日銀の野田審議委員の講演を見たが、審議委員の人選に疑念を生じさせるには十分な内容であった。
>滋賀県金融経済懇談会における野田審議委員挨拶要旨「金融政策FAQ」:日本銀行
デフレなのは需要不足だから、という、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す専門家とかいう肩書きの連中がいるが、だったら、公共事業をドドーンとぶち込めば、疾うの昔にデフレを終わらせられる、ということじゃないか(笑)。
90年代に公共事業をやって、デフレを終わらせればそれで良かったでしょ。
日銀も、経済学者も間抜けのバカ揃いってことか?
公共事業は効果がない、とか、財政出動ではデフレは解消しない、とか、そういうことを言う専門家面した連中もいたでしょうが。
全くの出鱈目運営、論理的でもなけりゃ、学術的に正しいわけでもない、出たとこ勝負の「思いつき」運営と何が違うのでしょうか?
素人目には、日銀の政策決定が正しかった、などということは、全く考えられませんな。
それに、日銀が正しかったのなら、完治しとるでしょうが(笑)。間違ってるから、治らないわけで。しかも、世界中で「日本だけ」だから。こういう病気になって、これほど長期に渡って治ってないのは。
日銀の説明には色んなパターンというものがあるが、それは必ず「他人のせい」にする、ということである。これまでによくあったのが、
◎構造改革が足りない
→”努力が足りないから、生産性向上が足りないんだ”教
→”過去のお荷物(バブル期の負債とか人員とか)の整理がまだまだ足りないんだ”教
みたいなやつね。
学術的に実証されたとか、経済学界で共通認識が出来上がって、学術論争に決着がつけられた、なんてことは、一度も聞いたことがないわけだが。
今、日銀内の旬の新興宗教みたいな教義は、「需要不足」教が流行っているみたい。
平たく言うと、「もっと金を使ってみたくなるような産業なり商品なりサービスなり、そういうのを生み出せ」と。金があるのだから、使わせろや、と。どうしてこういう発想に結び付くかというと、「良い商品、魅力的商品」なんかは需要が伸びてるじゃないか、というような理屈ですな。不況下だって、伸びてる分野とか商品やサービスなんかはあるぞ、と。
そりゃあ、確かに正しい部分もあるね。
だが、基本的には「金を持たせりゃ、使う」というのが普通なのでは。かつてのバブル期だってそうだし、それ以前の70年代~80年代にしてもそうだ。別に、その当時の人たちが日本人の中でも飛び抜けて消費性向が強かったというわけでもあるまいに。
まず、節約するのには、ワケがあったのだ。
普段は食べられない高級なものを食べようとか、貯めたお金で海外旅行に行こうとか、ブランドバッグを買おうとか、バイクを買いたいとか、庭付き1戸建てを買おうとか、そういう「遠大な目的」みたいなものがあったのだよ。これが普通だったと思うけど。他の部分はダサいけど、いい車だけは買いたい、というのも珍しくはなかった。
何となく、「何に使ったか判らない」というふうに出費が知らず知らずに出てゆくくらいなら、少々辛抱しても「自分の本当にほしいもの」とか「何か形として残るもの」とか、そういうのを求めていたのだということ。
だが、今は生き延びるためには仕方なしに節約せざるを得ない、ということなのだ。
誰だって、金があれば「松坂牛」のいい肉を食べたいに決まってるだろ。布みたいに筋ばった安い輸入牛を優先して食べたい、なんて人はまずいないと思うぞ。それを選択できないのは、金を持ってないから、だ。
欲しいもの・買いたいものがない、なんてのは、日銀の審議委員でございとふんぞり返っているような連中だけだろう(笑)。どこの誰が好んで、安物を欲しがると思うか?
ブランド品のいい財布より、100円ショップの財布の方が欲しくて欲しくてたまりません、なんて人がそんなに大勢いると思うか?
そういうのは、嘘だと思うぞ。
普通に、いい服を着たり、おいしいものを食べたり、家や車やその他の財だって、海外旅行だって、何だって望んでいるに決まっているだろ。しかし、「金がないから、断念せざるを得ない、諦めざるを得ない」ということなんだよ。金は有限だからだ。それどころか、贅沢品の購入なんて話ではなくて、必要最低限の病気の治療費さえも我慢する始末じゃないか。国民年金保険料を払いたくても払えない、市町村国民健康保険料も払えない、住む家の家賃すら払えない、そういう生存限界にまで達しているのが実情だろ。
需要がない、なんてのは、真っ赤なウソに過ぎない。「人間らしく生きられる」程度の収入をもたらせば、それだけで普通に需要は生まれる。
全くの適当だが、仮に所得下位の20%の人たちが使うお金が40兆円だとして、その所得が1.5倍になれば20兆円分が拡大される。その人たちがこれまで払えなかった分とか、使うのを我慢していた分とか、それだけで十分需要は増大するだろう。年収200万円以下の人が300円とか400万円とか、そういう普通の所得を得るだけでも消費は拡大されるはずだ。
将来の年金もらえるわけない、とか、いずれ医療保険料も年金保険料はもっと上がる、とか、必ず増税される、とか、将来の不安要素と自由になるお金の更なる減少さえ危惧されているのだから、若い世代が使わずに貯蓄しようと思うのは当然なんだよ。
需要がないのではない。
金を持たせてないことが問題なんだ。
普通に使える分さえ削り取ってることが、最大の問題なのだよ。
日銀の連中は、『ひとごと』なんだよ。
彼らには、骨の髄に染みて、人々の生活や経済というものを感じ取ってなんかいないんだ。うわべの、経済指標というデータをながめて、彼らの共同体の中で都合よくやってるに過ぎない。
>滋賀県金融経済懇談会における野田審議委員挨拶要旨「金融政策FAQ」:日本銀行
デフレなのは需要不足だから、という、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す専門家とかいう肩書きの連中がいるが、だったら、公共事業をドドーンとぶち込めば、疾うの昔にデフレを終わらせられる、ということじゃないか(笑)。
90年代に公共事業をやって、デフレを終わらせればそれで良かったでしょ。
日銀も、経済学者も間抜けのバカ揃いってことか?
