「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌
「香川の子どもと教科書ネット」通信
第68回会議報告(2024年3月10日・日)
【二】 「はだしのゲン」
【5巻】
(39P)
広島の小学校教室内
教師 「明日は、天皇陛下さまがこの広島にきてくださることになり、広島県民にとって大
変よろこばしい日だ。みんな日の丸の旗を振って、ご歓迎するため、旗を作ってく
ることを忘れるな。わかったな。」
変よろこばしい日だ。みんな日の丸の旗を振って、ご歓迎するため、旗を作ってく
ることを忘れるな。わかったな。」
児童 「はーい」
ゲン 「何がよろこばしいのだ。わしらの先生はばかじゃのう」
「天皇は戦争を起こし、日本中の街やこの広島や長崎をピカで焼き野原にし、わしら
のとうちゃんや、数え切れない人を殺し、いまも苦しめている戦争の責任者じゃな
いか。なんでありがたがって歓迎しないといけんのじゃ おかしいわい」
のとうちゃんや、数え切れない人を殺し、いまも苦しめている戦争の責任者じゃな
いか。なんでありがたがって歓迎しないといけんのじゃ おかしいわい」
「日本人は、戦争の反省がたりんのう」
「わしゃ、先生をみそこなったわい」
「わしゃ,旗なんかつくって歓迎せんぞ。あしたは、学校さぼったるわい。ばかばか
しい。」
しい。」
「だけど天皇はのこのここの広島へやってこれるのう」
「いまも 多くの死体が埋まっているこの広島へ」
「わしだったらはずかしくて,苦しくて、とても人前に出られんわい。」
「あ~~はらがへったのう、何か、食うものはないかのう」
「天皇はお詫びに米でもわしにもってきやがれ、ばーか」
戦争の加害も忘れるな!!
体験者の証言80分 映画「東京大空襲の記憶」下町エリアで初上映 「悲惨な出来事知る機
会に」2024年3月1日 07時19分
映画は新宿や渋谷で上映してきたが、甚大な被害を受けた下町エリアでは初めて。上映館は体験者が当時を振り返る場面で登場する三ツ目通り沿いにあり、「そういう意味でも下町での上映は特別。映画を見た後で現場も見てもらえれば」と語る。
ロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ侵攻など、今も戦争は絶えない。フランシスさんは「東京大空襲でも多くの人が突然日常を奪われた。3人に共通する願いは戦争を繰り返さないでほしいということ。戦争は遠い国だけで起きているわけではない」と呼びかける。
※カーチス・ルメイ・・・焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上が
らせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。
勲一等旭日大綬章の授与
1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は1938年2月~43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、
防空壕で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)