だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

環境問題はウソかマコトか

2007-06-21 22:51:49 | Weblog

 武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』洋泉社2007年がベストセラーである。最近では職業柄「あの本、どう思います?」とコメントを求められることが多くなってきた。私は今まで読んでいなかった。読みもしないで「私は武田先生とほぼ同じ考えです」と答えてきた。私は何度か武田先生と対話したことがあり、私が勤める名古屋大学大学院環境学研究科の授業で講義をしていただいたこともある。タイトルを見ただけで、どのような話かは分かるのだ。
 でもこれから何度もコメントを求められそうなので、ブログの記事にしようと思ってさすがに買って読んだ。ペットボトルのリサイクルの問題と地球温暖化の問題、そして最後の章の何が本当の「環境」問題か、という認識について、細かい点を除けば、まったく同感である。ダイオキシンの問題は私は不勉強で知らなかったので、ふむふむと思いながら読んだ。ペットボトルの問題など、武田先生はひょっとして私のブログの記事を読んでくださっていたのか、と思うぐらいである。(持続可能な循環型社会(1)持続可能な循環型社会(2))地球温暖化の問題はややちがったスタイルであるが、私の記事も趣旨は同じである。(予防原則のオモテウラIPCC第4次レポート(1)地球温暖化問題とはどういう問題なのか?(1)恐れについて

 むしろ若干補足をさせていただきたい。ペットボトルをはじめとする循環型社会基本法に基づくリサイクルの仕組みは、私の言葉で言えば「持続不可能な循環型社会」を向いている。資源の節約にはいっさい関係ない。リサイクルすればするほど、余分なエネルギーも行政コストもかかる。
 ではなんのためにやっているのか?それでも市町村でいっしょうけんめいに取り組まれている最大の理由は、一般廃棄物の最終処分場が一杯になろうとしているからだ。逆に言うと、最終処分場に持ち込むモノの量を減らすという一点だけがリサイクルの目的であり、そのためにはどれだけエネルギーを投入してもどれだけコストがかかってもしようがない、というのが市町村の立場だろう。
 今日、最大の迷惑施設である廃棄物の最終処分場はもう簡単には作れない。今の処分場がいっぱいになったら市町村の行うゴミ処理は「おしまい」かもしれないのだ。そうなったら街の暮らしは持続不可能。それだけは避けなければならない。
 名古屋市が容器包装リサイクルを完全実施し、名古屋市に引っ越してきた人にほぼ確実にカルチャーショックを与えるほど細かい分別を行うようになった理由は、現在の最終処分場の次の処分場として計画していた藤前干潟が保全されたからである。困り切った名古屋市は市長が「ごみ非常事態宣言」を出して市民に現在の分別制度の導入を呼びかけたのだ。そしてその結果、最終処分場に持ち込むモノ(燃えないゴミと燃えるゴミを燃やした灰)を半減させるという大成果をあげたのである。

 ところが、ゴミと「資源」を足した総排出量はほとんど変化していないのである。単に今までゴミに出していたモノを資源の袋に入れてだすようになったということだ。
 これでは社会全体の廃棄物処理のことを考えるとほとんど意味がない。分別されリサイクルに回った「資源」は、製鉄所の溶鉱炉で燃やされるのでなければ、なんらかの製品に生まれ変わる。例えば、ペットボトルは産業用のシートになる(けっしてペットボトルになるわけではない)。それは一回使ったら捨てられる使い捨て製品となるのであるが、それが捨てられる時には産業廃棄物となり、その処理は企業の責任ということになる。かくして、ペットボトルのなれの果ては産業廃棄物の最終処分場に埋め立てられることになる。一般廃棄物の最終処分場には来ないので市町村にとってはありがたいわけだが、社会全体での廃棄物量は一切減らない。武田先生の言葉でいえば「帳簿のつけかえ」をしているにすぎない。

 私は、複数の市町村の環境担当者に「リサイクルについての話は、書いてあることは正しいでしょう?」と聞いたところ、彼らは一様に「そのとおりなんですよ。でもあぁいう言い方をされると困るんですよね・・・」と頭をかいた。市町村の環境担当者の方に私が言うのは以下のようなことである。「役所としていっしょうけんめいリサイクルに取り組んでいるし、住民のみなさんにもいっしょうけんめいやっていただいています、でもその成果はせいぜいこの程度なんです」と正直に市民に説明すればよいではないか。その上で、「とにかくゴミの発生を抑制していただかなければ問題は解決しないんです。ペットボトルの飲料を安易に買うのはやめて、また昔のように水筒を持って歩きましょうよ」と市民に呼びかけるべきだと。