公共事業は効果がない、とか、財政出動ではデフレは解消しない、とか、そういうことを言う専門家面した連中もいたでしょうが。
全くの出鱈目運営、論理的でもなけりゃ、学術的に正しいわけでもない、出たとこ勝負の「思いつき」運営と何が違うのでしょうか?
素人目には、日銀の政策決定が正しかった、などということは、全く考えられませんな。
それに、日銀が正しかったのなら、完治しとるでしょうが(笑)。間違ってるから、治らないわけで。しかも、世界中で「日本だけ」だから。こういう病気になって、これほど長期に渡って治ってないのは。
日銀の説明には色んなパターンというものがあるが、それは必ず「他人のせい」にする、ということである。これまでによくあったのが、
◎構造改革が足りない
→”努力が足りないから、生産性向上が足りないんだ”教
→”過去のお荷物(バブル期の負債とか人員とか)の整理がまだまだ足りないんだ”教
みたいなやつね。
学術的に実証されたとか、経済学界で共通認識が出来上がって、学術論争に決着がつけられた、なんてことは、一度も聞いたことがないわけだが。
今、日銀内の旬の新興宗教みたいな教義は、「需要不足」教が流行っているみたい。
平たく言うと、「もっと金を使ってみたくなるような産業なり商品なりサービスなり、そういうのを生み出せ」と。金があるのだから、使わせろや、と。どうしてこういう発想に結び付くかというと、「良い商品、魅力的商品」なんかは需要が伸びてるじゃないか、というような理屈ですな。不況下だって、伸びてる分野とか商品やサービスなんかはあるぞ、と。
そりゃあ、確かに正しい部分もあるね。
だが、基本的には「金を持たせりゃ、使う」というのが普通なのでは。かつてのバブル期だってそうだし、それ以前の70年代~80年代にしてもそうだ。別に、その当時の人たちが日本人の中でも飛び抜けて消費性向が強かったというわけでもあるまいに。
まず、節約するのには、ワケがあったのだ。
普段は食べられない高級なものを食べようとか、貯めたお金で海外旅行に行こうとか、ブランドバッグを買おうとか、バイクを買いたいとか、庭付き1戸建てを買おうとか、そういう「遠大な目的」みたいなものがあったのだよ。これが普通だったと思うけど。他の部分はダサいけど、いい車だけは買いたい、というのも珍しくはなかった。
何となく、「何に使ったか判らない」というふうに出費が知らず知らずに出てゆくくらいなら、少々辛抱しても「自分の本当にほしいもの」とか「何か形として残るもの」とか、そういうのを求めていたのだということ。
だが、今は生き延びるためには仕方なしに節約せざるを得ない、ということなのだ。
誰だって、金があれば「松坂牛」のいい肉を食べたいに決まってるだろ。布みたいに筋ばった安い輸入牛を優先して食べたい、なんて人はまずいないと思うぞ。それを選択できないのは、金を持ってないから、だ。
欲しいもの・買いたいものがない、なんてのは、日銀の審議委員でございとふんぞり返っているような連中だけだろう(笑)。どこの誰が好んで、安物を欲しがると思うか?
ブランド品のいい財布より、100円ショップの財布の方が欲しくて欲しくてたまりません、なんて人がそんなに大勢いると思うか?
そういうのは、嘘だと思うぞ。
普通に、いい服を着たり、おいしいものを食べたり、家や車やその他の財だって、海外旅行だって、何だって望んでいるに決まっているだろ。しかし、「金がないから、断念せざるを得ない、諦めざるを得ない」ということなんだよ。金は有限だからだ。それどころか、贅沢品の購入なんて話ではなくて、必要最低限の病気の治療費さえも我慢する始末じゃないか。国民年金保険料を払いたくても払えない、市町村国民健康保険料も払えない、住む家の家賃すら払えない、そういう生存限界にまで達しているのが実情だろ。
需要がない、なんてのは、真っ赤なウソに過ぎない。「人間らしく生きられる」程度の収入をもたらせば、それだけで普通に需要は生まれる。
全くの適当だが、仮に所得下位の20%の人たちが使うお金が40兆円だとして、その所得が1.5倍になれば20兆円分が拡大される。その人たちがこれまで払えなかった分とか、使うのを我慢していた分とか、それだけで十分需要は増大するだろう。年収200万円以下の人が300円とか400万円とか、そういう普通の所得を得るだけでも消費は拡大されるはずだ。
将来の年金もらえるわけない、とか、いずれ医療保険料も年金保険料はもっと上がる、とか、必ず増税される、とか、将来の不安要素と自由になるお金の更なる減少さえ危惧されているのだから、若い世代が使わずに貯蓄しようと思うのは当然なんだよ。
需要がないのではない。
金を持たせてないことが問題なんだ。
普通に使える分さえ削り取ってることが、最大の問題なのだよ。
日銀の連中は、『ひとごと』なんだよ。
彼らには、骨の髄に染みて、人々の生活や経済というものを感じ取ってなんかいないんだ。うわべの、経済指標というデータをながめて、彼らの共同体の中で都合よくやってるに過ぎない。