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談合文化論

2009年12月01日 20時38分47秒 | Weblog
「談合文化論」(宮崎学著 祥伝社)読了。

題名だけ見ると、逆切れ的な談合賛美本かと思ってしまうが、(儀礼的な話ではなく、経済システムの特性としての)日本のビジネス文化の成り立ちについて分析・解説した、一種の日本経済史の解説書である。

よって、土木建設業界に代表される民間ビジネス(被支配層)と時代毎の権力者(支配者層)の関係の、戦国時代以降の歴史的な変遷についての解説がかなりの部分を占める。最初からきちんと読んでゆくことで得るものは多いが、サマリーが第13章の頭にあるので、それ以降著者が展開する論の裏づけを手っ取り早く頭に入れることもできる。

“自発的な標準コミュニティ”としてムラが誕生したこと。それは“権力者たち”が“支配”する国を、管理面の便宜上分割して出てきた統治の単位ではなく、対照的な出自であること。

権力者層は身分制度を守る限りという但し書きつきで、自治を行うムラに対して要求を行う形で統治してきた。だからその関係は完全に一方的なものではなく、絶対的な権力者層の弱い立場の百姓たちが従ってゆくというものではなかった。

ムラは、権力者が提示する“法”とは別により優先される“掟”を持っており、これは明文化されない暗黙の合意を含む。掟上判断がつかない揉め事は時間がかかっても徹底的に話し合って関係者が全て納得するようにし、これが談合のはじまりであった。

時代の権力者層が依頼し、褒美を与える形で土建業は成立してきた。臨時の人手を集めることができるポジションにいた者が口入れ屋になって人を集めるが、江戸時代に、擬似家族としての“組”の形をとることで安定した組織となった。

請負先の決定は、もともと、競争入札ではなく、指名入札もしくは特命随意契約で始まった。あくまで統治者対被統治者の関係なので、契約内容は命令とそれを遂行した結果いただける“恩恵的給付”からできており、
 それは一方で前近代的な人格依存関係‐人間同士の感情や精神態度を基盤にして結ばれる社会関係‐にもとづきながら、他方で近代的な物象的依存関係‐でもあるという関係なのである。これは、近代的な関係のなかにまだ前近代的要素が残っている、というようなものではなかった。新しい独特の社会関係なのだ。
 だから、前時代の残存物であれば、近代化が進めばばくなっていくものなのに、この関係は、社会の近代化が進んでも、形態が変わるだけで、ずっと存続してきたのである。(105ページ)

この支配者側のニーズに応える形で、明治以降も日本の近代産業、また「日本の資本主義」は成長してきた。
 明治維新後に、前近代の部分社会にあった自治、そこにあった掟の世界を上から解体して、近代の世界を強行的につくりだした日本は、戦後は、本来自己統治つまり自治である民主主義を、これまた部分社会すなわち掟の世界における自己統治の上にではなく、それとは切れたものとして外から理念としてもってきてふりまわしたのであった。それは、近代的な形で掟がふたたび創り出されることを阻んできたのだ。
 こうして薦められてきた日本の近代化によって、日本社会は、西洋の近代精神はみずからのものにならず、かといって伝来の日本精神は空洞化するという、虻蜂取らずの総仕上げに入っているのではないか。

高度経済成長が終わるまでうまくいっていた(らしい)、このスタイルについては、最近こんな記事も見つけた。
だから「指導者が優れているから、中国は高度に成長している」とは僕は思わない。そもそも高度成長期には、官僚主導の経済運営が適しているのは当たり前のことです。増え続ける富を分配するのは、強い権限を持った官僚が差配した方が効率的だからです。
(宋文洲です。北京で生活始めました:日経ビジネスオンライン)

グローバル化が進み、キャッチアップ型の経済成長が終わった今、官僚主導の経済モデルが通用しなくなった日本はどのような戦略をとるべきなのか?
では、どうしたらいいのか。
問題をすべて全体社会=国家に向けて統合し、そのうえでできるだけ平等に再分配していくという「集権平等」方式では、もううまくいかない。そうではなくて、部分社会=仲間集団が自律して問題に現場で取り組めるようにしていき、政府や自治体はそれを保障し支援するという「分権自治」方式に移行していかなければならないのだ。(267ページ)

結論は結構ポピュラーなものになっている。また、なんとなく世の中そっちの方へ行こうとしているようにも見える。だから問題は「総論賛成各論反対」の怒号の中でどうやってそれをスムーズに実現するかという部分なのだが、当然のごとく(笑)それについての具体的な提案はない。ただ、これは必ずしもアイデアがないわけではなく、ポジショントーク込みで、「ゴールに関する基本的なコンセンサスがきちんととれていれば、あとはそれぞれ頑張りましょう。」ということなのだろうな、と、僕は解釈している。

月並みな表現だが、やっぱりこれから数年は激動の時代なのだろうな。以前はもっと静かに時間をかけて腐ってゆき、あるときポトンと落ちるイメージでいたのだが。

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