とても疑問に思うので、また書いておく。以前にも、判決の中で疑問に思えたことがあったので。
本当に血尿だったのか
根本的に、裁判官(裁判所)というのは、一種の「神の視点」から見るものなのでしょうか?変な言い方で申し訳ないのですけど。
ある花を巡って、次のような紛争があったとします。
Aの主張:アサガオに決まってる
Bの主張:絶対にヒマワリだ
裁判所でAの主張が正しいのか、Bの主張が正しいのか、検討することになりました、と。裁判官は思案を重ねた結果、Aの主張である「アサガオ」が正しいと考えるのが合理的だ、とか何とか言って、「Aの勝ち」を宣言するということになるのですね。しかし、ここで大きな問題があるのです。それは「真実とは何か?」という極めて素朴かつ根本的な問題なのです。果たして、本当に「アサガオ」なのでしょうか?これは誰が検証しますか?実は、パンジーかもしれないんですよ(笑)。私の疑問は、そういうことを言っているのです。
つまり、裁判所での検証というのは、双方から提出された、「いかにアサガオらしいか」「ヒマワリの特徴に合致しているか」などという証拠を見ていくのですけれども、その検証能力・判断能力については「専門外」であるが故に、「信頼性が低い」のです。アサガオとヒマワリの「判定」が正しくできる人であれば、アサガオかどうかは見れば一発で判りますよね。そういう「神の視点」を持っている時には、判決には相当の信頼性があると言えますが、「これがアサガオ」ということを見たことも知ることもないような人が、果たして「事実」を正しく見分けられるのか、ということなのです。
全部ではないにせよ、専門的な分野の訴訟に関しては、裁判所での能力限界を超えていると思えます。鑑定結果というのも確かにあるわけですが、裁判官はその重み付けをあくまで「個人的印象・判断」で行ってしまいます。基本的な「(科学的)推定・推論」みたいなものが「十分理解されている」とは言い難いことが見受けられるかもしれません。そういう時に、「事実」はどうなってしまうのか、ということです。酷い喩えを申し上げれば、推理小説に登場する「典型的石頭警部」はそれまでの証拠から犯人を短絡的に断定するのですが、真犯人とは全く違っていて、裁判所がまさにこの「石頭警部」程度であれば、大変困る訳です。物語の中では、探偵とか検事とか家政婦とか?(笑)が本当の犯人を見つけ出してくれるので真相が明らかにされますが、現実世界ではこうした役割の人というのは誰もいませんよね。なので、裁判所の検証能力を超えているようなものの場合には、もっと別な「専門的検証」チームで検討するような仕組みを整えなければならないのではないでしょうか(それとも、医療紛争を裁判という場ではないシステムで解決を目指すか?)。本当はアサガオでもなければヒマワリでもないにも関わらず、「アサガオが正しい」みたいな結論を出す裁判所ということになれば、重大な問題なのではないかと思うのです。
具体的な事例になりますが、これも「本当にそうなのか?」ということが疑問に思えます。
元検弁護士のつぶやき 麻酔医療過誤訴訟:遺族側が逆転勝訴 東京高裁
毎日新聞記事から一部引用。
『判決は「個々の麻酔薬は過剰投与ではないが、局所麻酔は単独使用の場合の限度量が投与され、総量が最小になるよう努める注意義務を担当医は怠った。この過失が心停止の原因」と結論付けた。』
この一文から、裁判官の推理能力が極めて低い、ということが窺われるのです。判決文を詳しく見た訳ではありませんが(裁判所は全部の判決文を公開し、きちんと系統立ててデータベース化しておくべき。裁判所ごととかバラバラじゃなくて。キーワードとか、用いられた条文とかを必ず検索項目として入れたり、裁判の種類も簡便な分類で区分したり、そういう工夫をするべき)、ここに書かれていることを裁判官が述べたとすれば、かなり問題であると思います。
上に挙げた参考記事にしても、血尿=出血で死亡、という「科学的」根拠などからはまるでかけ離れた推論を組み立てている訳です。裁判官には、基本的な考え方が理解しにくいのであろうな、と思うのですよね。今回の事件では、「局所麻酔薬の投与量」と「心停止」の因果関係について、「関係があった」という推定を行い、その結果「最小量」でなかったことが過失である、と認定しているものと思います。以下に、簡単な反論を書いてみましょう。
①最小量を規定できるのか→規定できるならば裁判官が示せるハズ
