金利上限引下げ問題の記事を書いていて、不思議に思うことがある。それは、「早稲田大学消費者金融サービス研究所」の出してるペーパーをある種の「証拠」として提示している人たちが、なぜその内容に何らの疑問を感じないのか、ということだ。
参考記事:
貸金業の上限金利問題~その8
有名どころでは、公認会計士である「isologue」の磯崎氏、官僚であるbewaad氏、弁護士である「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」の47th氏などであり、いずれのブログも読者が多いだろうし、社会的にも十分信頼されうる人たちだ。私も勿論彼らの記事をいつも読んでいるし、勉強させてもらっている。だが、そういう人たちが揃って、同じようなペーパーを根拠に金利引下げには反対の論を展開しており、少なくともペーパー自体が「疑念を差し挟む余地はない」か「(無条件に)正しい」とする立場であるという印象を受けた。で、問題とされた金融庁だかの懇談会で大勢を占めた「金利上限引き下げ論」に対しては、厳しい批判をしていると思われる。
それはそれで、個人の意見表明であり、自由なことだと思うが、「金利上限引下げ論者は(提示されたようなペーパーに対して)論理的に有効な反論をしてから、引下げ論を言うべき」と批判している以上、彼らが論拠となした「ペーパー」に関しては、十分信頼できると判断した理由というのが必ず存在するはずで、ペーパーへの反論に対しては論理的説明ができるはずだと思う。もしも、信頼できないということならば、当然そのペーパーの意見を自分の意見の論拠として採用しないからだ。
「経済学理論の見地からも考えるべき」ということには、反対する積もりはない。その思考過程というか、政策決定に際しては、そのような複眼的考え方を用いた方がよい、ということには、多くが特段の反対はしないと思う。検討するのには、有効な方法が色々あった方がよい、と普通は考えるからだ。その結果、意見の採用・不採用とか、どこに比重を置くべきかという価値観的相違(例えば「国民感情に配慮する」といったような)になってくるとするならば、それは価値判断の問題であると思う。
「単なる同情や人情というような曖昧な判断をするのはよくない」ということは、ある意味正しいとは思う。私はよくそういった判断をしやすいからね。けれども、「経済学理論に基づいて判断するべき」と主張する人々が、素人目で見て疑問に感じるような理論を用いている時、その正しさを説明できないということは有り得るのでしょうか?経済学的な考え方を信頼している人々は、経済学理論の中でも「あれはトンデモ理論だ」とか批判をしていることは少なくないと思うが、「トンデモ理論」を振りかざしている経済学者と「説明不能なペーパー」を論拠となしている人々には、何か違いはあるのでしょうか?そうでないなら、有効な反論というものがあってもいいと思います。
私は別に喧嘩を売りたい訳でもなく、ブログ界の著名人に噛み付いたところで特段の利益を生ずる訳でもないですが、根本的な疑問が拭い去れないのですね。それは人々に「理論を重んじろ」ということを表明する、社会的にも信頼され、知的水準がそれなりに高いと思われるような人々が、なぜ「早稲田大学消費者金融サービス研究所」のペーパーを鵜呑みにするのか、ということです。鵜呑みという言い方は不適切かもしれませんが、彼らの論の展開としては、土台の部分では件のペーパーがあってのものだからです。十分信頼できると考えるから採用する訳ですよね?その評価の源は何によるのか、ということが謎なのです。単に権威主義的に「早稲田大学だから」というようなことで信頼するということでもないですよね?ならば、読み手の評価が必ず存在し、その時の評価とは「彼らが知っている経済学的理論」に十分適合したものであるはずなのです(それ故採用したわけで)。彼らは政策についても、「経済学的理論で評価するべき」と求める訳ですし。その「読み手の評価」というのがあるのであれば、素人に湧いてくるような程度のごく普通の疑問は、きっと説明可能なものであると思います。
私は既に自分の思い込みで誤った読み方をしていたことがあるので、前科持ちということになりますから(笑)、自分の疑問・解釈というのが「経済学理論では間違いです」と指摘されるならば、喜んで訂正します。件のペーパー類が本当に適切な分析を行っている、ということを支持する人たちは、論理的説明が可能であるからそのように判断すると思いますので。
是非色々とご指摘下さればと思います。
参考記事:
貸金業の上限金利問題~その8
有名どころでは、公認会計士である「isologue」の磯崎氏、官僚であるbewaad氏、弁護士である「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」の47th氏などであり、いずれのブログも読者が多いだろうし、社会的にも十分信頼されうる人たちだ。私も勿論彼らの記事をいつも読んでいるし、勉強させてもらっている。だが、そういう人たちが揃って、同じようなペーパーを根拠に金利引下げには反対の論を展開しており、少なくともペーパー自体が「疑念を差し挟む余地はない」か「(無条件に)正しい」とする立場であるという印象を受けた。で、問題とされた金融庁だかの懇談会で大勢を占めた「金利上限引き下げ論」に対しては、厳しい批判をしていると思われる。
それはそれで、個人の意見表明であり、自由なことだと思うが、「金利上限引下げ論者は(提示されたようなペーパーに対して)論理的に有効な反論をしてから、引下げ論を言うべき」と批判している以上、彼らが論拠となした「ペーパー」に関しては、十分信頼できると判断した理由というのが必ず存在するはずで、ペーパーへの反論に対しては論理的説明ができるはずだと思う。もしも、信頼できないということならば、当然そのペーパーの意見を自分の意見の論拠として採用しないからだ。
