前の記事にお返事を頂戴しましたので、続きを書いてみました。
◇◇◇
tochinai先生、早速のご回答をいただきまして、誠に有難うございます。興味深く拝見致しましたが、若干の疑問点もございますので、その辺りにつきまして、書いてみたいと思います。
(以下、tochinai先生のご回答部分は『』で引用致します)
『丁寧にご質問いただいたので、まさくにさんのご質問に簡単にお答えしたいと思います。まさくにさんと私の違いは、基本的にこの問題に対する視点の違いに由来するものだと思います。まさくにさんの主な主張は「責任」はどこにあるのかということだと思いますが、私は責任問題も無視はしておりませんが、国(政府、政治)はなんのために存在するのかというところから発想しています。国は国民の生命と生活を守るために、国民によって作られたものが民主主義国家だというのが私の判断です。
その視点から見ると、国に責任がない場合には患者を救済しなくても良いということにはなりません。責任があろうがなかろうが、国には国民の生命と生活を守る義務があるのです。もちろん納税を代表として、そのサービスを受けるために国民がしなければならない義務もたくさんあります。』
先生の記述を私の理解の範囲で書きますと、
ア)国は国民の生命と生活を守る義務がある
イ)(法的)責任があろうとなかろうとその義務はある
ということかと思います。これが民主主義国家の前提である、というようなことかと思います。
ア)はそうだろうな、と思えますけれども、イ)は法的義務のないものまで国家に責任を持たせる、また、行為の権限を与える、ということになるように思われ、それは法治国家として正当なのでしょうか。基本的に、義務は法的に規定されるものであって、法の根拠なきものに義務などは発生しないのではないでしょうか。それでは無際限な義務を課すことがいくらでも可能になってしまいます。
=====
①一律救済するという裁判所判断が殆ど出てない理由をどのようにお考えでしょうか?
『裁判所が判断しているのは、どこまで国の責任を問えるかということであり、責任がないと判断された場合に救済義務は生じないということです。裁判所もそれでは民主主義国家としての政府の責任が果たせないだろうという判断をしたので、和解を呼びかけたということでしょう。
それとは別に、最近の日本の裁判が独立性を失いつつある傾向は顕著であり、憂慮しています。例えば、こちらなどをご覧下さい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20071212/143054/』
裁判所が和解を勧告したのは、全国各地で提訴が行われていることと、法的係争では10年以上の戦いとなってしまうので、原告団にとって肝炎の病状進行等、著しい不利益が発生してしまうことが十分考えられるからなのではないでしょうか。裁判所が何故和解勧告をしたのか、というのは問題の本質とは離れますので、推測してもあまり意味はないかもしれませんが。
「政府の責任が果たせないだろうという判断」をするのであれば、判決でそう示すのが当たり前であって、そう考えるのであれば被告である国に厳しい判決を出せば済むことです。しかし、5つの地裁で、それぞれ複数の裁判官たちが考えた結果であっても、必ずしもそうはなっていません。多くの裁判所が「民主主義国家としての政府の責任が果たせなくともよい」という考えを持っている、などとは思えません。
お示し頂いた記事は、私も記事に取り上げたことがあって拝見しておりました。要旨としては、裁判所の独立性を殊更に問題としているものではなかったように記憶しております。先生が憂慮されるような「傾向が顕著」というのは、恐らく個人的印象と受け止めておりますが、私の印象では逆でして、昔に比べれば行政裁判において行政側敗訴は結構あるかな、と思っておりました。信頼性が高い、とまでは言いませんが(いつも批判ばかりしてきたので)、権力側に安易に迎合しているというふうには見ておりませんでした。
=====
②法的責任がなくても被告に賠償させるべきだ、とお考えなのでしょうか?
『賠償ではなく、救済はすべきだと思っています。最初は知らなかったとは言え、その後知っていながら放置したのですから、さかのぼってペナルティを与えられても仕方がないでしょう。また、同じ処置を受けて薬害の被害者になった患者さんが、裁判で責任を認められた人とそうではなかった人に差を付けるなと主張することは、きわめて自然な人情というものだと思いますので、支持します。』
賠償ではなく救済、ということであれば、私の考えた「全ての肝炎患者を対象とする政策」であっても十分達成されうると思われ、賠償金の支払等は不必要である、とのご主張でしょうか?賠償金を払う、というのは、慰謝料等を含むものです。
「遡ってペナルティを与える」というのは、どういう意味合いなのでありましょうか?薬剤を認可時点で「当時には知りえなかった事実」であっても、知ってからの放置期間がある場合には、全て「薬剤の認可時点から賠償義務を生ずる」という理屈でしょうか?そのような権力行使の根拠とは、法以外の一体何なのでしょうか?ペナルティを与えるのは、一体誰なのでしょうか?