薬物の効果については、以前から何度も書いてますが、個体差が非常に大きいのです。数倍の違い、というのはごく普通です。代謝される時間や、最大血中濃度などには「大きなばらつき」があるのです。にも関わらず、個人個人について、「最も適正な最小量を決定できる」と思っているならば、それは大間違いですね。普通に用いられる飲み薬が、「錠剤」であるはずないじゃないですか(笑)。全部異なった用量になるに決まってるじゃないですか。これは、「大雑把に」標準的な量というのが決められているだけであり、全員に同じ効果とか同じ薬物動態になるといったことは「有り得ない」のです。そういう基本的な理解がないので、このような理路を用いてしまうのだと思われます。
毎度喩え話で申し訳ありませんが、大体次のようなことです。
「おなかが一杯になるご飯粒は何粒か?」
この答えを全員について、聞く前から「判るのが当然」ということを裁判官は求めているのです。これは無理ですよ。
十人いたとして、みんなそれぞれおなかが一杯になるご飯の量はバラバラです。でも、これを正確に判るはずだ、と考えているということなんですよ。個人差さえも判れ、ということなんですよ。
普通は、そんな厳密には判らないので、例えば「成人男性ならばご飯茶碗に2杯程度」とか、もっと詳しく表現して「○○kcal が適当」とか「××g が通常量」とか、その程度でしか判らないんですよ。これでも、果たして「おなかが一杯」なのかどうかさえ判定できないんですよ。実際食べてもらい、「おなかが一杯です」って答えてもらってはじめて「ああ、この人は~gでおなか一杯なんだな」と判るだけなんですよ。なのに、裁判官はこの答えを聞く前から、「全員のが判って当然」と考えているということです。
そもそも「麻酔の深さ」や「麻酔の効き」というのは、厳密には判っていなんですよ?術中に患者に対して「麻酔は効いてますか?」とか聞く事もできないし(場合によっては脊椎麻酔だけでできることもあるので、意識は明瞭で聞けることもあるかも)、効き具合というのは別な反応(疼痛反応とか、循環変動とか・・・?)を見て推測する以外にないんですよ(まあ、患者に聞いても無駄なことも多いかもしれないが)。「おなかが一杯です」と答えてももらえないどころか、「おなかが一杯」ってどんな状態なのかさえ判らない(規定できない)ものを、「ご飯粒が何粒必要なのか判る筈だ」と要求している、ということですよ。こんなの無理に決まっているのです。
②麻酔薬が心停止の原因なのか
可能性がゼロかと言われれば、そうとは言えないかもしれませんが、極めて難しいと思われますね。薬物の影響で心停止を来たすような投与量ということになれば、それ以前からかなりの薬物中毒状態に陥っており、いきなり心停止になぞ至るわけではないのですよ。大体他の薬物についてもそうですけれども、薬物中毒の症状は軽微なものから出てくるので、投与量がそこまで多くなる前に気付くのです。中毒を示すデータなりも出ますよ。術中であれば、モニター類の数値などにも出てくる可能性はあります。なので、心停止に至るような中毒量が投与された、と考えるのは極めて困難です。
高円宮さまが亡くなられたのは、薬物中毒でも何でもなく、心停止(心室細動)されてしまったのですよ。裁判官は、通常の健康状態でさえ理由なく心停止が起こりえるのに、何故そうした可能性さえ否定でき、「薬物中毒であり、結果心停止に至った」と結論付けることができるのか、ということを「科学的」な理論で明らかにせねばなりません。明らかにできないのに、そんな推論を組み立てることが許される、ということは有り得ないでしょう。可能性の推定をする時、要因A、B、Cとある場合に、特定のAがその原因であるという結論を出す以上、その論理には相当の根拠が必要に決まっているのです。
判決の組み立てとしては、信頼性の乏しいものであるとしか思えないことは、上の一文から読み取れると思えました。
これとは別に、私なりの心停止の可能性を考えると、疑わしい要因は他にもあると思います。
手術が人工関節の置換術(膝か股関節?)ということから、最も疑うべきことは恐らく「骨セメント」なのではなかろうか、と思います。
骨セメントは人工関節のメタルを骨に合着する時に用いられるものです。このモノマーが血管内に吸収されると、急速な血圧低下を招いたりすることがあります。こうした人工関節置換術を受ける患者さんは、大抵が高齢者であり、循環変動に対する予備能力に問題があったりすることが有り得ます。更に、脊椎麻酔や硬膜外麻酔を用いている時には、どちらかというと血圧低下は起こりやすいと考えられ(その分出血量が減少したり、疼痛に反応して血圧上昇を来たしても相殺される、という面も有りますか)、そこにモノマーによる急激な血圧降下が起こると、循環虚脱が起こりやすくなるのではなかろうか、ということです。そういう循環動態の不良な状況が起こると、不整脈の発生を来たすことも考えられ、致死的不整脈の発生によって死に至ることは十分考えられます。当時は骨セメントの危険性についての知見が十分揃っていなかったかもしれません(調べてないので定かではないです)。
