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水木しげるの、“日本的・死者の書”・・「死出の山」と「三途の川」

2009-09-11 | 日本の不思議(中世・近世)
水木しげるさんの「三途の川の渡り方」から抜粋・引用して紹介を続けます。
古事記のいざなぎの話の続きです。
長くなったのでまた2つに分けます。


                 *****

              (引用ここから)


いざなぎは、黄泉の国から帰ったあと、けがれをはらうために「みそぎ」をするのだが、そこには上流には激流、下流にはちょろちょろとした流れがあったので、中流のちょうどよい流れで禊祓をした。

この川を「三瀬川」という。

古事記の時代には、さかまく急流とちょうどいい流れ、さらにはちょろちょろとした流れ、しかなかったのだ。

船も橋もなかった。


日蓮宗の開祖・日蓮の著と言われるものに「十王讃歎抄」があって、「三途の川」のことが詳しく述べてある。

ここでは、亡者の前には対岸も見えないほどの大河が横たわっている。

ここが「三途の川」だ。
その川幅は400キロ以上ということになる。

この川には三つの渡瀬がある。

上流の渡瀬は、膝下くらいの水かさで、ここは罪の少ない者だけが渡る。
中流には金、銀、ルビー、めのう、水晶などでできた橋があって、善人はこの橋を渡る。

いちばん下流にあるのが悪人向けの激流だ。

しかし「自分は少なくとも悪人じゃなかった」と思うのはうぬぼれの度が高すぎる。

ほとんどの人は悪人に分類される。

三途の川を楽に渡れる人はほとんどいない、ということになる。


日本中に名山は多いが、富山県の立山や山形県の月山などに神として祀られているのが、阿弥陀如来。

だから立山や月山には「弥陀が原」という場所があり、ここには供養のための石積がされている。

富士山も霊山で、ここの風穴からお盆には亡者が帰って来るとされている。
風穴の前に広い川原があり、ここが「賽ノ河原」とよばれている。


霊山の一つ、立山には地獄・極楽絵図で有名な「立山曼荼羅」がある。

この絵では、亡者は火の車に追いかけられたり、血の池に堕ちたり、剣で出来た山を登らされている。

だが空にはまん丸い日月があり、暗さは微塵もない。


地獄めぐり49日目には「闇鉄所」という難関があり、狭い道の両側は鉄のとがった崖。

罪人が通ろうとすると崖が道をふさぎ、足を止めると開く。
すこしでも崖が触ると、体に剣のように突き刺さる。

修験道が盛んだった山では、二つの巨石の間をくぐる修行が「胎内くぐり」と言われる。

修験道でも亡者がこの巨石の間を群れをなしてくぐろうとすると、石が迫ってきて亡者たちをつぶしてしまうのだ。


この山が後年、「三途の川」と一セットになり、「死出の山」と書かれるようになった。

古来から、山は地獄の入口、つまり山には霊が住むと考えられていたのだ。


だからもっと昔は「幣(しで)の山」と書いた。

「弊(しで)」とは“神への捧げもの”の意味だ。

今の神社のしめ縄などや玉串についている小さな紙片も“しで”といい、これには垂、四手という文字があてられるが、どちらにしろカミサマへの崇敬を意味している。

霊は緑の多いところに住むという、ぼくの持論はあとでくわしく述べるが、やはり昔の人もそう考えていたようだ。


ぼくの好きな箴言に「目に見えるものは、存在しない」というものがある。

網膜とちっぽけな脳みそだけですべてが見えると思うのは、人間のうぬぼれだ。


第二次大戦で、日本は民間も含めれば300万人を超す被害者を出したのを、わずか10年ほどでケロッと忘れ、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言いだした頃からおかしくなったと、ぼくは思う。

昭和35年に「高度経済成長」が打ち出され、みんなが中流になることばかりに熱中して、すべてを見失ったんじゃないかと。


「鬼太郎」のデビューは昭和41年と高度経済成長に重なるのだが、読者の子供たちは親のそうした生き方を見て、直観的に“ちょっと違うな”と思っていたのだろう。

だから「異界」と自由に往来できる鬼太郎が支持された。
最初のタイトルはずばり、「墓場の鬼太郎」だった。


               (引用ここまで)

           *****


水木しげるさんは、「目に見えるものは存在しない」という箴言を愛しておられるようですが、この本の中では、「三途の川は仏教以前の日本人の心を反映していて、そこは恐ろしいようでもあり、また、なつかしいようでもある、日本人の心のふるさとではないか」と考えておられます。

