かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠190(中国)

2017年08月20日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌25(2010年1月)
    【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)127頁
     参加者:K・I、N・I、Y・I、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I
     司会とまとめ:鹿取 未放

  ◆レポートに不慣れな者が担当しています。多々不備がありますがご容赦ください。

190 売られたる鶏は水見てゐたるかな二丁艫(ろ)に漕ぐ蘇州運河に

     (レポート)
 蘇州は日本人観光客にも人気のある地。買ったのではなく売られてきたと詠み、鶏の眼に注目したのはさすがだと思います。川は人生にも例えられます。その流れが見えているのだろうかと、言い差しで終わっているのが深みを与えていると思いました。(N・I)

     (まとめ)
 「水見てゐたるかな」は終助詞まで付いていて言い差しではない。また終助詞「かな」は詠嘆だから「水を見ていたことよ」の意味で、「その流れが見えているのだろうか」というような疑問では全く無い。
 二丁艫だから艫が2本しかない小さな船、そこに売られた鶏たちが乗せられている。何羽とかは書かれていないが、小さな船だからせいぜい10羽というところだろうか。たぶん脚でも縛って数珠繋ぎにされているのだろう。鶏たちはしょうことなしに運河の水を見ている。水は188番歌に「楊花散りて蘇州春逝く季に来つ濁れる運河一日下りて」とあったように濁っていて水中は見えない。拘束された鶏たちは直感的に自分の運命を把握しているのだろう。作者たちの乗る観光船と擦れ違ったときの属目だろうが、「水見てゐたるかな」のところにそこはかとないあわれが滲む。(鹿取)





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