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自由すぎる首相は、未来への責任をとれるか?・・朝日新聞、がんばる。

2015-04-25 | アジア


               ・・・・・

「〝わが軍″、自由すぎる首相・・タガ外せば歯止め失う」
                     朝日新聞2015・03・29


自衛隊を〝わが軍"と表現した、安倍晋三首相。

この発言に限らず、戦後日本の政治が守ってきた一線を超えるような発言が目立つ。

一連の言葉から見える政治的な思考の恐れについて、長谷川・早大教授と杉田・法大教授に語り合ってもらった。


「発言で攻撃、自由すぎる首相、野党もメディアも反応に鈍さ」


○杉田

耳を疑うような、首相の過ぎた発言が相次いでいます。

●長谷川

自衛隊を〝わが軍“と呼び、管官房長官も、「自衛隊も軍隊の一つ」と追認しました。
「自衛隊は戦力にあたらない」というのが、戦後日本の一貫した建前です。
戦前・戦中の、軍による国政専断の可能性を断ち切り、人々が自由に生きる空間を切り開いたことこそが、「憲法9条」の意義です。

○杉田

近年、「建前」は空虚な見かけとして、否定的にとらえられることが多く、軽んじられています。
しかし「建前」には、原則とか基本方針という意味もあり、重要です。
物事は原則通りにはいかないが、だからといって原則が不要とはならない。
原則を立てておかないと、大きく道を踏み外してしまいます。

●長谷川

国会での、首相の「日教組!」という答弁席からの野次も、なかなかでした。
首相の品格も、国会の品位も関係ない、と。
〝自由すぎる首相″です。

○杉田

行政を監視する役割を持つ国会で、首相と質問者の関係は、口頭試問を受ける受験生と面接官のようなもの。
受験生が面接官にヤジを飛ばすことは、ヤジの内容が事実か事実誤認かという以前に、試験自体を否定する行為であり、許されません。
首相のヤジは、国会への侮辱といってもいい。
なぜ「不信任決議」の話すら出ないのか?
〝自由すぎる首相″のもと、野党もメディアも「首相たる者」、「内閣と国会の関係とは?」という根本を見失っているのではないでしょうか?

●長谷川 

国会議員の、国会での発言については、憲法で免責特権が認められています。
全国民の代表として、幅広く、自由に議論を展開する必要があるからです。
しかし国務大臣は免責されない、というのが憲法学界の通説です。
国務大臣は、政策遂行について説明責任を果たすために、国会で答弁をするのであって、一議員として同じ立場で自由に発言することは認められません。

○杉田

安倍さんは、昨年衆院解散を表明した当日に、民放ニュースに出演し、街頭インタビューについて「偏っている」という趣旨の発言をしました。
これを国会で質されると、「言論の自由だ」と。
しかし一般市民の意見に首相が反論することが「人権」なのか?
それこそ、市民の言論の自由を、委縮させかねません。

●長谷川 

反論は、してもいいと思います。
ただし、それは「言論の自由」の問題ではない。
あくまでも、説明責任を果たす観点から行われるべきでしょう。
ましてや、番組の編集権への攻撃という形でなされるべきではありません。
「放送法第1条」 には,「放送の不偏・不党、真実及び自律を保障することによって放送による表現の自由を獲得すること」とある。
なにが不偏不党かは、あくまでも各放送局が自律的に判断する、という趣旨です。



「戦後日本の建前を尊と認識・・議論省いた、トップダウンが目標」 


○杉田 

政府与党は、情報の発信力において圧倒的に有利な立場にある。
ゆえにメディアも含めて、ある程度、政府与党に対抗的であることが全体としての公平性につながる。
政府側と、それに対する評論に、機械的に同じ時間を割り振ることが「不偏不党」だというのは、実は偏った議論です。

●長谷川 

編集の自律は、そうであるように見えるという「見かけ」も、とても重要です。
外部の人間が、編集に実際に介入するのは論外ですが、首相が番組の編集に文句をつけたり、与党が「公平中立」を放送局に要求したりすること自体が、編集の自立の見かけを壊す。
そのリスクの大きさを、安倍さんは理解していないようです。


○杉田 

それぞれが正しいと思うことを発信し、議論したり、せめぎ合ったりする中で、公平性や公正性は形成されます。
でも安倍さんはじめ、トップダウン型の国家を志向する人たちは、恐らく「なぜそんな面倒なことをするのか?」と思っている。
「効率がわるい」と。

●長谷川 

メディアを含めた社会全体が、トップダウン型の効率的な企業体になるべきだと思っている。

○杉田 

加えて安倍さんの言動のベースには、〝メディア等に不当に攻撃されている“、という被害者意識があるようですね?
首相たる者、メディアや野党の批判も甘んじて受けなければ、などという「建前」に準じていても損だ、と。
しかもそこが一部の有権者の感覚とも共振している。
戦後日本の「建前」に添って過去の歴史を反省していたら、近隣諸国につけこまれ、日本は損をする。
「本音」を表に出すべきだ、と。

●長谷川 

だから戦後日本の「建前」を凝縮したかのような「村山談話」などの談話は「いやだ」と。
本音ベースの「70年談話」を作りたい、という思考の道すじになるのでしょう。



「〝タガ″を外せば目途を失う、「未来志向」は現実逃避」


○杉田 

先日ドイツのメルケル首相が来日しました。
戦後ドイツもさまざまな問題をかかえていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。
「建前」がソフトパワーにつながることを、安倍さんたちは理解しているのでしょうか?

●長谷川 

そもそも「談話」が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念がからまる記憶の問題です。
記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくらつめても、決着はつかない。
厳密な歴史のレベルで、仮に日本側は中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。
相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと、政治的な判断をした。
それが「河野談話」です。

○杉田 

「談話」の方向性や近隣との外交について、安倍首相は「未来志向」という言い方をよくされますが、意図はどうあれ、それが「過去の軽視」という見かけをもってしまえば、負の効果は計り知れない。
安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれませんね?
しかし政治の存在意義は、さまざまな制約をふまえつつ、なんとか〝解”を見出していくところにあります。
政治的な閉塞感が強まる中で、自らに課せられている〝タガ″を外そうという動きが出てくる。
しかしそれで万事うまくいくと考えるのは、一種の「現実逃避」では?

●長谷川

合理的な自己拘束という概念が、吹っ飛んでしまっている印象です。
縛られることによって、より力を発揮できることがある。
俳句は「5・7・7」と型が決まっているからこそ、発想力が鍛えられる。
しかし安倍さんたちは、選挙に勝った自分達は、何にも縛られない。
「建前」も「法律」も、「憲法解釈」も、すべて操作できると考えているようです。

○杉田 

俳句は好きな字数で詠めばいいのだ、と。。

●長谷川 

あらゆる「タガ」を外せば、短期的には楽になるかもしれません。
しかし政権が交代した時、自分達が「時の政府」を踏みとどまらせる歯止めがなくなる。
外国の要求を、「憲法の拘束があるから」、と断ることもできない。
最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。
その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。


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