にいったんたまり、 

上澄みだけが 沼地に流れる構造。 

自然地形を うまく利用している。 

8世紀中頃、奈良時代の最新鋭のトイレ。 

8世紀末・9世紀初めまで機能していた、

と 考えられている。 

平安時代になると なぜか 使われなくなった。

 内部の写真……もある。

私の子供のころ まだ あった ポットン 便所

の 姿を していた。

「水を流す体験」だけ は できる、と。

xxxxxxxxxxxxxxxxx

「秋田城跡ボランティアガイドの会」が 史跡公園管理棟に待機している。

 4月1日~11月30日(午前9時~午後4時)まで

復元整備された史跡公園の説明(無料)を 行っている。 

申し込みは 秋田城跡歴史資料館か 史跡公園管理棟まで。
団体見学希望の場合は、5日前までに

xxxxxxxxxxxx 

菅江真澄の 勉強 まだまだ。

それなのに「義経」に 戻ったりして。

反省はするが 時間が 足りない !! 


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蘭学 は 「西の 津山 東の 一関」

2017年09月09日 20時50分00秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

9月9日(土)午後1時~

シンポジウム 

「杉田玄白 没後 200周年 ーー 東北の 蘭学 ーー」

興味を増やしたくない、と 思うが

東北の、と 聞けば 行かない、なんてできない。

蘭学 すこし は 言葉 名前を 知っている。

なんとか なるだろう。

会場は 一関博物館。

主催は 博物館と 洋学史学会。

知らない 名前は 少なかったから 

そうなんだ、と うなずきながら なんとか 来た。

質疑応答で

私の 前の席の方が 腑分け・豊吉のことを 聞いた。

回答は 少しだけ だった。

私 知っている。

小説「みちのく腑分け始末」が わかりやすい、よ。

一関市の 小野寺苓先生が 書いている よ。 そうそう

「火 --- みちのく一関忠臣蔵」が 発売されたばかり。

余計なことまで 聞こえないように つぶやいた。

閉 会 行 事 

「西の ツヤマ 東の 一関」と いう言葉が 聞こえた。

前の方 聞きもらした。 今日は 蘭学の講義だから 

前の方に 蘭学と つければ 良いだろう。

ツヤマ とは 聞いたことがあるが さて どこだっけ。

大阪より 西の方だと 思うが……。

ツヤマ は なんで しられているんだろう。調べなくちゃ。

外へ出たら 

いつも お世話になっている 女性の 学芸員さん が 

誰かに ご挨拶して いた。

いや 副館長さん だ。

長い間 親しみを 感じてきたものだから

副館長さん と いうことを 忘れる。

さっきの ツヤマ って サンズイの 津 ですか、と 私。

「そうです」

さらに …… ツヤマ って どこですか。

「岡山です」。

ありがとうございました。

岡山市の 津山は 列車で 1度 ? 通ったところだ。

それで 憶えていたのだろう。

岡山? 津山? と 蘭学 ?

全然 繋がらない。

東の 一関 は 今日の 演題にあるように

「高野長英・大槻玄沢・建部清庵 …… 」その他

 蘭学に かかわりがある方が おおい。

私でさえ知っている。

しかし「西の 津山」は 誰 ????