血液製剤を投与された結果、Aさんは「急性肝炎」となったがその後キャリアとはならず、Bさんは肝炎症状が出なかったがその後HCVキャリアとなってしまうと、「同じ薬の投与を受けて肝炎になったのだから、責任の有無の認定には関係なく差をつけてはいけない」とのご主張なのでしょうか?手術以前にHCVの陽性者であった者が、同じ薬剤を投与されていれば、やはり責任の有無の認定には無関係に賠償してもらえるということでしょうか?いずれも薬剤投与の証明ができれば、「一律に救済」ということでしょうか?
=====
③責任所在は、どこにあるとお考えでしょうか?
『もちろんおっしゃるように、我々国民も含めていろいろなところに責任は想定されると思います。しかし、今回の主役である旧ミドリ十字には厚生省の高級官僚が天下りして薬害にかかわっているということなどを考えると、最大の責任者はミドリ十字と許認可権を持っていた政府だと言えると思います。また、政府はミドリ十字が吸収合併されるときに、すべての財産を差し押さえるなどという行動をとれたはずなのに、それもやっていません。怠慢あるいは見逃し行為と言われても仕方がないと思います。』
多分大勢の方々が「旧ミドリ十字」と「旧厚生省」というふうに考えておられるだろうな、とは思っておりました。私も両者の責任は小さくない、と考えておりますが、やはり投与責任は医師にあるのであって、その責任はかなりある、と思っていました。回収指示が出されたにも関わらず、医療機関で個別に用いていた所があった、などというのも、医療機関側が意図的にそうしたとしか思えません。仮に、先生がお示しの高級官僚が悪意的に「感染しようとも関係ないぜ、薬を認可しておけ」というふうに画策したとしても、医師が投与を選択しなければそれで済む話です。製薬会社や役人がどれ程の悪巧みをしていたとしても、医師が使わなければそれでどうにもできません。承認が残されて販売が続いていたとしても、「その薬剤は使われなくなる」というだけですので。
肝炎患者のリストの話ですけれども、記載されていた患者さんは80年代の方々が圧倒的に多い、というわけでもなく、90年代以降に投与された患者数もかなりの数にのぼっています(正確な数字は見たことがないので判りかねますが)。HIV訴訟もかなり話が大きくなっていて、ミドリ十字の問題というのがその当時には世の中の大半の人々が既に判っていたと思えます。しかも問題とされていたのが血液製剤であり、同じような血液を介するウイルス感染症であるのに、90年代にみんなが肝炎の感染を問題としなかったことを不思議に思うのです。共産党あたりにも、医師出身の国会議員たちは多分いたであろうと思われますけれど、何故それら事実を公にしなかったのでしょう?そうした責任を問われないのは何故なのでしょう?
ミドリ十字の財産を差押え、というのは、どういった権力の行使なのでしょうか?政府が恣意的に「やってやれ」と思えば、一民間企業の私有財産を差し押さえることが可能ということでしょうか?国民が「あの企業の財産を差し押さえておけ」と願えば、国がそれを実行する社会ということでしょうか?ミドリ十字が存在しなくなった今、存続会社が代わりに被告となり賠償の責任を負わされると思いますが、財産差押えが必要なことだったのでしょうか?
=====
④何故フィブリノゲン(或いはクリスマシン)投与を受けた肝炎患者だけが一律に救済されるべきとお考えなのでしょうか?
『他の肝炎患者は、(十分とは言えないかもしれませんが)普通の医療制度のもとでの救済は保障されていると思います。同じ病気だからといって、明らかに医療という名の下で行われた人為的行為が原因となっているものと、原因不明のあるいは明らかに別の原因がある場合に扱いが変わるのは当然だと思います。』
C型肝炎の感染原因が、輸血であろうと、血液製剤であろうと、麻薬中毒者であろうと、病態自体には大きな違いはないように思うのですが、「普通の医療制度のもとで救済は保障されている」ということであれば、感染原因には関わらずその制度で救済されているのではありませんか?