彼は、日本人はやさしい、と語っています。

死者を心からいとおしみ、またその魂が清められて“成仏”するよう願ってきた日本の文化は、つい最近まで生きていたのだ、と語っています。

人々はつい最近まで、妖怪やおばけやカミサマやご先祖と同じ空間を共有してきたのだ、と。

それは幸せな時間だったのだ、と彼は語っています。



wiki「立山修験」より

立山修験(たてやましゅげん)とは、富山県の立山を中心として行われた修験道をいう。

奈良時代の佐伯有頼による立山開山伝説を、その発祥とする。

剱立山連峰に対しては、浄土あるいは地獄と両様の語りようをされるが、山上他界が存在するという信仰があり、立山を巡拝し擬似的な「他界」「死」から戻ってくる修行を積むことで超常的な力(法力)を身に付けることが出来ると考えるようになったものである。

立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰の拠点であり、宿坊を兼ねた宗教的な村落があり、それらを中心に勧進が行われていた。

また、立山修験の世界観は、今日まで伝わる立山曼荼羅に描かれた世界を見ることで、窺い知ることができる。

立山浄土の世界では、立山三山、なかでも雄山が、阿弥陀浄土とされていた。

雄山登山を代々重視して来たのは、そこが極楽浄土であるとする信仰による。

また、開山伝説に登場する矢傷を負った阿弥陀像も、信仰の対象となった。

それに対して立山地獄とは、現在の地名にも残る地獄谷の硫黄臭ただようさまであるし、その上のみくりヶ池は、血の池として、また、剱岳は針山地獄として恐れられた。

さらに、女人禁制であった当時は、入峰を許されない女性のための布橋大灌頂という行事が芦峅寺で盛んに行われた。


wiki「立山権現」より

立山権現(たてやまごんげん)は、立山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来を本地仏とする。

大宝元年(701年)、佐伯有頼(慈興)が立山で鷹狩りをしている時に、阿弥陀如来の垂迹である熊の神験に遭ったのが立山権現の由来であり、修験道場としての立山の開山と伝承される。

江戸時代には芦峅衆徒によって、立山権現信仰が全国に広められた。


HP「死出の旅路をたどる」中「死出の山」より
http://www.cable-net.ne.jp/user/terao-ji/tera5.htm

七日ごとの中陰の仏事を大事に営むのは、輪廻転生(りんねてんしょう。生ある者が生死を繰り返すこと)の考え方からです。

人間が生まれることを生有(しょうう)といい、その一生を本有(ほんう)、死の時が死有(しう)といい、死んでから次の生を受けるまでの間が中有、または中陰(ちゅうう、ちゅういん)といいます。

 この裁判を受ける世界を「中陰の世界」と呼ぶ。

現世と来世の中間だから「中」であり、現世の陽に対して死後の世界は幽冥なので、「陰」というわけです。

 その裁判に必要な期間は四十九日。

法事でおなじみの日数で、その間のことを「冥途の旅」といい表わしています。

 ちなみに「冥途」とは「冥土」とも書くが、要するにこの冥界は死者が住みつく場所ではなく、ただそこを通過するだけの土地であるため、「冥途」という書き方のほうがふさわしい。

 ともあれ、この「冥途の旅」は、山路から始まる。
山路とは、大きな山の裾野の道だ。

この山は死者が冥途へ旅立つにあたってその出発点となる山であるところから、「死出の山」と名づけられている。

 この「死出の山」は長さが800里、高さは不明。

いずれにしても峻険な山脈であり、これを七日間にわたって、星の光だけを頼りに死者はとぼとぼと一人で歩いていくことになる。

 さて、死者は、この冥途の旅の間、中陰の期間は、どのような姿をしているのか?

 死者はきわめて微細を体をしており、人間の目には見えない。

そして、香を食物としている。
そこから彼らを「食香」と呼び、仏壇には彼ら死者のためにお線香絶やしてはならないという根拠になっている。

 死者はこうして死出の山をスタートし、山路をとぼとぼと歩いているうちに、七日間がすぎる。

そして、来世の行き先を裁く最初の裁判官・秦広王の法廷(第一法廷)に立たきれることになる。

以下、都合七日間ごとに七回の裁きうけるわけである。


wiki「紙垂(しで)」より

紙垂(しで)とは、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙である。

単に垂とも表記し、四手とも書く。

「しで」という言葉は動詞「垂づ(しづ)」の連用形で、「しだれる」と同根である。

古くは木綿(ゆう)を用いていたが、現在では紙(通常は奉書紙・美濃紙・半紙)を用いるのが一般的である。

断ち方・折り方はいくつかの流派・形式がある。

吉田流・白川流・伊勢流が代表的な流派である。

四垂が一般的であるが、ほかに二垂・八垂などの場合もある。

玉串・祓串・御幣につけた場合は祓具としての意味だが、注連縄に垂らして神域・祭場に用いた場合は聖域を表す印となる。

また、相撲の横綱は、土俵入りの際に紙垂を垂らした綱をつける。
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