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公共事業は誰の為にあるか

2005年05月17日 22時37分01秒 | 社会全般
諫早湾干拓事業の差し止め取り消しが、福岡高裁から出された。この判断に、賛成は多いのだろうか。公共事業は一体誰の為に行うのだろう。行政の考えることというのは、どうなっているんだろう。高裁は、調査をしろ、って言ったのに、何で長期間の調査もしないのに工事再開するんだろう。絶対にオカシイ。裁判所の言うことは守らなくともいい、ってことなのか?

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 諫早湾干拓工事、差し止め取り消し受け18日再開

干拓事業は、当然賛成派が多いので地元の陳情などが積極的に行われたりしたんだろうと思う。だが、事業の妥当性というものを考える時に、何を基準に考えたらよいのだろうか。公共事業の性質とか内容にもよると思うが、多数決の原則ということなのだろうか?


おかしな仮定で申し訳ないのだが、ずーっと疑問に思っていることがあった。それは沈没寸前の船に乗っている乗客の問題である。大海原に船が浮かんでおり、乗員の誰かを降ろさなければ確実に沈没するとする。まあ仮に10名いるとして、1人だけ降ろせば残りの全員は助かるという場合に、どうやって問題を解決するか、ということだ。もしも、私の家族しかいない場合に、私は家族の者を助ける為と同時にリーダーの決断として、必ず自分が死を選ぶ。この決定は他の選択の余地がないので、いつもそういう気持ちでいる。


だが、全員が全くの赤の他人の場合に、どうするだろうか。普通は、1人の犠牲によって残りの9人を助けると思う。しかし、中には全員が同じ運命を享受するべきだ、というような意見の人も現れるかもしれない。たった一人だけ、「絶対に1人を降ろさない」と強硬に主張したとしよう。この時、多数決によってこの意見は否決され、他の人達は1人を降ろす選択に賛成するだろう。果たして降ろす1人に、先の強硬に反対した人間を選ぶだろうか?通常はくじで公平に決めようとするだろう。だが、多数決の原則で選ぶことってあるのだろうか?女性と子供が混ざっている時に、その人達は除外されるだろうか?力の強い暴力的な者が、勝手に1人の人間を海に投げ落とそうとするのを他の人達は戦って防ぐだろうか?年齢で決めようという意見は出たりしないのだろうか(年上の人間は先に死ぬ確率が高いし、ある程度人生を経験できたから若者に人生を授けるべきだ、みたいな)?その時の10名の構成にもよる(子供や老人が含まれるとか)と思うが、多数決の原則がこういう極限的な状況でどの位発揮されるのだろうか、と思うのです。犠牲者を決める作業をする時に、これは民主主義なのだろうか?私にはよく判らないのです。


こういう仮定は意味がないと言われるかもしれないので、何かの結論とか出せる訳ではないのですが、公共事業というものの性質も、船の仮定と似たところがあるんじゃないか、と思ってしまうのです。だいたい、公共事業では多数派の利益の為に、少数派は不利益となる(又は利益とは考えられないか)決定を下されたりするのです。船の例で言えば、犠牲者として選択されるということが、多数決という民主主義のルールに基づくような形で行われるようなものです。実際には、こうした多数決が行われていない公共事業もあり(住民投票となるような事業は多くはないんじゃないかというくらいの話ですが)、船の話で言えば、ある特定の数人が勝手に犠牲者の選別を行うようなものなのではないか、と感じたりします。


空港を作るという場合に、「やめてくれ」と反対する人達がいるが、直接不利益とならない人達は積極的に反対したりしないことが多く、船の話で言えば自分が犠牲者に選ばれなければ反対しないのと同じようなものです。また、役人達や地元議員達(=勝手に誰かを海に突き落とす人)は、地元の多くの人が頼みもしないような空港建設という公共事業を計画し、行政の権限で実行に移されるのは(=本当に誰かが海に落とされる)、明らかにおかしいはずなのだが、これを止める有効な権限は住民(=船の乗員)にはないのである。唯一の権力が司法なのだが、今回の高裁の差し止め取り消しというようなことになれば、誰にも止められないのである。


そういう議員を選挙で選ぶのが悪い、と言われるだろう。船の乗員のリーダーならば、おかしい奴と判れば他の誰かを選ぶと思うのであるが、議員となるとそうでもない。結局、船に乗っている暴力的な奴(=議員とか役人)の回りに腰ぎんちゃくみたいなのが3人くらいつけば、この勢力に対抗するというのは難しくなるかもしれない。だって、こいつらの勢力に加われば、犠牲者に選ばれずに済むからだ。犠牲者の数がもっと多くなれば、確率的に厳しくなるので、その他の人々もこうした勢力に対抗するべきと思うようになるかもしれない。だが、たった一人の犠牲によって他の人達が助かるというような状況では、自分が選ばれなければ犠牲者の選択に文句を言わないことが多いんじゃないか、ってことか。選ばれた犠牲者以外のその他の人達の動向が本当は重要なはずなのだが、暴力的な奴には逆らわず、誰かが海に落とされるのを受け入れるんだろうな。

今の世の中って、こういう感じなのかな?


勿論全ての公共事業がこのような訳ではないはずだが、誰のどういう利益になるのかがよく判らない。そういう評価のない事業が多すぎるんじゃないだろうか。まあ、今後は削減されていくとは思うけれども。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
yodaway2@excite.co.jp (yodaway2)
2005-05-17 23:02:50
調査もせずに工事再開はたしかにおかしなことです。”暴力”の影を感じもしますね。少しズレますが、このところコモンセンスとは何か……みたいなことを考えたりしています。私たちの社会が共有すべき価値とは何だろうか、また、それがあるのか、見つかるのか……と。

(まさくにさんの、郵政民営化問題のエントリーのいくつか、リンクさせていただきました。ご了承のほどを。^^)
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有難うございます (まさくに)
2005-05-18 10:36:12
コモンセンスって、何なんでしょうね。ある意味、「当たり前だろう」ということから、「仕方がないだろう」ということにシフトしてしまったところもあるかもしれません。よくわからないんですが。



最低限必要な価値観は、昔話(おとぎ話)のような認識レベルではないのかな、と思います。変かもしれませんが・・・笑
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