感染理由が異なるということで「肝炎患者の線引きをする」というのであれば、何故原告団の線引き拒否を指摘しないのでしょうか?先生が書かれている「原因不明」とか「他の原因」という可能性は、例の肝炎患者リストにおいても同じです。輸血を受けていて、フィブリノゲン投与も受けている場合、先生が輸血による感染可能性を否定できる合理的根拠とは一体何なのでしょうか?先生のご意見に従えば、輸血によって感染したら、これは「他の原因」による感染者ということで「扱いが変わる」のは当然なのではありませんか?医療機関の医療器具の滅菌不良によって集団感染した場合も、これは「他の原因」による感染者なのではありませんか?
日本で輸血や血液製剤のない時代において、推定に過ぎませんが「相当数のキャリアが存在していた」と思いますよ。そうでなければ、輸血によって感染させられる人は殆ど出ないからですよ。HIVキャリアは皆無に等しいくらい存在していなかったので、輸血したことによってHIV感染者が拡大したとは認め難いでしょう。検査自体が存在しない時代においても、HIV感染者は殆ど出なかったのですよ。それは、「ウイルスを持っている人が日本には殆ど存在しなかったから」ですよ。
しかし、HCVキャリアはそれなりの数が存在していた為に、水平感染によってキャリアが拡散していったのです。その結果が、「供血者がキャリアである」確率が高くなり、輸血後肝炎となる例が多数あったと考えられるのです。フィブリノゲンが存在するはるか以前から、相当数のHCVキャリアが存在していた、と推定されるということです。これらキャリアからの感染は、不明な場合もかなりあるのです。それらを区別すると言いながら、感染原因の特定ができていないのに血液製剤を投与された方だけを賠償するというのは、そもそも不合理なのではありませんか、ということです。
=====
⑤政府や政党の操作性についての原則や例外のようなお考えがあるのでしょうか?
司法判断に不服である時には、国民が感情的に騒ぐことで政府や政党を操作し、これら判断を超えることができることが正しい、というお考えのように見受けられます。そうであるなら、司法判断をひっくり返す為には、煽動的工作活動を行い成功したものがそれら操作の利益を得るようにも思えますが、そのことが危険であるとの認識はないのでしょうか。
『確かに危険はともないますが、民主主義という制度そのものが持つ基本的な危険性だと思います。上のまさくにさんの文章から「感情的」な部分を抜くと、なかなか良い民主主義の説明になると思います。以下、改変文です。
司法判断に不服である時には、国民が直接行動することで政府や政党を動かし、これら判断を超えることができることは正しい。司法も人間の行為である以上誤る可能性があるので、司法判断をくつがえす為に、さまざまな民主的活動を行いことは国民の利益に沿うものである。』
司法判断に不服であれば、人民が判事となって判決を超えろ、ということでしょうか?これこそ、法を無視するものなのではありませんか?そんな権力を誰に与えると言うのでしょう。最高裁が出した判決に不服であれば、直接行動に出た国民が「判決にはなかった賠償」とか「私有財産差押え」とか、そういうこともできてしまいますよ、と。これこそ、危険なのではありませんか?統治機構が崩れてしまうと思います。一部の徒党の暴走を食い止める方法を失いますね。少なくとも、私はそんな社会を望みません。
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tochinai先生、早速のご回答をいただきまして、誠に有難うございます。興味深く拝見致しましたが、若干の疑問点もございますので、その辺りにつきまして、書いてみたいと思います。
(以下、tochinai先生のご回答部分は『』で引用致します)
『丁寧にご質問いただいたので、まさくにさんのご質問に簡単にお答えしたいと思います。まさくにさんと私の違いは、基本的にこの問題に対する視点の違いに由来するものだと思います。まさくにさんの主な主張は「責任」はどこにあるのかということだと思いますが、私は責任問題も無視はしておりませんが、国(政府、政治)はなんのために存在するのかというところから発想しています。国は国民の生命と生活を守るために、国民によって作られたものが民主主義国家だというのが私の判断です。
その視点から見ると、国に責任がない場合には患者を救済しなくても良いということにはなりません。責任があろうがなかろうが、国には国民の生命と生活を守る義務があるのです。もちろん納税を代表として、そのサービスを受けるために国民がしなければならない義務もたくさんあります。』
先生の記述を私の理解の範囲で書きますと、
ア)国は国民の生命と生活を守る義務がある
イ)(法的)責任があろうとなかろうとその義務はある
ということかと思います。これが民主主義国家の前提である、というようなことかと思います。
ア)はそうだろうな、と思えますけれども、イ)は法的義務のないものまで国家に責任を持たせる、また、行為の権限を与える、ということになるように思われ、それは法治国家として正当なのでしょうか。基本的に、義務は法的に規定されるものであって、法の根拠なきものに義務などは発生しないのではないでしょうか。それでは無際限な義務を課すことがいくらでも可能になってしまいます。
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①一律救済するという裁判所判断が殆ど出てない理由をどのようにお考えでしょうか?
