だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

持続可能な循環型社会(2)

2006-12-01 22:16:08 | Weblog

 リサイクルが原料の節約にならないとしたら、行政も市民もこうまでいっしょうけんめい取り組んでいるのは何のためなのか。端的に言って、市町村の焼却炉の能力には限界があり、増え続ける可燃ゴミに対応できなくなるおそれがあることと、不燃ゴミや焼却灰を埋め立てる最終処分場がもう一杯になるから、というのが最大の理由と言ってよいだろう。
 例えば先日愛知県安城市で聞いた話では、焼却炉の能力は一年に65000tのところ、現状ですでに60000tを燃やしているという。ゴミはふえつづけている。焼却能力がパンクしたら、ゴミ収集を一時ストップしなければならない。一方、最終処分場はどこも一杯である。安城市はすでに一杯になった処分場を「再利用」しているという。埋めたゴミをもう一度掘り返して(!)、破砕工場というところで分別し、燃えるゴミは燃やし、資源は回収してリサイクルにまわし、どうしようもないものだけをまた埋めるということで、処分場の寿命を20年延命しているという。
 ゴミ収集車が来なくなるということを想像してみて欲しい。2週間もすれば家のなかはゴミだらけになってしまうだろう。町の中には不法投棄が横行しパニックが出現するだろう。市町村としてはこのような事態は絶対に避けなければならない。とすれば、どれほどコストがかかろうとエネルギーがかかろうと二酸化炭素を排出しようと、リサイクルをしなければならないということになる。

 しかし、よく考えてほしい。モノは決して無から生まれないし消えてなくなることもない。地球上のどこかから来て、どこかに行くのである。ペットボトルを回収してリサイクルにまわし、シートや作業服を作ったとする。そのシートや作業服もいつかは廃棄物になる。ペットボトルとして社会に登場した量は、それがペットボトルとして廃棄物になろうとも、シートや作業服をへて廃棄物になろうとも、いずれ合計すれば同じ量の廃棄物になる。これが同じモノにもどらないリサイクルの宿命である。
 ではすぐにゴミになるのとリサイクルするのとでは何が違うか?ペットボトルとして廃棄物になればこれは市町村が処理すべき一般廃棄物である。ところがシートや作業服として産業活動のなかで廃棄物になれば企業が責任をもつ産業廃棄物であり、市町村の焼却炉や最終処分場にはやってこない。そのかわりに産業廃棄物の処理施設に行くのである。リサイクルは社会全体の廃棄物を減らすわけではない。廃棄物の帳簿を一般廃棄物から産業廃棄物につけかえているというわけだ。

 すでに日本の市町村のゴミ処理能力は巨大である。大阪港の埋め立て地に巨大な焼却工場が二つ並んで建っている。カラフルにペイントされた巨大なオブジェはそれが焼却炉だと言われなければなにがなんだかわからない。近づいてみるとその大きさに圧倒される。焼却場の煙に含まれるダイオキシンが問題になってから、中小規模の焼却炉は許されなくなった。ダイオキシン対策など完全な排煙処理ができる大規模な焼却炉の建設が日本中でものすごい勢いで進んでいる。現状のリサイクルが原料も廃棄物も減らすものではないとしたら、いっそ焼却した方がよいという考え方もなりたつ。
 しかしながら、きわめて感傷的な言い方で恐縮であるが、私は巨大な焼却工場の前に立つとなんだか気分が悪くなる。別に異臭がするとか有害な煙が出ているというわけではない。その巨大さに押しつぶされるような気がするのである。(それは巨大な発電所やダムや橋などを見ている時も同様だ。)その中で働いている職員の皆さんはさぞかし毎日お疲れになるのではないかといらぬ心配をしたりする。直感的にこれはなにかまちがっている、という気がする。これはもうそういう気がするとしかいいようがなく、いくら巨大な焼却工場の必要性を合理的に説明されても私は心から納得することはできないのである。
 そのような焼却工場でも処理しきれないほどのゴミを出す私たちの暮らしが、やはり根本的になにかまちがっているのだろう。もっとシンプルに、すべてのモノに愛着をもって大事に長く使う暮らしをしたい、と切に思う。

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