かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠422(ドイツ)

2016年12月08日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子
     司会とまとめ:鹿取 未放


422 ライン川の地ビールが酔はせてくれた夜を誰か小声の敦盛の歌

     (レポート)
 「ライン川の地ビールが酔はせてくれた」とは直接にはビールだが、誰か土地の神のような介在が思われて、それが「酔はせてくれた」と解したくなる。そんな時、「誰か」「小声の敦盛の歌」をききとめたのだ。この作者にして「誰か」とは気配のようなものと思うことしばしばだが、この「誰か」に誰を当て嵌めれば深い味わいになるのだろう。作者の旅の「夜」に、幻が出入りして、「酔はせてくれた」り「敦盛の歌」を聞かせてくれたりしたと想像する。「敦盛の歌」を残念ながら知らないのだが、一首の魅力は十分味わえる。(慧子)
   

     (紙上参加意見)
 ドイツの地ビールをみんなで飲んでいる。少し酔いが回ってきたのか、しかし大声で唄ったり騒いだりはしない。誰かが敦盛の歌をうたっている。「誰か小声の敦盛の歌」がこの一首の抒情を深めている。お能でも歌舞伎にも題材になっている平敦盛。お能幸若舞の敦盛の一節であろう。
 半歌仙、敦盛、熊谷直実に討たれた悲劇、この一連、ライン川を観光しながら作者の本来の姿というか作者自身の思想というか、旅にいながらもその姿が見えてくるような一連であると感じた。(藤本)


           (当日意見)
★レポーターの最初の二行がとてもいい解釈。(崎尾)
★これは謡曲ではないか。(曽我)
★なぜ敦盛をもってきたのだろう。ホームシックか?ところで、レポーターのいうように敦盛の歌
 を幻で聞くよりも実際に聞こえる方が面白い。昼間は歌わなかった日本人も夜になってだいぶん
 酔ってきて、ふっと小声で誰かが歌い出したのではないか。あるいは自分が歌ったことをぼかし
 て誰かと表現しているのかもしれない。こういう「誰か」は作者の歌によく登場する。もう自分
 たちだけで小部屋にでもいるのかもしれない。(鹿取)
★敦盛の歌というより詩吟なのではないか。(T・H)
★「青葉の笛」って敦盛を歌った歌ではないか。一の谷の軍(いくさ)破れって。(崎尾)
★詩吟だと小声では感じが出ない。「青葉の笛」は哀調のある歌ですから、この場にふさわしいか
 もしれないですね。(鹿取)


     (まとめ)
 旅の終わりに酔って敦盛の歌を歌うところが唐突だが面白い。ドイツにあってローレライではなく日本の、しかも古い歌を歌うところがいかにもありそうな気がする。作者自身もそうだし、周囲に謡曲をたしなむ人は多いから謡曲でも好いし、哀調のある「青葉の笛」でもいいだろう。ドイツの旅の終わりに敦盛ときう悲劇の貴公子を出してくるところに日本の根っこのようなものが感じられて興味深い。(鹿取)


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