帰宅。 調べた。 xxxxxxxxxxxx

激動する時代の中 洋学の重要性が 高まり、

幕府や 政府は 海外に留学生を派遣して近代化を推進した。

津山からも 

津田真道、箕作麟祥、菊池大麓、箕作佳吉、久原躬弦、箕作元八 ら

多くの若者が海を渡った。

私 …… 箕作 が なんとなく という 程度

ほとんど 知らない お名前。

津山藩にはじめて蘭学をもたらした、という

宇田川玄随、その跡を継いだ 玄真・榕菴 と。

情けない。。。 全然知りません。

津山洋学資料館 には 実物の 『解体新書』。
蘭学が始まったころの資料 が あると。

これが 「西の 津山」ってこと だろう。
困った。また 勉強することが できてしまった。
この頃 また 義経を はじめてしまって ……。 

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・人首町は中途半端 ・もうけものは 鹿おどり。

2017年06月28日 23時23分49秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

えさし郷土文化館  もうすぐ、というところで 

大好きな 太鼓の音.    血が騒ぐ。 

ゾウさんに「休んでいて」と アイスを わたして 

鹿おどり (しし踊り)に 飛んでいく。  

 藤原の郷

 いいなぁ。    太鼓の音。  

カメラを 金網の目から だして パチリ。 

のぞき見しました。  ごめんなさい。

今日は 隣の敷地の  えさし郷土文化館 へ

菅江真澄の お話を 聞きに きたのだ。。

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さて 巻き戻して 午前のことに はいる。 xxxx

企画展 「人首文庫―人と地域をつなぐ文学館―」は

平成29年4月15日(土) ~ 6月25日(日)

ツキイチ 館長講座 第1回のときに この展示を見た。 

  (第2回は 義父の 27回忌 だったので 欠席)

第3回 受講の 26日は午前中があいている。 

人首町を 見学することにした。

人首は ひとかべ と 読む。

人首丸、 史実の 人 ?
阿弖流為の 子。 弟 大武丸の子 など 説が ある。
気になっていた人物の名前が ついている町。
人首文庫も 外観をみたい 、し
城跡も みたい。
すこし 回り道になるが ついでを した。
 
峠 下る。 右側に 鳥居を みたので 駐車する。
 
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人首丸の 霊を弔うお堂が すこし 下に 見える、
ゾウさんが 中には 「なんにもなかった」というので
関わりの 史蹟では あったが 坂道で 滑るといけないから やめる。
間もなく 坂本橋。 人首川を 見つけた。
ここから 東(右)方向が 人首   
  人首橋 を 渡ると
 宮沢賢治の 詩。

奥州市江刺の東端、種山ヶ原の麓に位置する 宿場町「人首町」。
賢治も 度々この地を訪れ、詩『人首町』を 書いた。

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宮沢賢治の 詩 「人首町」

雪や雑木に あさひがふり
丘のはざまの いっぽん町は
あさましいまで光ってゐる
そのうしろには のっそり白い五輪峠
五輪峠のいたゞきで
鉛の雲が湧き また翔け
南につゞく 種山ヶ原のなだらは
渦巻くひかりの霧でいっぱい
つめたい風の合間から
ひばりの声も聞えてくるし
やどり木のまりには 艸いろのもあって
その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある

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人首城跡は 見つけられず。

マップは 印刷していたが 方向音痴になって、うろうろ。

こうゆうときは 足は 痛くならない。

身勝手な 足である。

そのうち トイレに行きたくなって……。

コンビニも 道の駅も ないので、 断念する

 人首小学校。

本物の 地図を 作成してから また 来ましょ~~~。


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義経の影武者の碑・いつか見に行こう  

2017年06月19日 14時00分42秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

忙中閑あり という 言葉は 

忙しい、けれど 楽しい、という ニュアンスを 感じて

好きな言葉にしていた。

だが、意味を 調べたことがなかった。

ーーーーー 調べた ------

多忙を極める中にも わずかな暇はあるものだ、

という意味合いの表現。

忙しい中に暇を見出して満喫せよ、

などのような意味合いで用いられることが多い。

ーーーーー と あった ----  間違い なかった。 

机の上を 片付けないと ブログを 書く気になれない。が 

あまり 乱雑なので 面倒になって しまっていた。

忙中閑あり、にして 楽しんで 片づけてみよう、っと。

だれも やってはくれないのだ、から と、 昨日から

「これを やらないうちは パソコンを開かない」

と 決めて、 まずは 紙の 資料を 一か所に 移した。

(あとで、 紙を ファイル することに)。

小物入れの 位置を 変えて、 プリンターを 使いやすい 位置に 移動。

前の プリンター は

吸収体が ダメになったが パソコンからの 印刷だけは できる。

2台の 置き場所を 確保する。

机の 上に 残った メモを 読んでいたら

「義経の影武者」の 文字 あり。 

栗原市 金成 津久毛橋城址 杉田太郎行信 の 碑 など 

かいてあった。

テレビを みながら メモしたのだ。

 ゾウさんから もらった パンフレット

津久毛橋 ?  曾良日記にある 津久毛 だ。

行ったことが ある はず だが、 記憶が 薄い。

となりの県なのだから 一応 近いのだ。も一度 行ってみよう。

影武者 のことは 

平谷美樹 「義経になった男」 全4冊に ある。

「影武者」は また 調べて 書くことになるだろう。

-----  今日は ここまで。「

明日の勉強に 出かける 準備しなくてはならない。

忙 中 閑 あり でした。


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一関市博物館で 「蓑虫」さんに であった 

2017年06月16日 14時12分47秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

パソコンの 調子が悪かったこともあって ブログ休んでしまった。

下書きを 急いで 推敲しなおして …… アップしよう。

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一関市博物館 厳美町で 「蓑虫山人」展を やっている。

正確には 「蓑虫山人の足跡を訪ねて ― 一関・平泉 ―」。 

明治時代の 一関地方の姿を 知ることが できる。

6月25日まで。

「蓑虫」の 名前は 

旅の姿をミノムシになぞらえた、こと と

美濃国(現岐阜県)出身であること、から らしい。

土偶が 好きな 私は    ↑ 

このポスター見てすぐに 右上のものが 気になった。

展示室に入るやいなや、これを 探した。

見つからない どこ? どこ、

と 思っている うちに 下の絵を 見つけてしまった。 

 

「曽慶村熊谷佐十郎宅地にて器物奇石掘出之図」

う~~ん  ↑ 

この 道具、 見たことがない。

古墳時代から ある 釿 (ちょうな)に 似ているが 

これは 先が とがっているから 違 う ?

鉞(まさかり)?  鉄斧 ?  カッチャ ?

この鋭角の 道具の 名前 

「大工道具物語」の 絵図 には ない。

サイトも 探したが 見つからなかった。

まあ なんでも いいや。

蓑虫さま は 考古学が お好きだった ようだ。

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肝心の 土偶は 展示室、まんなか 辺

「保呂羽の出土品を 描く」に あった。

 

縄文晩期前半の 土偶だった。

保呂羽村 は 藤沢。 行ってみたくなった。

さて 変わった風体の この方が 蓑虫山人さま。

13歳から 48年間にわたり 全国各地を放浪した人。

一関を含む 各地の風景や 風俗を描き残した。

岐阜出身の 絵師。

明治10(1877)年に 初めて東北を訪れた。

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一関市東山町の猊鼻(げいび)渓の 舟下り

は 「獅子ケ巌探勝ノ図」に。

猊鼻渓の名称が付く前に 来ている。

『(大分県の)耶馬渓(やばけい)にも 勝る』と語った、と。

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絵の中に描かれた人の そばには 名前が 記載されている。