『裁判所が判断しているのは、どこまで国の責任を問えるかということであり、責任がないと判断された場合に救済義務は生じないということです。裁判所もそれでは民主主義国家としての政府の責任が果たせないだろうという判断をしたので、和解を呼びかけたということでしょう。
それとは別に、最近の日本の裁判が独立性を失いつつある傾向は顕著であり、憂慮しています。例えば、こちらなどをご覧下さい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20071212/143054/』
裁判所が和解を勧告したのは、全国各地で提訴が行われていることと、法的係争では10年以上の戦いとなってしまうので、原告団にとって肝炎の病状進行等、著しい不利益が発生してしまうことが十分考えられるからなのではないでしょうか。裁判所が何故和解勧告をしたのか、というのは問題の本質とは離れますので、推測してもあまり意味はないかもしれませんが。
「政府の責任が果たせないだろうという判断」をするのであれば、判決でそう示すのが当たり前であって、そう考えるのであれば被告である国に厳しい判決を出せば済むことです。しかし、5つの地裁で、それぞれ複数の裁判官たちが考えた結果であっても、必ずしもそうはなっていません。多くの裁判所が「民主主義国家としての政府の責任が果たせなくともよい」という考えを持っている、などとは思えません。
お示し頂いた記事は、私も記事に取り上げたことがあって拝見しておりました。要旨としては、裁判所の独立性を殊更に問題としているものではなかったように記憶しております。先生が憂慮されるような「傾向が顕著」というのは、恐らく個人的印象と受け止めておりますが、私の印象では逆でして、昔に比べれば行政裁判において行政側敗訴は結構あるかな、と思っておりました。信頼性が高い、とまでは言いませんが(いつも批判ばかりしてきたので)、権力側に安易に迎合しているというふうには見ておりませんでした。
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②法的責任がなくても被告に賠償させるべきだ、とお考えなのでしょうか?
『賠償ではなく、救済はすべきだと思っています。最初は知らなかったとは言え、その後知っていながら放置したのですから、さかのぼってペナルティを与えられても仕方がないでしょう。また、同じ処置を受けて薬害の被害者になった患者さんが、裁判で責任を認められた人とそうではなかった人に差を付けるなと主張することは、きわめて自然な人情というものだと思いますので、支持します。』
賠償ではなく救済、ということであれば、私の考えた「全ての肝炎患者を対象とする政策」であっても十分達成されうると思われ、賠償金の支払等は不必要である、とのご主張でしょうか?賠償金を払う、というのは、慰謝料等を含むものです。
「遡ってペナルティを与える」というのは、どういう意味合いなのでありましょうか?薬剤を認可時点で「当時には知りえなかった事実」であっても、知ってからの放置期間がある場合には、全て「薬剤の認可時点から賠償義務を生ずる」という理屈でしょうか?そのような権力行使の根拠とは、法以外の一体何なのでしょうか?ペナルティを与えるのは、一体誰なのでしょうか?
血液製剤を投与された結果、Aさんは「急性肝炎」となったがその後キャリアとはならず、Bさんは肝炎症状が出なかったがその後HCVキャリアとなってしまうと、「同じ薬の投与を受けて肝炎になったのだから、責任の有無の認定には関係なく差をつけてはいけない」とのご主張なのでしょうか?手術以前にHCVの陽性者であった者が、同じ薬剤を投与されていれば、やはり責任の有無の認定には無関係に賠償してもらえるということでしょうか?いずれも薬剤投与の証明ができれば、「一律に救済」ということでしょうか?
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③責任所在は、どこにあるとお考えでしょうか?
