森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(3)

2016-10-04 11:07:14 | 原発・エネルギー

(3)裁判に臨む

私の知り合いに、ロシア文学者の長瀬隆さんという方がいます。彼の奥様が“熔融塩炉”研究の日本の草分けであった古川和男先生と幼馴染でとても親しかった。それで長瀬さんは古川先生と知り合いになりました。私は、古川先生から直接熔融塩炉を教えていただいた関係で、いろんな場所で顔を合わせた長瀬さんとご縁になりました。彼もまたこのA氏のU出版で“熔融塩炉”に関係する本を出しました。そして、長瀬さんもA氏との間に私と同じトラブルを抱えました。私は裁判などやったことがなく、漠然とですがその費用とか時間の無駄とか、それらを考えると裁判を起こすまでの気持ちにはなれず、このことは一つの人生勉強だったと既に諦めていたのです。しかし長瀬さんは裁判を起こすと決断しました。長瀬さんからの誘いがあり、私はこれも社会経験と考えました。そして、その裁判に加わりました。生まれて初めての裁判です。

すでに2回公判がありました。その中で私が理解したことは以下の通りです。

1.      出版の形態は2種類しかない。自費出版と商業出版である。

2.      自費出版は制作費一切合切を委託者(著者)が出す。ゆえに書籍の全所有権を委託者が持つ。つまり記念品を、お金を支払って業者に作らせるようなものです。

3.      商業出版は、本の制作に関わる一切の費用を出版社が持つ。ゆえに書籍の所有権の一切は出版社が持つ。著者には出版社が一方的に決めたいわゆる印税(一般には印刷部数x定価の10%以下)が支払われるのみ。

そして、著者と出版社あるいは制作者の契約(覚書)に、“自費出版”との言葉がなければ、すべて商業出版と考えるのが、出版に関する商法上の通念であるとのことでした。いくらお金を出していても、口でどのような話があってもそれは関係しないとのことでした。

A氏の話では、この業界で著者と出版社あるいは制作者で正式な契約書を交わすことはないとのことであり、スタート時にあくまで仮で結んだ覚書(A氏は覚書作成の時点では、私の要望に沿って出版迄には正式な契約書を結ぶと言っていました)がそのまま残りました。改めてそれを見直してみると、無論自費出版などという言葉はありません。元々その積りではないので当たり前です。著者(甲)に100冊献本するという文言があります。これが、所有者がA氏であることの決め手になるのでしょう。所有者がA氏であるが故に、著者に献本つまり差し上げるとなるのです。著者が所有者であれば、自分自身に差し上げるというのはおかしいですね、というわけです。私はこの本を書いた時、いろんな人に差し上げたいと思いました。それが著者の立場での販売促進です。実際に私からもらって読んだ方が新聞に書評を書いてくれました。また“マジのつくエネルギー本”という書評ランキングで1位にもなりました。この時に、A氏も「私も出版関係で販売促進に使うので、著者と同じ部数をもらうよ」と言ってA氏個人が本を取りました。それは覚書ではパブリシティー献本という言葉になっており、A氏(乙)が献本を受けるとは書かれていませんでした。

しかし、両者は同じことをしたのです。お金や食べ物のならいざ知らず、著者が自著を100冊もらって自宅に抱えこんでも何の意味もありません。私は私の立場でいろんな学識者に差し上げて、それらの人が書評を書いてくださったり話題にしてくださって、それがこの本を世に知らしめ販売につながるのです。A氏が出版関係に配って販売につなげるのも同じです。両者が協力して販売促進をすることがこの覚書の基本であり、著者(森中)も制作者(A氏)も販売促進用の道具として同数を取ったというのが覚書の正しい理解だと思います。裁判の結審において、覚書にある“著者への献本”という文言をもって所有権が制作者にあるという判断がなされた場合は、それは真実を見ていないと私には思われます。

覚書のこの記述を今あらためて見て、私ははたと思い当たりました。この覚書を作った時に、既にこういうトラブルが生じることをA氏は見越していたことに気づきました。だから私だけが本をもらったことになっているんだ・・

本の所有者は誰かで争ったこの裁判も、次回2016年10月24日で結審です。制作費全額を出したのは著者であるにもかかわらず、本の所有者はA氏自身であり、覚書の期間が過ぎた以降は所有者が売っ払おうと裁断して廃棄しようと好きにできるというわけです。著者が欲しいと言えば、定価の8掛けで買ってください。今度は、本の制作費全額を出した著者に売りつけるのです。実際、今までに百冊以上私は買いました。これは制作者にとっては出版のリスクを何も取らないで本の所有者になり利益だけ取る素晴らしいビジネスです。本が売れれば利益はどんどん入ります。契約解除の後は、他人のお金で作った本を自分のものとして売ることができます。最近知り合った出版会社はもっと安くできると、50万でも可能だと言います。つまり私が最初に渡した制作費100万円には(株)S・Fの利益が既に入っていたと思われます。今思えば、3:2の比率どころか4:1でもおかしくありません。実際、長瀬さんは4:1の利益配分の比率でした。その上、なんと私の取り分から倉庫代まで差し引いたのです。

おそらく出版の慣行から言えば、我々は敗訴するでしょう。著作の所有者は制作者であって著者ではない。しかし・・、とここで私は思います。では、あの出版形態、A氏の説明を受けてとても魅力的に見えた、あの自費出版でもない商業出版でもないU出版とは何なのか?! 

私は、これが人間社会におけるまさに弱者を標的と定めた行為の一つではないのかと思います。A氏は人を見て対応を変えるでしょう。社会的な強者、例えば大学の教授や著名人であれば誠実な対応をするのでしょう。著者に喜ばれようと言いなりになるかも知れません。そして私のようなリタイアして年金暮らしの無名の人間が出版を願った時のみ標的にするのでしょう。A氏が「これは是非自社で出したい」と熱望したのは、こういうことだったのかと今ではわかります。先に書いたように私自身は実際諦めていて、長瀬さんが裁判に訴えなければ泣き寝入りになっていました。有力者に守られながら・・相手によって豹変する。弱者を標的と定めることが苦にならない人であれば、他に思い当たらないくらい美味しいビジネスと私の目には映ります。私と同様の被害者が今後も続く可能性が十分あります。それで、このブログを書きました。判決を見てみたいと思います。

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