股関節手術であれば、膝の手術よりも危険度は増すかもしれませんね(個人的な印象ですけど)。吸収されやすさの危険度が増すように思えるからです。この辺は専門的な文献などがあると思いますので、そちらを調べてもらった方がよいでしょう。
裁判所の考え方では、「麻酔の薬剤に問題があったか、なかったか」という点で考えるので、エラーになり易いのではないかと思える。血尿による出血死みたいな発想もそうだ(事件について詳しく知っている訳ではないので、本当に血尿による失血死ではない、とは断言はできないんですけど)。「血尿で死に至らしめたかどうか」ということに白黒つけようとするからダメなんだと思う。
普通ならば、
ある現象Pが観察された。ここで考えうる原因(関連する要因)は・・・A、B、C、D以下略(それぞれ独立した要因であるとする)
という風に考えると思う。
で、それぞれについての妥当性というか適合具合を調べてみて、「Aが原因」という場合には、残りの要因はかなり否定的かあっても極めて少ない可能性といった検証を行わねばならないし、それが証明できないのであれば、少なくとも「Aが原因」という断定には結びつけられないものなのです。現象Pと特定原因Aを強引に結び付ける発想というのは、ニセ科学信仰とかに陥っている人々と非常に近いのではないでしょうか。
いずれにしろ、裁判所の検証能力には疑問な点があり、専門知識の量だけに限らず、基本的な論理構成のやり方に問題があるように思われる。更に、原告・被告の主張や争点に囚われていても正しい結論に辿り着けるとは限らず、もっと原因探求の方法を学ぶべきなのではないでしょうか。
本当に血尿だったのか
根本的に、裁判官(裁判所)というのは、一種の「神の視点」から見るものなのでしょうか?変な言い方で申し訳ないのですけど。
ある花を巡って、次のような紛争があったとします。
Aの主張:アサガオに決まってる
Bの主張:絶対にヒマワリだ
裁判所でAの主張が正しいのか、Bの主張が正しいのか、検討することになりました、と。裁判官は思案を重ねた結果、Aの主張である「アサガオ」が正しいと考えるのが合理的だ、とか何とか言って、「Aの勝ち」を宣言するということになるのですね。しかし、ここで大きな問題があるのです。それは「真実とは何か?」という極めて素朴かつ根本的な問題なのです。果たして、本当に「アサガオ」なのでしょうか?これは誰が検証しますか?実は、パンジーかもしれないんですよ(笑)。私の疑問は、そういうことを言っているのです。
つまり、裁判所での検証というのは、双方から提出された、「いかにアサガオらしいか」「ヒマワリの特徴に合致しているか」などという証拠を見ていくのですけれども、その検証能力・判断能力については「専門外」であるが故に、「信頼性が低い」のです。アサガオとヒマワリの「判定」が正しくできる人であれば、アサガオかどうかは見れば一発で判りますよね。そういう「神の視点」を持っている時には、判決には相当の信頼性があると言えますが、「これがアサガオ」ということを見たことも知ることもないような人が、果たして「事実」を正しく見分けられるのか、ということなのです。
全部ではないにせよ、専門的な分野の訴訟に関しては、裁判所での能力限界を超えていると思えます。鑑定結果というのも確かにあるわけですが、裁判官はその重み付けをあくまで「個人的印象・判断」で行ってしまいます。基本的な「(科学的)推定・推論」みたいなものが「十分理解されている」とは言い難いことが見受けられるかもしれません。そういう時に、「事実」はどうなってしまうのか、ということです。酷い喩えを申し上げれば、推理小説に登場する「典型的石頭警部」はそれまでの証拠から犯人を短絡的に断定するのですが、真犯人とは全く違っていて、裁判所がまさにこの「石頭警部」程度であれば、大変困る訳です。物語の中では、探偵とか検事とか家政婦とか?(笑)が本当の犯人を見つけ出してくれるので真相が明らかにされますが、現実世界ではこうした役割の人というのは誰もいませんよね。なので、裁判所の検証能力を超えているようなものの場合には、もっと別な「専門的検証」チームで検討するような仕組みを整えなければならないのではないでしょうか(それとも、医療紛争を裁判という場ではないシステムで解決を目指すか?)。本当はアサガオでもなければヒマワリでもないにも関わらず、「アサガオが正しい」みたいな結論を出す裁判所ということになれば、重大な問題なのではないかと思うのです。