『もちろんおっしゃるように、我々国民も含めていろいろなところに責任は想定されると思います。しかし、今回の主役である旧ミドリ十字には厚生省の高級官僚が天下りして薬害にかかわっているということなどを考えると、最大の責任者はミドリ十字と許認可権を持っていた政府だと言えると思います。また、政府はミドリ十字が吸収合併されるときに、すべての財産を差し押さえるなどという行動をとれたはずなのに、それもやっていません。怠慢あるいは見逃し行為と言われても仕方がないと思います。』
多分大勢の方々が「旧ミドリ十字」と「旧厚生省」というふうに考えておられるだろうな、とは思っておりました。私も両者の責任は小さくない、と考えておりますが、やはり投与責任は医師にあるのであって、その責任はかなりある、と思っていました。回収指示が出されたにも関わらず、医療機関で個別に用いていた所があった、などというのも、医療機関側が意図的にそうしたとしか思えません。仮に、先生がお示しの高級官僚が悪意的に「感染しようとも関係ないぜ、薬を認可しておけ」というふうに画策したとしても、医師が投与を選択しなければそれで済む話です。製薬会社や役人がどれ程の悪巧みをしていたとしても、医師が使わなければそれでどうにもできません。承認が残されて販売が続いていたとしても、「その薬剤は使われなくなる」というだけですので。
肝炎患者のリストの話ですけれども、記載されていた患者さんは80年代の方々が圧倒的に多い、というわけでもなく、90年代以降に投与された患者数もかなりの数にのぼっています(正確な数字は見たことがないので判りかねますが)。HIV訴訟もかなり話が大きくなっていて、ミドリ十字の問題というのがその当時には世の中の大半の人々が既に判っていたと思えます。しかも問題とされていたのが血液製剤であり、同じような血液を介するウイルス感染症であるのに、90年代にみんなが肝炎の感染を問題としなかったことを不思議に思うのです。共産党あたりにも、医師出身の国会議員たちは多分いたであろうと思われますけれど、何故それら事実を公にしなかったのでしょう?そうした責任を問われないのは何故なのでしょう?
ミドリ十字の財産を差押え、というのは、どういった権力の行使なのでしょうか?政府が恣意的に「やってやれ」と思えば、一民間企業の私有財産を差し押さえることが可能ということでしょうか?国民が「あの企業の財産を差し押さえておけ」と願えば、国がそれを実行する社会ということでしょうか?ミドリ十字が存在しなくなった今、存続会社が代わりに被告となり賠償の責任を負わされると思いますが、財産差押えが必要なことだったのでしょうか?
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④何故フィブリノゲン(或いはクリスマシン)投与を受けた肝炎患者だけが一律に救済されるべきとお考えなのでしょうか?
『他の肝炎患者は、(十分とは言えないかもしれませんが)普通の医療制度のもとでの救済は保障されていると思います。同じ病気だからといって、明らかに医療という名の下で行われた人為的行為が原因となっているものと、原因不明のあるいは明らかに別の原因がある場合に扱いが変わるのは当然だと思います。』
C型肝炎の感染原因が、輸血であろうと、血液製剤であろうと、麻薬中毒者であろうと、病態自体には大きな違いはないように思うのですが、「普通の医療制度のもとで救済は保障されている」ということであれば、感染原因には関わらずその制度で救済されているのではありませんか?
感染理由が異なるということで「肝炎患者の線引きをする」というのであれば、何故原告団の線引き拒否を指摘しないのでしょうか?先生が書かれている「原因不明」とか「他の原因」という可能性は、例の肝炎患者リストにおいても同じです。輸血を受けていて、フィブリノゲン投与も受けている場合、先生が輸血による感染可能性を否定できる合理的根拠とは一体何なのでしょうか?先生のご意見に従えば、輸血によって感染したら、これは「他の原因」による感染者ということで「扱いが変わる」のは当然なのではありませんか?医療機関の医療器具の滅菌不良によって集団感染した場合も、これは「他の原因」による感染者なのではありませんか?
