op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

ちょこっとレビュー:『RACERS - レーサーズ - Vol.67 2007-2011 RC212V』

2023年03月24日 17時29分26秒 | Weblog
マシン自体については写真も豊富で「できる限り」詳しく紹介されています。が、当時のレース専門誌の方が濃い部分もあるかも。一方、乗り手についてはストーナーはじめ直接のインタビューはなく、少々寂しい感じ。ストーナーのライディングについては数ページ記述はあるものの文章自体は多くない。ライディングスポーツの方に中本氏によるマルケスとの比較等興味深いものが掲載されたことがあるだけに残念。やはり外伝に期待かな。

それから、2011年の日本GPについては、参加を回避する傾向に対し書き手の西村章氏が「陰謀論」「風説」の影響を強調し、当時はライダー達に来日を強要するような質問までしているが、実際の原子力発電所の事故の経過(そして他の施設の体制)、まだ続いていた大きな余震(12年正月はビビった)等、近県に住んでいる者としては開催する方がおかしいと思った。西村氏の文章はかなり感情的でご都合主義的、そして非科学的かつ非倫理的なものです。しかもこれを2023年に書くとは信じ難いレベルです。
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ちょこっとレビュー:『サイバーパンク桃太郎』が示したコミック本と日本の「終焉」と、クリエイティブの可能性

2023年03月09日 18時25分40秒 | Weblog
AIに生成させたイラストを用いた漫画『サイバーパンク桃太郎』の本がAmazonから届いた。

ポストに入っていた「梱包」のサイズを見て「あっ」と思った。

僕は基本スマートフォンではメールと天気予報、金融市場のチェック、そして仕方なく設定した金融サービスとネットモールの一部機能しか使わない。タブレットは電子書籍(テキストベース)の読書と床に入って寝入る前のアニメか動画サイトの閲覧ぐらい。だからSNSもオンライン化された漫画の閲覧も比較的低価格ながらGPU付きPCからの出力を23インチのモニターで観ている。

僕は『サイバーパンク桃太郎』の本を歴史的マイルストーンの記念、ほぼエビデンスとして購入したし、このサイズとしてはフルカラー印刷の品質も普通である。そしてやはりストーリーや台詞回しが秀逸であることに変わりはない。

でも「オリジナル」をでかい画面で読んで(鑑賞して)きた者の感想というか見解としては、この作品は「いわゆるコミック」ではなくグラフィックノベルに近い。何しろ疲れを知らないAIが力押しで描いた(?)濃厚なフルカラーイラストを使っているのだ。これはアメコミの様に大判で読む(そして鑑賞する)ものだ。白黒の線中心の漫画と違い、小さな「画面」では良さが十分発揮できない。逆に「普通のコミック」として読み流されることで、(本質的はどうでも良い)画の構図や一貫性の問題が目立ってくる。

判型を見ず「なんだか今時リーズナブルな値段だな~」と思いながらポチっただけの僕も僕だが、新潮社がこの本をサイズも値段も4倍にして出てこなかった事に僕は正直がっかりしている。例えば限定2000部でも1000部でもいい。これは図書館にも置ける(置くべき)作品なのだから。

そして本編以外に付録として画像生成AIを使った漫画のつくりかたが10ページ載っている。でもそれだけだ。この本に他のクリエイターや評論家、ジャーナリストの文章が全く載っていない事に僕は驚いた。

もはや出版社が「出版社」として機能していない。「プロの読み手」も同様に。


僕は似た現象を前に経験したことがある。21世紀のはじめに趣味で電気自動車など所謂「エコカー」に関するニュースサイトをやっていたのだが、テスラ等が動き出し、英語圏では様々な動きや情報が飛び交っていたにもかかわらず、日本ではメーカー系含め「マニア」達が仲間内で代わり映えしないことを続けているだけだった。サイトは初代リーフが発表されたところで「もう役目は終わった」と思い閉じたのだが、結局ヤマハのEパッソルから2023年の今まで、日本メーカーから出た製品はわざとかと思うくらい「マーケティング的に外した」仕様のものばかりである。そしてそれはメーカーだけでなくマスメディアや評論家の大多数も同様で、評論家でまともに取り組んでいたのは国沢光宏氏ぐらいだったと思う。

で、今、日本の自動車メーカーや国内自動車メディアのプレゼンスやポジション、その将来性はどうなっているだろうか。

日本の出版関係者も自動車ビジネス関係者も「自分たちは何を本当に守るべきかを敢えて考えずに」この段階まで来てしまった。(金融業界や政界より少し長く持ったかもしれないが。)


コンピューティングパワーの「インフレ」は、クラウドサービスやディープラーニングを一般化したように、(テキストベースのものも含め)ビジュアルコンテンツとその「体験」も大きく変えてゆく。最終的にそこ(市場?)にあるのは「サービス」とコンテンツ、そして「ブランド」だけになりそうだ。まあそれは進歩・進化として正しいと言えば正しい。


商業コンテンツ全般の将来については、昨夏(2022年)にもう勝負がついてしまった。圧倒的大部分は「純度の高いAI」製のものになる。麻薬や調味料の様なものだ。だからコンテンツの「つくり手」と成果物としてのコンテンツの「享受者」の分断が急加速する。(これは最近BBCが「改めて」暴露したジャニー喜多川氏の性犯罪問題に関する報道が同時に暴露した「古来から続く問題」と根は同じである。)表現者も「享受者」もテクノロジーによって飛躍的に自由になってゆくが同時に「ますます」孤独になってゆく。が、それに気づくかどうか、「何に価値を置き何を選び取るか」は勿論人それぞれなのだが。
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