「経済学理論の見地からも考えるべき」ということには、反対する積もりはない。その思考過程というか、政策決定に際しては、そのような複眼的考え方を用いた方がよい、ということには、多くが特段の反対はしないと思う。検討するのには、有効な方法が色々あった方がよい、と普通は考えるからだ。その結果、意見の採用・不採用とか、どこに比重を置くべきかという価値観的相違(例えば「国民感情に配慮する」といったような)になってくるとするならば、それは価値判断の問題であると思う。
「単なる同情や人情というような曖昧な判断をするのはよくない」ということは、ある意味正しいとは思う。私はよくそういった判断をしやすいからね。けれども、「経済学理論に基づいて判断するべき」と主張する人々が、素人目で見て疑問に感じるような理論を用いている時、その正しさを説明できないということは有り得るのでしょうか?経済学的な考え方を信頼している人々は、経済学理論の中でも「あれはトンデモ理論だ」とか批判をしていることは少なくないと思うが、「トンデモ理論」を振りかざしている経済学者と「説明不能なペーパー」を論拠となしている人々には、何か違いはあるのでしょうか?そうでないなら、有効な反論というものがあってもいいと思います。
私は別に喧嘩を売りたい訳でもなく、ブログ界の著名人に噛み付いたところで特段の利益を生ずる訳でもないですが、根本的な疑問が拭い去れないのですね。それは人々に「理論を重んじろ」ということを表明する、社会的にも信頼され、知的水準がそれなりに高いと思われるような人々が、なぜ「早稲田大学消費者金融サービス研究所」のペーパーを鵜呑みにするのか、ということです。鵜呑みという言い方は不適切かもしれませんが、彼らの論の展開としては、土台の部分では件のペーパーがあってのものだからです。十分信頼できると考えるから採用する訳ですよね?その評価の源は何によるのか、ということが謎なのです。単に権威主義的に「早稲田大学だから」というようなことで信頼するということでもないですよね?ならば、読み手の評価が必ず存在し、その時の評価とは「彼らが知っている経済学的理論」に十分適合したものであるはずなのです(それ故採用したわけで)。彼らは政策についても、「経済学的理論で評価するべき」と求める訳ですし。その「読み手の評価」というのがあるのであれば、素人に湧いてくるような程度のごく普通の疑問は、きっと説明可能なものであると思います。
私は既に自分の思い込みで誤った読み方をしていたことがあるので、前科持ちということになりますから(笑)、自分の疑問・解釈というのが「経済学理論では間違いです」と指摘されるならば、喜んで訂正します。件のペーパー類が本当に適切な分析を行っている、ということを支持する人たちは、論理的説明が可能であるからそのように判断すると思いますので。
是非色々とご指摘下さればと思います。
私自身は、あのペーパーを持ってこの問題に対するミクロ経済学的見地が正しいとは言いがたいとは思います。他方でミクロ経済学の実証分析というのはデータ上の制約があり、あのペーパーはある程度まとまったデータを用いて実証を試みた、という点で意義はあるはずです。それと同時に、あのペーパーのモデルの信頼性というか精度がそれほど高くないとしても、ミクロ経済学のロジックを全否定することは出来ないということにも留意しないといけません(モデルの組み立て方がこのロジックに対する反証を可能にするように作ってないからです)。
実証分析に対する反証というのはデータを持った実証分析を持ってより説明力の高いモデルを提示することを要求されます。それが出来ない限りは暫定的な結論としてそれを実証の結果ということで許容せざるを得ません。
権威主義というと語弊がありますが、ああいうデータを持ってきて、整理して入力して、処理をすること自体簡単に見えて結構骨が折れる作業なので、その労苦に対する敬意は持たないといけないと思います。
ロジスティックス分析に使ったデータセットのサンプル数や値の分布を乗せるべきだ、とか、データセットにあって使われていない他の属性があるならそれを追加して分析出来ないのか、とか、そういう批判を集めるためにあのペーパーは公表されているものですよ。
それに、ペーパー自体を「無価値」などと考えたりはしていませんし、いくつかの判断材料や思考を与えてくれる、価値のあるものだと思います。その労力たるや、相当大変なものであろうとというのは、ご指摘の通りであろうな、と思います。
しかし、経済学やペーパーというのは、経済学の外側にあって、その知識を有していない人々をバカにしたりするためにある訳ではない、とも思います。更には、論拠となすペーパーを挙げて、それを援用するのであれば、(私へ向けられた批判と同じく)自分で読んで評価するのが妥当ではないかと思われます。
私が記事に書いたようなペーパーに対する批判は、特に経済学をよく知る人々にとっては、非常に不快な思いをさせてしまったであろうと思います。これについては、本意ではないのでお詫びしますが、敢えてそのような書き方をしました。
それは、ごく一部に見受けられる、経済学理論を掲げ、経済学に関する知識を有しない人間たちを誹謗・揶揄する姿勢というのは、経済学に何の関係もない人間にとっても、同じように不快だからです。経済学のペーパーを用いて、経済学的知識を持たない人々の判断や意見を否定する以上、他ならぬ「経済学に関するペーパー」への反論には答えるのが当然と思います。今の所、1つの論文についてしか、応答がないのですけれど。