 地球温暖化問題では、武田先生は「故意の誤報」が生じる責任をマスメディアと役所に求めているが、私は科学者の責任もけっして無視できないと思う。
 また、私が思うに、地球温暖化問題の核心は、もう十分豊かなのにさらに豊かになろうとして二酸化炭素排出量を増やしている先進国がその原因をつくり、貧困のため二酸化炭素を出したくても出せない開発途上国がその被害を被るという構図にある。問題は環境問題というよりは社会的不公正の問題であり、地球温暖化問題は南北問題の一部である、というのが私の認識である。

 最後の章で、本当の「環境問題」(私の言葉で言えば持続不可能性の問題)は石油の枯渇であるとしている。これはまったく同感であるが、石油が枯渇すれば温暖化しようにもできない、という議論は、少々甘いと私は考える。石油も天然ガスも21世紀中に掘り尽くして大気に出し尽くすであろうが、石炭がまだたんまりと残っているのだ。地下に眠る石炭をすべて燃やしてしまうと、かなり温暖化するだろう。そのピークは23世紀とか24世紀になるだろう。つまり地球温暖化問題の核心は石油ではなく石炭の使い方にあると思われる。そして、温暖化のピークを下げるためには、地下に石炭があることが分かっていてももう使わない、という社会にしなければならない。
 そのためにはいずれにせよ化石燃料を使わない社会にしなければならない。資源は生態系からいただき、廃棄物は生態系に戻す、というやり方にすれば、地球温暖化問題もごみ問題も同時に解決する。私がそういうことを言うとすぐに「そんなことできるわけない」という議論がはじまるのだが、そう言っている限り、本当に問題を解決しようというつもりがないと私は思う。どうしたらそういう社会が実現するのか、地域社会のデザインと技術開発を進めることが私の研究室の研究テーマである。

 ただ、この本は誤解されるだろうなと思う。武田先生は、まさにステレオタイプにものごとをおしこめるマスメディアの論理によって「反環境派」のレッテルを貼られるだろう。本をよく読んでいない(あるいは正確に読もうとしない)「環境派」の人々から目の敵にされるだろう。事実、私が武田先生の名を出すと「え、あの人?」と警戒心を持たれる場合がある。
 武田先生は、環境問題など問題ではない、どんどん大量消費・大量廃棄すればよい、と言っているのではない。その逆で、本当に問題を解決しようとすれば、なんでも右肩上がりでよしとする経済のあり方を改めなければならない、と言っているのである。本当に大切なのは、家に鍵をかけなくても安心、女性が夜一人で歩いても安心、という社会の信頼感や人々の道徳心、公共心ということなのだ。これらはまさに私たちが持続可能な社会と言っているものの核心にあたるものだ。

 私は武田先生とともに「環境派」ではないと言われれば、そして、「環境派」というのが現在の日本の主流の環境対策をもってよしとするという「派」であるとすれば、その指摘を甘んじて受ける他ない。そして「持続性派」をもって自認したい(環境問題の樹海)。
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3 コメント

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なるほど「持続性派」とは!! (額田王)
2007-06-22 11:17:41
今回も勉強になりました。日頃から、何かに追い詰められるような思いで「環境」のために「リサイクル」に取り組んではいますが、頭の片隅を折々よぎる言語化できない微かな苛立ち…。これって本当ににに役立つの?必ず何かのためになっているのだよね?…という、向けどころの無い疑問と不安でした。先生の記事を拝読し、その一部が解きほぐされつつあります。ありがとうございました!!
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Unknown (さとみ)
2007-06-22 20:28:47
「あの本、どう思います?」と、聞いてしまったものの一人です。その節はお世話になりました。笑

私も、もう一度読み直して自分なりに考えて見ます。

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Unknown (Unknown)
2007-06-26 22:13:18
アルゴアのあの映画はどう思います?
やはりゴアだけにゴルァー?(失礼)。




ペットボトルを燃やしてる所を見たいんですが
何故だかマスコミも取り上げませんね。
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