女性は 特に 嬉しかっただろうな、と 思った。

訪れた場所の人々から「歓迎された」ことが 良くわかる。

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6月11日 午後1時30分からの

「描かれた明治の東磐井・蓑虫山人がみたもの」

盛岡大学の熊谷さまの おはなし。そして 

副館長 相馬さんの 解説会。どっちも 聞いたので

明治時代の 東磐井地区の 人々・地域の様子が

わかった気になっている。

xxxxxxxxxxxxxx あら。

展示 最後の 6月25日 午前10時30分 からも

解説会が あるんだわ。


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大町氏と キリシタン弾圧の 関わり 2 

2017年05月25日 01時49分24秒 | ・ 歴史 ・ 歩く

藤沢図書館から 6冊を 借りて きた。

車の中なので  熟読は 少々 難しい。

とりあえず、内容を 読む、というよりは、

課題に 関係する 文言を 探す作業を するのみ。

興味を持ったところへ 付箋を 貼って おく。

帰宅して も一度 読み返した。

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元和六年(1624)……

仙台藩で 最初の 「所成敗」。 水沢において

六人の切支丹信徒が 斬罪に処された。

同年の 元和六年(1624)には

政宗の お膝元の 仙台の広瀬川で、

カルヴァリヨ神父ら9名が 真冬の川に水牢で漬けられた末、凍死。

寛永13年(1636)、政宗が死去。

寛永14年(1637)10月、島原の乱が 勃発。

キリシタン弾圧が 全国的に 加速した。

寛永16年(1639)から その翌年にかけて、

(現在の 岩手県藤沢) 大籠地区で 

大規模な隠れキリシタン弾圧があり、

300余人が 殉教した。

xxxxxxxxx 本題は

大町氏と キリシタン弾圧の 関わり xxxxx 

(写真 左上) 東北隠れ切支丹弾圧の研究 …… 重松一義 

大籠 「首実験石」…… 仙台藩の 検死役人が腰を下ろし ……

(キリシタンの) 最後を 見届けたという 大きな石。 

 ( 検死役人は 仙台藩の 人 だな )

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(写真 右上) 洞窟が待っていた 仙北隠れキリシタン物語 …… 沼倉良之

P・95  藤沢城主 岩渕秀信の 三男 又五郎 は キリシタン

  (岩渕氏とは 仙台藩が 仕切る前の 中世の藤沢城主)

P・161 ……

奥州磐井郡東山 藤沢庄 ( 村里のこと )大籠 ……とある。

  ( 大籠は 藤沢の 管轄 であること は わかる)

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(写真 右下) 仙台藩切支丹史 …… 西田耕三 

P・14 「元和六年…… 政宗の家老大膳殿の家来但馬の命により

六人の切支丹信徒が 水沢で 斬罪に処された。……」

(仙台藩で 最初の 「所成敗」。 みせしめ だった、 との 説)

ーーーーーーーーーー

(写真 左下) 仙台藩の大肝入 …… 千葉 明夫 ( 特記すべきこと、 ナシ )

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(写真・左)…… 藤沢町文化振興協会 

大籠の切支丹と製鉄… 付・殉教の聖地を謳う 

p・11 

仙台藩は 大籠に 多くのキリシタンが潜伏していることを把握していた。

幕府には「転んだ」ことにして 「切支丹改め」を 提出しようととした。

それを知った信徒たちは 決して 転宗は しない、「転んでない」と 

怒り 奉行所に 訴えた。 

(など と 書かれてあった。なんとも すざましい)。

( 奉行所 とは どこだろう。藤沢城ではない ことだけ わかるが)

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(写真・右)紙芝居 いわい歴史ものがたり

「大籠キリシタン殉教物語」事業報告…… 上記 5冊の 総集編の ようなもの

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結論 ここまで 読んで も

藤沢城主と キリシタン 弾圧の かかわりは 不明。

昨日 書いた 私の本 

「 みちのくの 鉄 …… 仙台藩烔屋製鉄の歴史と科学 」 

城主は 製鉄業に関わっていない。 大籠などは

仙台藩の 直轄地だった、と いうこと で 良し、かな。 

また、岩手県南部から 宮城県に 広がる 仙台藩領では 

江戸時代、高純度の砂鉄などを原料とした「烔屋製鉄」と 呼ばれる 

仙台藩主導の ユニークな鉄造りが 数多く行われていた。…… 

と あったのだから、

「仙台藩 主導」を 重要視して 

城主は 大きなところ 関わっていない、、、と 思いたい。

とりあえず 終わる。 

戊辰戦争の 本 のこり 3冊 読みましょ。


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