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政策決定と価値観

2007年01月04日 02時35分42秒 | 社会全般
昨年末に記述を追加したいと書いたので、それを少々。


貸金業法改正の問題を通じ、政策決定に関して色々と考えさせられることがあったので、改めて記しておきたい。


政策決定に際しては、細分化されたあらゆる分野について、官僚や政治家たちが正確な専門的知識を有しているとは限らないので、各種審議会とか有識者会議等で検討が行われることになる。その場での議論には、専門性や客観性が約束されているわけではないし、正当性の検証についても行われているわけではないのである。こうした部分で、議論が紛糾する余地を生じてしまうかもしれない。


ここで、政策決定に関する大串正樹氏の論説を紹介したい(調べものをしていたら偶然発見した。私にとっては、内容的にちょっと難しいのですが、一応理解したつもりで挙げてみた)。




政策空間 政策過程論の知識科学的転回


 マイケル・オークショット(Oakeshott, 1962)は、『政治における合理主義』という論文の中で「人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく二つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている」として、「技術知」と「実践知」という概念を示した。「技術知」とは、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移され諸ルールへと定式化される知識であり、全ての実践活動に含まれるものである。そして「実践知」とは、使用のうちにのみある知識で反省的なものではなく、ルールに定式化することができない知識を指す。

 そしてオークショットは、合理主義がこの「実践知」を排除する、という。さらに、これを「合理主義者の確実性に対する執着」から来るものとして批判をする。彼に言わせれば、政治とは「常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っている」のであり「合理主義にもっとも馴染まない世界」なのである。




このような「合理主義者の確実性に対する執着」と類似性を持っていたのが、経済学理論によって「上限金利規制」を不当とし、早稲田大学消費者金融サービス研究所のペーパーを論拠として採用していた人たちではないかと思えた。坂野先生や堂下先生のペーパーに書かれている中身には「十分な経済学的論理性」があると確信しており、同時に無知なる大衆の感情論を排した「科学的で客観性に優れた」知識として、広く人々に知らしめるべきであって、自らの主張の正当性を裏付けるものとして評価していたであろうと推測されるのである。


こうした主張に同調する人々も同様に、知識の中身について評価することよりも「誰がこの論を提示したか」ということへの評価の方が勝っていたのではないだろうか。彼らの批判の中心には、感情論的な意見を支持しがちな大衆批判、専門性や客観性に乏しいと断じた有識者会議の議論、経済学的知見の断片すら感じさせない専門知識に乏しい法曹関係者、ということがあったのではないか。だが、そこには重大な陥穽があったと思われる。それが「合理主義」信仰とも言うべき過信ではないだろうか、というのが私の勝手な憶測である。


そうした自信の源とは、政策決定が純粋な客観的判断によってのみ正しい結論を導き出せるものなのであり、「経済学理論という“科学的”方法」を用いて検討すれば、無知なる大衆・専門知を持たない学者や腐臭漂う道徳的信念を発散している「善意を気取る連中」なんかの意見を聞く必要性はなく、むしろ有害でさえある、という確信であろう。合理主義を尊重することも一つの考え方であろうから、そのような態度自体が必ずしも非難されるべきとは思わないが、それを他人に強要することはできないであろうし、常に自らが実践していれば済む話であろう。「科学的」ということを何よりも重視したいのであれば、当然のことながら誤りや新たな知見等については、「科学的」ということに準じて修正を受け入れるべきであるのは言うまでもないだろう。しかし、経済学理論に基づいて上限金利規制に反対していた人たちの中に、そうした修正をしていった人は果たしてどれほど存在したであろうか?現実には、「結論ありき」と他人を批判している人たちそのものが、自分たちだけは「科学的で論理的な」議論をしていて正しい答えを知っている、という「結論」に執着しているかのようである。そのような人々が「論理的」だの「科学的」だのという言葉を用いている時に、それを信じることは到底できないし、誰に対しても説得的でないのは当然であろう。まさしく「トンデモ科学」と全く見分けがつかないからである。


そもそも政策決定というのが、価値観の相違による選択である(参考記事)、ということに理解を示さないのではないかと思える。その出発点にすら立てない人々が、ひたすら「正しい結論」を謳っているのではないかと思えるのである。


前記の大串氏の論説から再び引用する。




この価値について、マックス・ヴェーバー(Weber, 1904)は「価値自由」という概念を示しており、研究者の価値観そのものを否定するのではなく「事実判断」と「価値判断」を科学的根拠に基づいて明確に区別する謙虚さを持つべきだという主張をしている。つまり、政治が科学を志向する以上は「価値」に対して距離を置くべきである、という考え方である。