具体的な事例になりますが、これも「本当にそうなのか?」ということが疑問に思えます。
元検弁護士のつぶやき 麻酔医療過誤訴訟:遺族側が逆転勝訴 東京高裁
毎日新聞記事から一部引用。
『判決は「個々の麻酔薬は過剰投与ではないが、局所麻酔は単独使用の場合の限度量が投与され、総量が最小になるよう努める注意義務を担当医は怠った。この過失が心停止の原因」と結論付けた。』
この一文から、裁判官の推理能力が極めて低い、ということが窺われるのです。判決文を詳しく見た訳ではありませんが(裁判所は全部の判決文を公開し、きちんと系統立ててデータベース化しておくべき。裁判所ごととかバラバラじゃなくて。キーワードとか、用いられた条文とかを必ず検索項目として入れたり、裁判の種類も簡便な分類で区分したり、そういう工夫をするべき)、ここに書かれていることを裁判官が述べたとすれば、かなり問題であると思います。
上に挙げた参考記事にしても、血尿=出血で死亡、という「科学的」根拠などからはまるでかけ離れた推論を組み立てている訳です。裁判官には、基本的な考え方が理解しにくいのであろうな、と思うのですよね。今回の事件では、「局所麻酔薬の投与量」と「心停止」の因果関係について、「関係があった」という推定を行い、その結果「最小量」でなかったことが過失である、と認定しているものと思います。以下に、簡単な反論を書いてみましょう。
①最小量を規定できるのか→規定できるならば裁判官が示せるハズ
薬物の効果については、以前から何度も書いてますが、個体差が非常に大きいのです。数倍の違い、というのはごく普通です。代謝される時間や、最大血中濃度などには「大きなばらつき」があるのです。にも関わらず、個人個人について、「最も適正な最小量を決定できる」と思っているならば、それは大間違いですね。普通に用いられる飲み薬が、「錠剤」であるはずないじゃないですか(笑)。全部異なった用量になるに決まってるじゃないですか。これは、「大雑把に」標準的な量というのが決められているだけであり、全員に同じ効果とか同じ薬物動態になるといったことは「有り得ない」のです。そういう基本的な理解がないので、このような理路を用いてしまうのだと思われます。
毎度喩え話で申し訳ありませんが、大体次のようなことです。
「おなかが一杯になるご飯粒は何粒か?」
この答えを全員について、聞く前から「判るのが当然」ということを裁判官は求めているのです。これは無理ですよ。
十人いたとして、みんなそれぞれおなかが一杯になるご飯の量はバラバラです。でも、これを正確に判るはずだ、と考えているということなんですよ。個人差さえも判れ、ということなんですよ。
普通は、そんな厳密には判らないので、例えば「成人男性ならばご飯茶碗に2杯程度」とか、もっと詳しく表現して「○○kcal が適当」とか「××g が通常量」とか、その程度でしか判らないんですよ。これでも、果たして「おなかが一杯」なのかどうかさえ判定できないんですよ。実際食べてもらい、「おなかが一杯です」って答えてもらってはじめて「ああ、この人は~gでおなか一杯なんだな」と判るだけなんですよ。なのに、裁判官はこの答えを聞く前から、「全員のが判って当然」と考えているということです。
そもそも「麻酔の深さ」や「麻酔の効き」というのは、厳密には判っていなんですよ?術中に患者に対して「麻酔は効いてますか?」とか聞く事もできないし(場合によっては脊椎麻酔だけでできることもあるので、意識は明瞭で聞けることもあるかも)、効き具合というのは別な反応(疼痛反応とか、循環変動とか・・・?)を見て推測する以外にないんですよ(まあ、患者に聞いても無駄なことも多いかもしれないが)。「おなかが一杯です」と答えてももらえないどころか、「おなかが一杯」ってどんな状態なのかさえ判らない(規定できない)ものを、「ご飯粒が何粒必要なのか判る筈だ」と要求している、ということですよ。こんなの無理に決まっているのです。
②麻酔薬が心停止の原因なのか
可能性がゼロかと言われれば、そうとは言えないかもしれませんが、極めて難しいと思われますね。薬物の影響で心停止を来たすような投与量ということになれば、それ以前からかなりの薬物中毒状態に陥っており、いきなり心停止になぞ至るわけではないのですよ。大体他の薬物についてもそうですけれども、薬物中毒の症状は軽微なものから出てくるので、投与量がそこまで多くなる前に気付くのです。中毒を示すデータなりも出ますよ。術中であれば、モニター類の数値などにも出てくる可能性はあります。なので、心停止に至るような中毒量が投与された、と考えるのは極めて困難です。
