op's weblog

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レビュー:DUNE/デューン 砂の惑星(DUNE Part One)

2021年10月16日 14時09分59秒 | Weblog
※文章読むのがめんどくさい方は、最後に箇条書きの「要約」と「この映画から学べること」があります。

パンデミックもあり、待ちに待たれた「大作」、『DUNE/デューン 砂の惑星』(DUNE Part One)、初日に観に行ってきました。いろんな国内外のメディアが公開前から絶賛し、IMDbやRotten Tomatoesも高得点、話題のSF大作を続けて手がけた監督、主人公も旬な俳優をアサインと、もう観客はレッドカーペットを踏んで映画館に向かう状態です。

そもそも映画界にとってSF小説『DUNE(邦題:デューン/砂の惑星)』は、その長さと作品世界のスケールの大きさ、言及されるトピック?の多さと深さにより、映像化が難しいと言われ、企画段階での挫折、ようやく完成までこぎつけた映像作品が克服できなかった難点、そしてそれをあげつらう「業界」と、まあ鬼門とされてきたわけです。


で、今回の作品を観ると、デビッド・リンチ版DUNEが批判されていた点の対策をしながら、旬な人材を集めることで「及第点を取る」ことを考えてみたことがよくわかります。そして更に、リンチ版で「たぶん評判が悪くなさそう」な所は、「変えない」という驚くべき戦略を取っています。象徴的なのはスティルスーツとそれにつく鼻プラグのデザインです。これ、30年近く前のリンチ版で使ったものを洗ってまた使ったと言われても納得しそうなほどです。元々リンチ版のスーツのデザインは、あくまでアート色の強いリンチ版の映像世界に合わせたものであって、作品世界におけるリアリティ的には「リサイクル」されるべきものではありません。一方、リンチ版の「羽ばたかないオーニソプター」はトンボの様な姿の羽ばたき式に「変更されて」います。が、実際のトンボや鳥の様なオーニソプターは、とても快適に乗れる代物ではありません。そこらへんの問題を克服したデザインがされていてもよさそうなものですが。

で、肝心のストーリー(脚本)ですが、リンチ版DUNEで最も批判されていた「詰め込みすぎてわかりづらい」を避けるためか、『パート1』とことわって、レト公爵の死亡とジェシカ&ポール(/ポウル)の脱出、フレーメン達との合流までを描いています。これで2時間半の映画なのですが、リンチ版でやむなく使われた「舞台背景の説明」や「人間関係を表現する記号的な演技」が、この作品でも使われています。ではその分リンチ版で省かれた重要もしくは印象的なエピソードがあるのかというと、無い。単にビルヌーブ得意の薄暗くマットでやたら空間を強調したビジュアルを背景に、間延びした話が続いてゆくだけです。僕は上映中(対策したので)寝落ちこそしなかったものの、何度も時計を見てしまいました。

そして演技、というか編集は、この時間的余裕を活かすことなく「人間関係を表現する記号的な演技」が多数を占める断片的なものの集合体になっています。また、今作でも教母が主人公を「試す」エピソードが入っていますが、リンチ版よりわかりづらい、ちょっと滑稽にさえ見えるものになってしまっています。更に、後半のハルコンネン軍+サルダウカーの急襲と迎え撃つアトレイデス軍の戦いは、一言で言うと「すごく頭の悪い」ものになっています。この話、本当は遠い未来の、変遷はありながらも高度に進化した人類の話なんですが、紀元前が舞台の映画『300』のパクリをやってます。白兵戦の根拠であり、フレーメン達との合流時にも重要な役割を果たす(はずだった)、「シールド」がらみの描写もリンチ版の方が良いです。

次にキャスティングですが、主人公のポール(/ポウル)・アトレイデスは、遠い未来に宇宙を支配する帝国の中の名門の貴族、アトレイデス公爵家のひとり息子で、父親のアトレイデス公爵レトは領主としての統治能力・人徳とも優れ、指揮下の軍隊の強さも傑出しています。そして母親は高度な訓練により驚くべき能力を発揮する教団「ベネ・ゲセリット」出身です。つまり支配階級として頭と腕力ともに傑出した血筋で鍛え方もとんでもないレベルの、本当のエリートです。だから原作では、アラキスの有力者たちとの食事のエピソード中でも、統治者としての振舞いを子供ながら印象的に行うことで、畏怖と尊敬を勝ち取っています(僕が映画の作り手だったらこのシーンは外しません)。で、今回主人公を演じた「旬の俳優」ティモシー・シャラメはそんな「ゴツイ」キャラでしょうか?他の配役はまあ可もなし不可もなしといった感じですが、元々原作は中東地域をモデルにしているのではっきり言って「今時の多様性重視」を気にしすぎです。そして全体的に今作で演じた面子の「相対的な線の細さ」を考えると、リンチ版の方がベターと僕は思います。

音楽については、いつものハンス・ジマーです。そのまんまです。もちろんリンチ版とは違い今作では原作(『DUNE』だけね)の最後まで描いていない分難しい所はあるのですが、リンチ版のブライアン・イーノとTOTOの組み合わせの方が作品の舞台やストーリーに合っていると思います。


まあ、リアルタイムでリンチ版と今作を観た人間の批評だから思い入れが違うのでは?と思う方は是非両方観てみてください。(それから映像化まで行けなかったホドロフスキー氏については、残っている素材からすると本当に映像化したら単なる田舎のサーカスにしかならないことは容易に想像がつくので論外です。)正直、これほど映像技術の高度化とコモディティ化が進んでいる一方で、商業映画業界がこれほど「委縮」してしまっているとは思いませんでした。


要約:
●映画についてざっくり言うと:「今時の映画会社」が、「デビッド・リンチ版DUNE(1984年公開)」とそれに関する「なんとなくの噂」だけを基に(もちろん原作はまともに読んでいない)、おっかなびっくりつくった(極めて冗長な)2時間半の映画 です。
●映像:リンチ版DUNEのデッドコピー+『300』+いつものビルヌーブテイスト です。
●キャスティング:特に主人公役の俳優の特徴は本来この作品(原作に基づく人物像、世界観とストーリー)に要求されるものとほぼ逆です。
●音楽:いつものハンス・ジマーです。
●配給会社:多分パブリシティとSNS対策に、映画の製作費と同じくらいの金額を使っているでしょう。

この映画から学べること:
●映画ビジネスはもはや「共感の醸成」が最優先であり、作品は上映されるもの「以外」が重要であることが明確になりました。
●政治の世界同様、ハリウッド映画(米国の主流映画)ビジネスも「日本映画業界」に倣い、近づいているという「驚愕の事実」が発覚しました。
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