かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠380(中欧)

2017年01月09日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
      【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明
      司会と記録:鹿取 未放


380 ドナウ川に青きさざなみすでになく老キャプテンの眼も白濁す

     (レポート)
 上句は、夕暮れになって、昼に見た青いさざ波が消え、黒くうねっているから、と読めないこともない。しかし、下句との関係から、川自体がすでに濁りを帯びてきている、と読むのが自然だ。老いた船長は、ドナウ川とともに永くこの仕事をつづけてきたのだろう。ドナウ川を永く見続けてきた眼は、川と同じようにすでにその青さを失い、白内障のような濁りを生じている。上句の「青きさざなみすでになく」が下句へ自然にかかってゆくところが巧みである。(鈴木)


     (当日発言)
★前回I・Kさんがドナウ川が汚なかったという話をしていた。(藤本)
★ハンガリーの熱い心がなくなったことを老キャップテンに仮託している。(曽我)
★上の句は序詞のような働き。下の句の方が作者が言いたかったこと。青春性を失った老キャプ
  テンを歌っている。(慧子)
★上の句は「ドナウ川のさざなみ」を下敷きにしている。(鹿取)
★「ドナウ川のさざなみ」を下敷きにしているだけで、慧子さんが言うような深い意味は無いの
  ではないか。(藤本)
★先生の歌を鈴木さんの評が名歌にしている。(慧子)
★テーマが大きすぎて、作者がどう感じているのか分かりにくかった。(藤本)


     (まとめ)
 「ドナウ川のさざ波」は、イヴァノヴィッチ作曲のワルツ。1889年のパリ万博で演奏されて世界的に有名になった。しかし往時の川の美しさはなくなり、船長の眼も覇気をなくして濁っているというのだろう。ハンガリーの熱い心がなくなったという曽我さんのような読みがよいのかもしれない。とするとまた歌が重くなるが、そうすると前の歌の「ハンガリー舞曲」も単なる旅情を表す記号ではなくなってくる。やはり、そういう音楽が民衆の心を絡め取って日常性へ埋没させ、アンガージュマンとか覇気とかいうものを結果的には奪っているということかも知れない。最後に船長の歌を置いたからには、一連の中心だったサルトルの思想がここまで及んでいるということだろう。というか、そういうことを言いたい為にハンガリーの歌の中にわざわざサルトルの歌を持ち込んだのでは無かろうか。この一連のテーマはサルトルの「鑿」なのだろう。(鹿取)


 


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