 しかし具体的な政策過程の議論となると、これは単なる「事実判断」の問題ではなく「どのような社会を創りたいのか」という絶対的な「価値判断」の問題になってくる。したがって前提としての「価値観」を考慮しなければ、本質的な政策論議にはなり得ない。

 つまり政治や政策過程を議論していく上では、これを知識という視点で捉え直して、価値というものに触れざるを得ないのではないだろうか。価値から離れた客観的認識のために科学の領域にとどまるのでは、意味がない。そもそも完全に客観的な科学の領域では、個人の信念に基づく「知識」というものを十分に議論できない。それよりはむしろ、プラグマティックに人間の営為の中から対立項を乗り越えて、新たな価値を生み出すべく、政治の「あるべき姿」を追求していく必要がある。ここに「知識科学的転回」が求められるのである。




私自身Weberについて何か学んだ訳でも知る訳ではないが、上記引用に当てはめて考えると、「(感情論などではなく)経済学理論に従えば答えは明白である」と主張していた人たちは、こうした価値判断から距離を置いた「価値自由」を志向していても不思議ではないかもしれない。そうであるなら、「事実」判断が最重視されるはずであり、学術的な記述に終始するべきである。すなわち、本当に経済学理論に基づくならば「わからない」という結論以外には、現時点で言及できないであろう。

これまで再三指摘したように、上限金利規制反対派たちの示した「事実」というのは、極めて少ない。特に正当性について検証を受けたような学術的な記述は、実際の現象やデータから示されたものが殆どない。彼らが「客観的」であると信じ込んでいたペーパー類でさえ、主観的な記述の域からは一歩も出ていないものであろう。反論に対して無視するのも、提示可能な事実や説明があまり存在していないからではないか?ウザイので「スルー力発動!」でもいいと思うが、決して「修正」を考慮しないという態度は、彼らが批判している「ニセ科学」と全く同じである、と言っても過言ではないだろう。


反証可能性で有名なポパー(Popper)によれば、信念というのは誤りであるとか偏向であるといった指摘を受けるものではない、という。信念に基づいて判断や行為があるのであり、他人の信念との間には主観的対立が存在しうるのである。従って、その対立は判断にも及ぶことになる。信念はopposableで、認識には誤謬が存在するものであるというのが、ポパーのヴェーバーに対する批判でもある。つまりは、事実に基づき認識を改めさせること(=判断の基底(というか、材料?というか)に影響するだろう)は意味があるが、信念についてまで「間違っている」などと言うのは、科学でもまたその役割でもないのである。科学が価値判断に踏み込むことが求められているのではなく、判断の材料を提示したり誤った認識に導くものを除外したりすることなのではないか。


このような感性を持たないか、理解できない人たちは、自らが知っている「知識」を科学であると信じ込み、他人の価値判断にさえそれを援用し、「彼らは間違っている」とか「経済学では明白である」といった断言を繰り返すのであろう。初めから「主観の対立」という普通のことを許容できないのである。故に、結論を一方的に示し、他の意見は全て「論理的に誤りである」と過信しているようにしか見えない。遂には、個人の価値観・世界観批判にまで到達したようではあったが(笑)、それとて政策決定には何ら関係のないことであろう。そういう次元でしか思考できないというのは残念である。


現実の政策決定においては、たとえ科学的に結論が出ていない事柄であっても判断せざるを得ず、大串氏の論説にもあったように、政策論議には「価値観」を避けて通ることができない。「知識科学的転回」というのが、具体的にどのような方法を取るのか示されていないのでよく判らないのであるが、政策決定過程での学術的な知識の役割とは、望ましい認識の方向性や判断の誤りを最小化するような思考の道筋といったことを提示することではないかと思う。そこから先は、具体的には判らない。


「決定主義」に陥らないようにするべきであるとして、プロセスをどのように組み立てるのか、とか、価値創造に繋がるアプローチとはどのようなものか、とか、素人の私が考えてもこれといっていい考えが浮かぶ訳ではない。が、個人的世界観や価値観であれば、いくつかの考えはある(笑)。それが政策決定過程で意味のあることかどうか、自分では判断できないのであるが。自らの無知のせいで、単に、過去の経験との対比で考えるのが関の山である。申し訳ない。


こういう部分こそ、学者の方々が方法論を積み上げていくべきであると思う。特に、科学を自認する学問の方々にこそ、それをお願いしたいのである。




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