高円宮さまが亡くなられたのは、薬物中毒でも何でもなく、心停止(心室細動)されてしまったのですよ。裁判官は、通常の健康状態でさえ理由なく心停止が起こりえるのに、何故そうした可能性さえ否定でき、「薬物中毒であり、結果心停止に至った」と結論付けることができるのか、ということを「科学的」な理論で明らかにせねばなりません。明らかにできないのに、そんな推論を組み立てることが許される、ということは有り得ないでしょう。可能性の推定をする時、要因A、B、Cとある場合に、特定のAがその原因であるという結論を出す以上、その論理には相当の根拠が必要に決まっているのです。
判決の組み立てとしては、信頼性の乏しいものであるとしか思えないことは、上の一文から読み取れると思えました。
これとは別に、私なりの心停止の可能性を考えると、疑わしい要因は他にもあると思います。
手術が人工関節の置換術(膝か股関節?)ということから、最も疑うべきことは恐らく「骨セメント」なのではなかろうか、と思います。
骨セメントは人工関節のメタルを骨に合着する時に用いられるものです。このモノマーが血管内に吸収されると、急速な血圧低下を招いたりすることがあります。こうした人工関節置換術を受ける患者さんは、大抵が高齢者であり、循環変動に対する予備能力に問題があったりすることが有り得ます。更に、脊椎麻酔や硬膜外麻酔を用いている時には、どちらかというと血圧低下は起こりやすいと考えられ(その分出血量が減少したり、疼痛に反応して血圧上昇を来たしても相殺される、という面も有りますか)、そこにモノマーによる急激な血圧降下が起こると、循環虚脱が起こりやすくなるのではなかろうか、ということです。そういう循環動態の不良な状況が起こると、不整脈の発生を来たすことも考えられ、致死的不整脈の発生によって死に至ることは十分考えられます。当時は骨セメントの危険性についての知見が十分揃っていなかったかもしれません(調べてないので定かではないです)。
股関節手術であれば、膝の手術よりも危険度は増すかもしれませんね(個人的な印象ですけど)。吸収されやすさの危険度が増すように思えるからです。この辺は専門的な文献などがあると思いますので、そちらを調べてもらった方がよいでしょう。
裁判所の考え方では、「麻酔の薬剤に問題があったか、なかったか」という点で考えるので、エラーになり易いのではないかと思える。血尿による出血死みたいな発想もそうだ(事件について詳しく知っている訳ではないので、本当に血尿による失血死ではない、とは断言はできないんですけど)。「血尿で死に至らしめたかどうか」ということに白黒つけようとするからダメなんだと思う。
普通ならば、
ある現象Pが観察された。ここで考えうる原因(関連する要因)は・・・A、B、C、D以下略(それぞれ独立した要因であるとする)
という風に考えると思う。
で、それぞれについての妥当性というか適合具合を調べてみて、「Aが原因」という場合には、残りの要因はかなり否定的かあっても極めて少ない可能性といった検証を行わねばならないし、それが証明できないのであれば、少なくとも「Aが原因」という断定には結びつけられないものなのです。現象Pと特定原因Aを強引に結び付ける発想というのは、ニセ科学信仰とかに陥っている人々と非常に近いのではないでしょうか。
いずれにしろ、裁判所の検証能力には疑問な点があり、専門知識の量だけに限らず、基本的な論理構成のやり方に問題があるように思われる。更に、原告・被告の主張や争点に囚われていても正しい結論に辿り着けるとは限らず、もっと原因探求の方法を学ぶべきなのではないでしょうか。
患者敗訴の時にはメディアは報道しませんから、トンデモ判決が目立つのだと思います。
骨セメントの話はその通りだと思います。
最近はステムの打ち込みの時には組織片も飛ぶと言うことが強調されるようになり、骨セメントの心筋抑制作用を軽視していました。というより、セメントレスでも注意するようになったと言った方がいいかな。
本来的には「あってはならない」話なんですよね(笑
医療ならば100%を求められるのに、何故か裁判官には100%が求められていないのが現状なのではないかと。
私自身は裁判でも100%達成は無理だろうと思いますけれども、ならば「他の部分」にも「無理だろう」が通じても良さそうなのに…とは思います。(医療などの分野に)100%を求めるのであれば、裁判官たち自身にもそれを課すのが必然でしょう。
セメントレスでも肺梗塞なんかはあるのですね。勉強になりました。