国家犯罪!731から熊本大震災まで!!

2016-05-11 09:34:50 | Weblog

●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗



アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)






自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回 
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!






※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!



日本は現在も毒ガスを製造している!!





・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス 

日本軍の毒ガス被害

昭和天皇の“沖縄メッセージ”



●多磨霊園と大日本帝国


・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。

ゾルゲ,リヒアルト
ロシアのバクー(現在のアゼルバイジャンの首都)出身。父は石油景気めあてにバクーにやってきたドイツ人石油技師のヴェルヘルム、母は幼くして両親を失ったロシア人。3歳の時、一家でベルリン近郊に移住し、幼少期をドイツで過ごす。
1914(T3)第一次大戦が勃発すると、高校を中退してドイツ陸軍に志願、前線で両足を負傷。療養中、医師の感化でマルクス主義に傾倒。 治って大学に入学。'19ハンブルク大学で政治学博士号を取得、同時期にドイツ独立社会党(のち共産党)に入党。 '24モスクワに行き、翌年コミンテルン情報書記局員となり、ソ連邦共産党に入党した。 '29(S4)赤軍第4部の情報部長の指令で、ドイツのジャーナリストとして上海に行き、'30上海で在中国諜報機関を組織して諜報活動に従事。 毛沢東に同行取材を行っていたアメリカ人左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレーの紹介で朝日新聞記者の尾崎秀実(10-1-13-5)と知り合う。上海事変などを報道し、一端、'32年末にモスクワに戻った。
'33.9.6(S8)ドイツの有力日刊紙フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員として来日し、ナチス党員としてドイツ大使館の私設情報担当となって活動した。 横浜で対日諜報機関を創立。近衛文麿ら政界の上層部と親しかった南満州鉄道委託職員に転職していた尾崎秀実より情報を入手し、ソ連に送った。 ゾルゲの活動を助けた尾崎の目的は、ソ連に続いて、中国、日本に革命が起きると予測して帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現にあったといわれる。 その他にも、アヴァス通信社のユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、西園寺公望(8-1-1-16)の孫の西園寺公一、アメリカ共産党員の洋画家の宮城与徳(同墓)、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナ・クラウゼンなどをメンバーの一員とし、スパイ網を日本国内に構築、スパイ活動を行った。
'41.10.15警視庁特高一課と同外事課によって国際スパイの疑惑で尾崎が検挙され、18日にゾルゲも検挙された。 その他のグループ員たちも一斉に逮捕された〔ゾルゲ事件〕。'42国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、'43.9.29一審によってゾルゲと尾崎に死刑の判決が下った。 公判は'44.5.31に一度開かれただけであった。ゾルゲらは巣鴨拘置所に拘留され、'44.11.7ロシア革命記念日に巣鴨で尾崎と共に処刑された。 最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。享年49歳。
逮捕後のゾルゲ自身がソ連のスパイであることを自供したが、ソ連政府はそれを頑なに否定し、戦後しばらくの間も、ソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。 しかし、フルシチョフ書記長の失脚後の'64.11.5に、ソ連邦政府はゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」を授与し、名誉回復がなされた。 旧ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には、多磨霊園にあるゾルゲの墓を訪れることが慣行となっており、ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。 モスクワにゾルゲ記念碑が建ち、多くのゾルゲに関する書物、研究書が刊行され映画化にもされている。また、旧ドイツではゾルゲの功績を称える記念切手が発行された。

【ゾルゲの諜報活動】
1933(S8)クイーン・エリザベス号で横浜に着いたゾルゲは、ラムゼイ(ゾルゲの暗号名)機関づくりに着手した。 いったん帰国した後、再び来日。'35より本格的に諜報活動に入った。 ゾルゲの日本での諜報活動の目的は、母の祖国でもあるソ連の最大の脅威国ドイツの動きを極東で観察し、できるだけソ連という的から外すことにあった。あわせて日本の動きをつぶさに調査した。
ラムゼイ機関には、ほぼ全世界の最高で最新の情報が集まるようになっていた。ソ連の情報は、無線や連絡員を通じて直接モスクワから送られてきた。 英米仏の情報は、それぞれの国の大使館員と交友関係のあるフランス通信社に勤める人物から入ってきた。 ドイツの情報は、ドイツ大使館に自由に出入りし、オットー大使の私設顧問のような立場にまでくいこんだゾルゲが集めた。 日本の国家機密は、'30上海で知り合った尾崎秀実を通じてゾルゲに流れた。尾崎は度々内閣を組織した近衛文麿のブレーンである。 直接会って国の内外の最高機密を聞ける立場にあった。現に御前会議の内容がゾルゲに流れていた。 尾崎について、のちにゾルゲは「尾崎は実に立派な教育を受けた人物だった。彼の博識、事態の深い洞察こそ、彼の情報の原点である」と回想している。
優秀な情報源に恵まれていたとはいえ、ゾルゲ自身の情報の分析は的確であった。 二・二六事件の社会的・政治的背景の分析('36)、日独防共協定の秘密条項の入手('36)、日独伊三国軍事同盟参加拒否の日本の態度を入手('39)、独ソ戦開始の的確な予測('41)、日本の南進か北進かの態度決定予測など、精緻に把握し、ソ連に正確に打電していた。 後年、連合国軍総司令官(GHQ)最高司令官ダグラス・マッカーサーが「見事に成功した戦慄的なスパイ活動の実例である」と述べている。

ゾルゲ事件、731部隊、シベリア抑留



●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!


毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず

・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?

・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!

情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。



●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造

5「秘」の性格と内容
すべての文書が「秘」


71年6月24日、アメリカの下院政府活動委員会の分科委員会で証言に立ったフローレンス前米国防次官補代理は、ペンタゴンには少なくみても2000万件の秘密文書があるが、そのうち99.5%は最低限の秘密扱いの必要さえもないものであると述べている。証言によれば、ペンタゴンでは秘密区分の指定が軍機保持の目的から離れて日常茶飯事になっているという。秘密主義はあらゆる軍隊の属性であるわけだ。



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景


※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。

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