日本で輸血や血液製剤のない時代において、推定に過ぎませんが「相当数のキャリアが存在していた」と思いますよ。そうでなければ、輸血によって感染させられる人は殆ど出ないからですよ。HIVキャリアは皆無に等しいくらい存在していなかったので、輸血したことによってHIV感染者が拡大したとは認め難いでしょう。検査自体が存在しない時代においても、HIV感染者は殆ど出なかったのですよ。それは、「ウイルスを持っている人が日本には殆ど存在しなかったから」ですよ。
しかし、HCVキャリアはそれなりの数が存在していた為に、水平感染によってキャリアが拡散していったのです。その結果が、「供血者がキャリアである」確率が高くなり、輸血後肝炎となる例が多数あったと考えられるのです。フィブリノゲンが存在するはるか以前から、相当数のHCVキャリアが存在していた、と推定されるということです。これらキャリアからの感染は、不明な場合もかなりあるのです。それらを区別すると言いながら、感染原因の特定ができていないのに血液製剤を投与された方だけを賠償するというのは、そもそも不合理なのではありませんか、ということです。
=====
⑤政府や政党の操作性についての原則や例外のようなお考えがあるのでしょうか?
司法判断に不服である時には、国民が感情的に騒ぐことで政府や政党を操作し、これら判断を超えることができることが正しい、というお考えのように見受けられます。そうであるなら、司法判断をひっくり返す為には、煽動的工作活動を行い成功したものがそれら操作の利益を得るようにも思えますが、そのことが危険であるとの認識はないのでしょうか。
『確かに危険はともないますが、民主主義という制度そのものが持つ基本的な危険性だと思います。上のまさくにさんの文章から「感情的」な部分を抜くと、なかなか良い民主主義の説明になると思います。以下、改変文です。
司法判断に不服である時には、国民が直接行動することで政府や政党を動かし、これら判断を超えることができることは正しい。司法も人間の行為である以上誤る可能性があるので、司法判断をくつがえす為に、さまざまな民主的活動を行いことは国民の利益に沿うものである。』
司法判断に不服であれば、人民が判事となって判決を超えろ、ということでしょうか?これこそ、法を無視するものなのではありませんか?そんな権力を誰に与えると言うのでしょう。最高裁が出した判決に不服であれば、直接行動に出た国民が「判決にはなかった賠償」とか「私有財産差押え」とか、そういうこともできてしまいますよ、と。これこそ、危険なのではありませんか?統治機構が崩れてしまうと思います。一部の徒党の暴走を食い止める方法を失いますね。少なくとも、私はそんな社会を望みません。
そもそもの現代国家の成り立ちというものを私なりに考えてみますと、
・皆が共同で求めているものがある(法の整備、治安維持、国土の整備、外交、環境、福祉等々……)
・しかし、誰しもがその役割に就けるわけではないし、その余裕(時間)がない
・だから、国民は税金を納めて政府、行政機関にその実現を委任する
大まかに言ってこういったところでしょうか。
つまり国家が責任を負うということは、間接的に国民全員が責任を負うということです。国家が問題を抱えるということは国民が問題を抱えることであり、国家が不利益な立場に立たされるということは国民が不利益な立場に立たされるということです。だから国家も法の縛りのもとで行動するのです。
法に基づかず(今回は反則的な法整備をするそうですが)際限なく国家補償を自分たちの税金から行うということを理解している人が何人いらっしゃるのでしょうか?彼らのほとんどは「増税には大反対」という立場ではないでしょうか?
これだけ日本が財政破綻の危機に直面していても、まだ国家は打ち出の小槌でしょうか?彼らにはいっそ日本が財政破綻して円が急落し持金すべて紙くずにしてもらった方が理解が早いのでしょうが、私は嫌ですね。
税金から払うんだよ、と言う人がいれば、役人はもっと無駄に使ってるじゃないか、という。
どの道、よく考えることのできない連中には「間違った主張をするのはやめてくれ」といくらお願いしても、「可哀想な被害者」の言うことは全面的に正しいのだ、という無条件の肯定があるのですね。これに逆らえば「お前も役人の仲間か、それでも血が通ってるのか、人情がわからないのか、政治は国民のためにある」とか言われて叩かれるだけですね。
少なくとも、お金については「相手が間違った使い方」をしていることを責めたり指摘しても、自らの「誤った使い方」を正当化するものではないですね。
ある夫婦がいて、妻が夫に「あんたパチンコばっかり無駄に金を使ってるじゃないの!」と批判し、夫が「そういう自分だって、競馬とパチスロに使ってるだろ」みたいに非難しても、しょうがないということですね(笑)